相葉影嗣(あいば かげつぐ) …二十一歳、刈谷道場の門弟、相葉家の次男部屋住み
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十六歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …刈谷道場の本来の持ち主
刈谷勝之進(かりや かつのしん) …(故人)新左ェ門の父
刈谷九郎兵衛(かりや くろべえ) …(故人)新左ェ門の祖父で福田の師
堀田 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
橋本 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村親成(まきむら ちかなり) …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村加代 …牧村の妹

   虎落笛(もがりぶえ)雪華の章 


 道場の帰り、福田は提灯を下げて夜道を歩いていた。
 あの夜から相葉は福田へ会いに来なかった。噂によると、いろんな所から祝宴の誘いを受けて、大忙しらしい。老中からも呼び出しを受けているようである。
 道場にもまだ一度も顔を見せに来ない。その事を淋しく感じている自分に福田は驚いた。
 相葉は他の門弟達と同じだ、と必死でそう思おうとした。だが、相葉ほど自分に近付いてきた人はいなかったと、福田は気がついたのだ。
 子供の頃から、どこか他の人と自分には見えない壁があるように思えていた。どこか越えられない一線があると。あのおまさとの間にも。
 人々も何かを感じるらしく、親しくはしてくれるが、ある一定の距離を保つのである。
 刈谷九郎兵衛が死の間際、病症の床で尋ねた言葉を思い出す。
『人の中で生きていくのは辛くないか?』
 福田は『いいえ』と答えた。
『……水月の剣をもつものは、人と違うものとの間に挟まれる事になる。どちらからも愛されると辛いぞ』
『……しかし、私はどちらも美しいと思いますから』
『私はついに水月の神髄にたどり着けなかった。私の師匠もだったが、ある意味それは幸運だった』
『…え……』
『師の師は水月を会得した人だった。私は一度だけ、その剣を見た事がある。信じられない程澄んだ剣だった。お前のように……』
『……先生……?』
『……福田…お前もあの美しい剣を手に入れた……お前に比べればどんなに輝く月も見劣りするだろう……』
『…………』
『……人生の最後に、お前に剣を伝えられたのは、私にとってどれ程の喜びだったか分からないだろうな……この為に私は産まれてきたのだと言える……』
『…………』
『お前も、水月を会得する為に産まれてきたのだ。自分でも分かるだろう?』
『…………』
『青は藍よりいでて、藍より青し……か……だが、お前は青という色さえもないほど透明で澄んでいる……』
『…………』
『……とても…人とは思えぬぞ………』
 九郎兵衛は人里離れたところで暮す方がいい、と薦めてくれた。福田自身もそれが自分に合っているのだろうと分っていた。
 何者にも心を乱されず、自然に愛されながら暮せれば、穏やかな時を過ごせるだろうと。
 けれど、福田は人が好きだった。身分に関係なくいろんな人と話したり、関わったりするのは楽しいものだ。その中に入れなくても、彼等の熱い情熱や時にむき出しになる野心さえも、愛しく感じる。
 たとえ汚れていたとしても、自分にはないものを持つ彼等に憧れる。
 相葉も自分にはないものを持っている。それは他の者達と同じだったのだが、いつの間にか彼は他の誰とも違う存在になっていた。
 誰にも話さなかったさんしょっ子の話を、相葉にだけはした。
 彼であれば、大丈夫だと思ったからである。
『お前は青という色さえもないほど透明で澄んでいる……』
 と、師は言ったが、それ故に、どんなものも自分を通りぬけていく。光りが水をすり抜けるように……
 相葉は自分に落ちてきた華だった。
 その華によって福田は色と影を知ったのである。
 夜道を歩きながらいろいろと考え事をしていた福田だが、足を止めて、軽くため息をついた。そして後を振り返り
「誰です」
 月明かりの中、誰もいない道に向かって声をかけた。
「いくら姿を隠してもその殺気を消さなければ意味をなしませんよ、誰です。私を福田謙二郎と知ってつけるのですか?」
 うす暗い夜の道に、一人の男が音も無く出てきた。
 かなり小柄な男で、福田は一瞬子供かと思ってしまう。だが、その顔はあきらかに大人の男のもので、奇妙な不釣り合いを感じる。
「何かご用ですか?」
 福田が静かに尋ねるが、男から滲みでている殺気は一向に衰えなかった。
「雪華(せっか)の剣は帯刀しておらぬようだな」
「…………」
「雪華の剣を私にお渡し頂こう」
「なぜです?」
「あれは私の剣だ。私こそ相応しい持ち主なのだ」
「……あれは水月の剣を継ぐ者に与えられると聞いていますが、あなたも水月を体得されているのですか?」
「私は倶梨伽羅(クリカラ)より力を授かった身だ。水月など恐るるに足りん」
「…………」
 倶梨伽羅とは不動明王の変化したもので、炎の中で黒龍が剣に巻き付いた像で表す。それから力をもらったなどと話すからには、かなりの遣い手だろう。それは今こうして対峙している間の緊迫感からも分かるものだった。
「雪華を持っていれば、ここでお前の命を奪い、もらっていこうと思っていたのだが、帯刀しておらぬならばしょうがない。後日、改めるとしよう」
「…………」
「命が惜しくば私に差し出せ」
 男は現れた時と同じように、音も無く消え去った。福田は目を瞑り辺りの気配を探ったが、本当に行ってしまったらしい。
『何かやっかいな事になってきたな』
 あの男の目は普通ではなかった。多くの者を殺めてきたに違いない者の目だった。
 しかし、彼はどこで雪華の剣を知ったのだろう。水月の剣はほとんど知られていないというのに……
 不吉な予感がする。
 福田は沈んだ気持ちを抱えながら家に帰った。

       *

「伊井先生、お久し振りです」
 次の日、相葉が伊井に挨拶をしに道場を訪れた。福田は彼の姿を見て、胸が高鳴るのを感じた。
「相葉、久しぶりだな〜やっとお前の顔まともに見れたよ」
「本当に。いつも大勢の人に囲まれてて、話すどころか、近付くことすら出来なかったもんな」
 門弟らが、相葉を囲むようにして近付いた。
 痩せたんじゃないか、とか旅の話を聞かせろ、などと口々に話しかけるが、牧村の名前を出す者はいなかった。相葉の心中を察しているのである。
「遠縁の親戚達もやっと帰ってな。やっとこうして外出できる時間がもてたので、挨拶に来たんだ」
 道場に入った相葉は古巣に帰ってきた、と嬉しそうだった。
 そんな彼の様子に福田もほっとする。
「伊井先生。明日からまた稽古をさせていただいてよろしいでしょうか?」
「ああ、構わない。旅の間に腕が衰えていないか私が見てやろう」
 門弟達は、伊井の剣が見れると、どよめいた。
「そういえば、相葉、お前西井家から縁談が持ち込まれたんじゃないのか?」
 福田は堀田の言葉に動揺した。
「あれか。あの話はなくなった」
「ええ〜、どうして〜!」
「向こうから断ってきたんだ。なんでも、昔、遊女通いをしていた男に大切な娘はやれんとか、なんとか言って」
「なんだそれ?」
「本当に遊女通いしてたのか?」
 堀田がここぞとばかりに聞いてくる。
「…さてね……」
 一年前、本郷虎之助の所行を知る為に遊女通いをしていたが、相葉は誰にも話していない。あの福田にさえも、理由を話していない。
 これは自分が一生心に秘めて生きていく事だと相葉は決心していた。
「でも、なんでそんな噂が西井家に?」
「どうも、密告があったらしい。投げ文で……」
 相葉はそう言いながら、福田の顔をちらりと盗み見る。目が合った福田は、密告をしたのは相葉本人なのだと悟った。
『どういうつもりだ!?』
 という言葉を声にださずに相葉に放つと、相葉は思わせぶりな瞳を向けてきた。
『変わらないと言ったでしょう』
 そう言っているような瞳で、福田は顔に熱を感じて、背中を向けた。
 一年前は四角四面な性格で、融通がきかなかったというのに。
 旅の間に相葉はしたたかさを身につけたようである。悪く言えばずる賢くなったのだ。
 しかし、福田は変わった相葉がさらに深く、魅力的になったみたいで、微笑みを浮かべた。
「よ〜し、今夜は相葉の帰省会やろうぜ!」
「おう賛成〜」
「伊井先生、構いませんよね」
「ああ、では今日の稽古はもう終にしよう。おそらく皆、集中できんだろう」
 伊井の一言で稽古は中断となり、相葉は大勢の友達に引きずるように連れていかれた。福田を振り返りながら、未練たっぷりで、福田は笑いを堪えるのに必死だった。
「…無事帰ってきて、良かった……」
 伊井の呟きに福田は頷いた。

「どこに行く?」
「やっぱり『鬼熊』かな」
「おう、あそこの魚は旨いからな」
 大勢で道中を騒がしく歩きながら、黙っている相葉をよそに、他の門弟達は勝手に盛り上がっている。相葉は福田に一言も声をかけられなかった事が不満で不機嫌だった。
『まあ、いいか。明日にでも家に行けば……』
 しかし、福田の家で二人きりで会った時、相葉は自分が何をするか分からなかった。冷静でいられるだろうか?彼の体温を知ってしまったというのに……
 道場であれば、大勢の人がいるから大丈夫だと思ったのに。
 軽くため息をつく相葉の目に、一人の男が映る。
 その男はこちらに向かって歩いていて、子供と見違うぐらい小さかった。が、顔は十分年をとっており、いやに身体と違和感を感じる。
 男は相葉の横を通り抜け、すぎさる瞬間こちらを横目で見た。男を目で追っていた相葉と視線がぶつかる。
 相当な遣い手だ……
 と、相葉は直感で分った。
 そして、なぜか奇妙な胸騒ぎを感じて、相葉は自分を変に思ったのだった。

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