相葉影嗣(あいば かげつぐ) …二十歳、刈谷道場の門弟、相葉家の次男部屋住み
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十五歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …刈谷道場の本来の持ち主
刈谷勝之進(かりや かつのしん) …(故人)新左ェ門の父
刈谷九郎兵衛(かりや くろべえ) …(故人)新左ェ門の祖父で福田の師
堀田 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
橋本 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村親成(まきむら ちかなり) …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村加代 …牧村の妹

   虎落笛(もがりぶえ) 

 藩に牧村を討ったという知らせが届いたのは、梅雨の頃だった。
大命を果たしたと、討手の家の者達は喜んだ。戻って来た時には華やかな祝宴が、催おされる事となった。牧村に返り討ちにあった家の者達は、武士として恥じぬ死に様を名誉とし、こちらも大掛かりな葬儀を行なう予定である。
 相葉家には祝辞を述べに多くの人々が訪れていた。影嗣をぜひ婿に、という者も何人かおり、中には五百石の西井家の姿もあった。西井家の一人娘の奈美は器量良しで知られている。影嗣が戻ってきたら、話はとんとん拍子に進むに違いないと皆は噂した。
 騒がしく噂が飛び交う中、福田の心中は複雑だった。
 相葉が無事帰ってくる事は嬉しい。だが、倒した牧村は同門弟で親しかった人物なのだ。
『辛かっただろうに………』
 彼の最後に見た熱い瞳を思い出して、福田は頬が熱を帯びるのを感じた。
『……俺は絶対帰ってきます……あなたの元に………』
 あの日の相葉の言葉が耳に蘇る。
 彼はまだ若くて、申し分ない家柄の出だ。男前で性格も良く、武道も飛び抜けているときてる。もっと出世できる男なのである。彼にとって自分はなんの役にもたたないだろうと、福田は思っていた。
 今回の件で、藩中でも覚えめでたくなった彼は、将来を約束されたも同然である。しかも五百石の西井家の元に婿入りすれば一国一城の主人となれるのだ。
『それが一番いいのだ、影嗣の為には………』
 そう思いながらも福田の胸は少し痛んだ。なぜ痛むのか分からなかった。

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 夏の蒸し暑い夜、部屋で眠っていた福田は夜中にふと目を覚ました。
 誰かいる?
 福田はそっと上半身を起こして、部屋の障子を見つめた。月明かりに庭の木々の影が映っていたが、そこに人の影が浮かびあがる。
「……誰だ……?」
 殺気がない、と感じた福田は静かに尋ねた。
「……相葉です……福田さん………」
 その言葉に、福田の胸が大きく弾む。
「…影嗣……なのか……本当に………?」
 障子が音もなく開き、一人の男が跪きながら、部屋に入って来る。後手で障子を閉めたその男はまちがいなく相葉であった。
「……影嗣……どうした?」
「……………」
 相葉は福田の寝間の横に無言で正座する。
 一年ぶりに会う相葉は痩せていた。しかし、やつれたという感じではなく、身体の余分なものがそぎ落とされ引き締まった、といった感じだ。微かに残っていた幼さが消え、精悍な男の顔だちになっている。
 福田の胸の鼓動が、少し早くなった。
 動揺を悟られまいと、福田は声を秘そめて話した。
「……帰ったのか。他の者達もか?」
「……自分だけ先に来ました。柏木さん達は明日帰ってくる予定です」
「……家には帰ったのか?」
「いいえ………」
「どうして?皆待っているだろうに真っ先に顔を見せてやれ」
「……真夜中にこそこそと恥を忍んであなたに会いに来ました」
「……………」
「……友を切った男は盗人の真似さえも出来るようになったのです」
 相葉が自虐的な言葉を口にするのを福田は初めて聞いた。今度の旅がどれだけ彼にとって苦しかったか、一瞬にして分った気がする。
「……無事帰ってきて良かった……おかえり………」
「……俺が牧村に勝てたのは、あなたの所の帰るという欲があったからです……」
「……………」
「絶対に生きてあなたにもう一度会うのだと……牧村は愛しい人にはもう会えません。彼と俺の違いはそれだけでした」
「……影嗣………」
 相葉、俺を切るか?と言ったあの時、牧村は切って欲しかったのだ。
 牧村家の嫡男として回りの期待に応えて生きて来た彼。切腹をしなかったのは、せめて最後にそんな自分に逆らいたかったからなのだと、相葉は気付いた。
 『俺のようになるな』と言った彼の言葉が耳に痛い。
 自分も相葉家の立派な次男、という条件を満たす入れ物にされようとしている。そんなのはごめんだった。他人のいいなりになって生きる人生に何の意味があるというのだ。目の前の福田は以前と変わらず、穏やかで透明な気を放っている。
 この人を自分はどれだけ愛しているだろうか。離れていた間、どれだけ会いたかっただろうか。自分でも想像していなかった程の、熱い想いが込み上げてくる。
 相葉は身を近付け、福田の頬に触れた。
「……気付いていますよね………」
「…………」
「俺は……あなたが好きです………」
 相葉は福田の唇に自分のそれを重ねた。
「……ん…ん………」
 そのまま福田の身体を夜具に押し倒し、帯に手をかける。
「…か、影嗣……な、なにをする気だ……」
 福田は慌てて相葉の手をとめようとしたが、彼は福田の様子を気にする風もなく、上にのしかかってくる。
「あなたが欲しいのです。旅の間、あなたの事を考えない日はありませんでした」
「……そ、そんな…ま、待て……」
「待てません」
 相葉の手が福田の帯をほどき始めた。
「や、やめてくれ…影嗣……」
 福田は身を捩って逃げようとしたが、押さえ付ける相葉の力は強かった。わずか一年の間に、こんなに逞しくなったのか、こんなにも大人の男に成長していたのか、と驚いた。本気をだせば振りほどけるだろうが、福田は相葉に対して乱暴するのを躊躇っていた。自分から行動を止めて欲しいのである。
「やめてくれ、影嗣」
「やめません!」
 相葉の悲鳴のような声に福田は動きを止める。
「止まりません…どうしても俺を止めたいのなら、いっそ殺して下さい………」
「……影嗣………」
「そうでもしなければ、俺は止まりませんよ」
「……………」
 相葉は再び福田に口付けると、襟を大きく開けさせた。あらわになった彼の項に軽く噛み付く。
「あ……!影嗣…かんべ………」
 福田ははっとして口をつぐんだ。自分の言おうとした言葉に愕然とする。
 勘弁してくれ
 自分が言うのか、あの言葉を。おまさに言われたあの言葉を自分が!?
『あ……私は……』
 福田は自分こそが影嗣を自分の望むものになれ、と強制している、と気が付いた。
 仲の良い子弟関係でいたい、という自分の希望に………
 だが、彼の望みはそうではなかった。彼は自分を求めている。その想いは強くて、真摯なものなのだ。熱い情熱を全力で自分にぶつけてくる。
 道場で抱き締められた時のように逃げられない。本当に彼を止めたければ、乱暴に足掻いて逃げるか、切るしかないのだ。しかし、福田はどちらも出来なかった。
 抵抗しなくなった福田の身体をうつ伏せにして、相葉は彼に触れ始めた。こみあげてくる快感に堪えようと、福田は目を閉じ、夜具にしがみつく。淫らな声をあげそうになるのを、布を噛んで押さえていた。
「……ふ………」
 自分が濡れていくのが分かる。自分の身体なのに、思いどおりにできないじれったさから、福田は頭を振った。相葉の荒々しい、でもどこか優し気な手が触れる度に身体が熱くなる。追いつめられていく………
「う…ん………く!」
 相葉の手を濡らした福田はぐったりと脱力して、夜具の上に四肢を投げ出した。頭の中が霞みがかった状態になっていると、相葉が後ろから腰を高く持ち上げる。
「……あ!……」
 とんでもないところに濡れた感触を感じて、福田は思わず目を開いた。今まで閉じていた為、昼間のように明るく見える。
 湿った空気の中、月光に照らされた部屋が、いつもと違って見える。
 確かに見慣れた筈の部屋なのに………
 自分とは思えない甘い息遣いと、衣づれの音が響いている。
 すべてに見られている気がした。
 月光に、風に、夜のとばりに………
 激しい羞恥心が胸に沸き上がり、また目を堅く閉じて顔を伏せる。
「……福田さん……」
 名前を呼ぶ相葉の声が掠れている。
 背中を愛撫していた相葉が福田の身体を仰向きにした。驚いて開いた福田の目には、うっすらと涙が滲んでいる。ずきり、と相葉の胸が痛んだが、言ったとおり止まりそうもない。福田が愛しくてたまらなかった。
 額に口付け、相葉は福田の足を抱えた。
「ああ!」
 福田は悲鳴をあげて相葉の背中にしがみつく。
 激しく揺さぶられて、福田は自分の内に相葉の熱い想いが入ってくるのを感じた。もう何も考えられない。羞恥心も、戸惑いもなく、ただ、彼のもたらす快感しか感じられなかった。
 まるで深い海の底にいるような感覚だ。大きな波の中に溺れている自分がいる。
 そっと瞳を開いた福田は、海の底から太陽に照らされて輝く水面を見た気がした。

       *

 夜が明けた頃、目を覚ました相葉は、横に眠っている筈の福田がいないのに気がついた。
 慌てて飛び起き、単を素早く着る。家の中を探すが彼の姿はなかった。思いたった相葉は海に足を向けた。
 夜明けの浜辺に強い風が吹いている。砂浜の打ち上げられた流木に福田は腰かけていた。
 相葉が近付くと、福田が振り返る。いつもと変わらない微笑みを向けると、視線をまた海に戻した。相葉もそんな彼の横に立ち、海を見つめる。
「福田さん……」
「ん………?」
「……すみませんでした………」
「……………」
「……あなたが抵抗しないと、俺は分っていました。それに、つけこみました………」
「……………」
「卑怯でした。すみません……」
 分っていたが、どうしようもなかった。つきあげてくる熱い想いに支配されていた。
「……違う………」
「え………?」
「……お前を受け入れたのは私の意志だ……」
「………………」
「…お前のせいではない………」
 抵抗できれば出来たのだ。相葉は激しい抵抗をうければ、きっと行為を止めていただろう。しかし、自分はそれをしなかった。
 彼の苦しい心を、熱い気持ちを受けとめてやりたかった。
 それが彼の求めているものかどうか分からない。しかし、彼だから許したのだ、という事は分かる。
「…影嗣……お前は………」
「はい……?」
「私にないものを持っている……」
「え………」
 何故、それ程までに強くなれるのだろう。
 熱い情熱も、強い執着心も、真直ぐに向けられる意志も、自分は持っていないものだ。人の世界と違うものの世界の狭間にいる自分には………
 福田は優しい瞳を相葉に向けた。
 その瞳に捕らえられ、彼があまりに透明に思えて相葉は胸がせつなくなる。
「……福田さん……」
「……影嗣…泳ぐか………」
「え………」
「水はあまり冷たくないぞ」
 そう言って立ち上がった福田の腕を相葉は掴んだ。
「……どうした?」
「……いえ……その……海水は傷にしみるから止めた方が……」
 相葉の言葉の意味を福田は一瞬分からず、きょとん、としていたが、気付いた途端顔が真っ赤になった。そっぽを向いたので、耳まで赤くなっているのが相葉に見える。
「福田さん……」
 腕を優しく引き寄せ、相葉は彼を抱き締めた。福田は抵抗もせず、黙って腕の中にいた。
 先程、傷に悪いから、と引き止めたが、本当は福田に海に潜って欲しくなかったのである。
 深い、深い海に潜る彼は自分の手の届かないところに行ってしまうから………
 今だけは自分の腕の中にいて欲しかった。どこにも行かないように、と抱き締める手に力を込める。いつかの道場で彼を抱き締めた時、空を掴んだ感覚を思い出す。
 あの時の喪失感を………
 また味わうだろうと分っていたが、抱き締める手の力を緩められなかった。

    終

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