相葉影嗣(あいば かげつぐ) …二十一歳、刈谷道場の門弟、相葉家の次男部屋住み
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十六歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …刈谷道場の本来の持ち主
刈谷勝之進(かりや かつのしん) …(故人)新左ェ門の父
刈谷九郎兵衛(かりや くろべえ) …(故人)新左ェ門の祖父で福田の師
堀田 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
橋本 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村親成(まきむら ちかなり) …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村加代 …牧村の妹

   虎落笛(もがりぶえ)雪華の章 


 次の日、相葉は道場に訪れた。師範である伊井は彼にしては珍しく、まだ来ていなかった。相葉は真っ先に福田に近付いた。
「お久し振りです。福田さん」
「……ああ……」
 相葉の熱い視線を受けながら、福田は冷静を装った。そこに、橋本らが相葉に声をかけてきたので、皆と共に練習をし始め、視線が反らされた福田はほっとする。
 昼過ぎになってからやっと伊井が道場に現れるが、何かあったらしく、その表情は険しかった。
「……遅くなってすまんな……」
「いや……何かあったのか?」
「ああ……相葉は来ておるようですな。曾根崎は…いないか……」
「何か?」
「……福田殿、稽古が終わったら、相葉いっしょに私の書斎に来て下さい」
「え?」
 福田は少しどきりとする。相葉と自分との事を何か知っているのかと思ったのである。が、すぐにその可能性は低い事に気付く。おそらく今日、遅れた理由と関係あるのだろう。
『相葉家から何か頼まれたのかもしれないな……』
 昨日、西田家との縁談が破談になったと聞いて、相葉と父親との間がまたまずくなったのではと、福田は気掛かりだったのである。
 だが、稽古が終わり、書斎に集まった福田と相葉が聞かされた話は以外なものだった。
「道場破り……ですか……」
「ああ、昨日の夕刻、弓削道場に一人の浪人が試合を挑んできたそうだ。結果、三人の高弟が死んだ」
「三人も!?」
「今朝、弓削道場の門弟が来て、その話をしてくれたのだ。道場主の弓削も大怪我を負い、診療所に運び込まれた。今だに意識が戻らないらしい」
 弓削甚平は一刀流の超一流の遣い手なので、その弓削を倒したとなると、かなりの腕前である。
「……では弓削道場は閉めるのですか?」
「多分、弟の弓削正八が継ぐ事になるだろう。この話は公にされていない」
「…………」
 一介の浪人に門弟だけでなく、主も破られたとなれば、その道場の沽券にかかわる。剣客同士の試合での死は犯罪でないので、訴えられないし、隠した方が道場の為になると考えたのだ。
「それに男は道場の看板を持っていかなかった。代わりに弓削家に代々伝わる宝刀、備前長船(びぜんおさふね)の大太刀を持っていったそうだ」
 福田はもしや、と思った。
「その男の名はなんです?」
「平川彦蔵と名乗ったらしいが、本名かどうか……」
「その男の流派は?」
「わからん。言わなかったらしいのだが、なんでも倶梨伽羅より力を授かったとかなんとか……」
 黙って話を聞いていた福田ははっと顔を上げた。やはりあの男か?!
 福田が驚いている間、横から相葉が口を開いた。
「その男の話は聞いた事があります」
「何?相葉、お前知っているのか?」
「旅の途中で寄った大坂の道場で聞きました。二十代後半の顔だちで、子供のような体つきをしており、恐ろしく身軽とか。あちこちの道場で試合を挑み、名刀をもらっていくと……」
 もしや、昨日道ですれ違った男では?と相葉は思った。
 無意識だったが、この話を聞いていたので、あの男を見た時嫌な予感がしたのだ、と気付く。
「うむ、私が聞いた男の風貌と一致するな。他には何か聞いていないか?」
「残念ながら……かなりの数の剣客がその男によって命を奪われているらしいのですが、公にする者は少ないので情報が入ってこないようです」
「うーん、もっと詳しい話が知りたいのだが……」
「文を送ってみましょうか?何か分かるかもしれません」
「そうだな、相葉、頼まれてくれるか?」
「分かりました」
「ところで二人を呼んだのは他でも無い、名刀の事だ」
「…………」
「相葉家には代々伝わる名刀、早州正宗(そうしゅうまさむね)の太刀が、福田殿には雪華の剣を所有しているだろう。男の狙いが宝刀であるなら用心した方がいいのではないかと思ってな。曾根崎家にも宝刀があったと噂があるので、後で屋敷を訪ねるつもりだ」
「…………」
 井伊が一言も口をきかない福田に顔を向ける。
「まあ、雪華の剣は知る者がほとんどいないので、福田殿は大丈夫だとは思いますが」
「……私のところにはもう来た……」
「何!?」
「え!?」
 伊井と相葉は驚いて福田を見た。
「二日前、道場からの帰り道で。隙あらば闇討ちにする気だったのだろう」
 相葉は思わず目を細めた。
「男はなんと?」
「命が惜しくば雪華の剣を差し出せと言った」
「……どこで雪華の事を知ったのでしょう?」
「……分からない……水月も知っている様子だった」
「……これは早急に調べた方がよさそうですな……相葉、さっそく文を送ってくれ」
「……分かりました……」
「では、私は曾根崎家に行ってくる。福田さん、あなたはどうしますか?」
「別にいつもどおり自分の家に帰るよ」
「なんでしたら雪華の剣を持って私のところに来ますか?」
「……いや……大丈夫だ……」
「私がお供します」
「え……」
 相葉の言葉に福田は彼を驚きの目で見つめた。
「私が福田さんの側にいます」
「……相葉…お前がいたところでどうにもならんだろう。それより、家に帰り名刀を守れ」
 伊井が少々厳しい口調で言い放つが、相葉は引かなかった。
「剣は家を継いだ兄のものです。私が守る責任はありません」
「随分無責任な言いざまだな、相葉……相葉家の者として、家の碌を守る義務があろう。それに、こう言ってはなんだが兄上の剣の腕では倒されるのは目に見えている」
「兄でしたら自分は立合わないでしょう。男の力量が分ったならすぐに刀を差し出す筈です」
「だからこそお前が守るべきではないのか?」
「私は名刀の為に命をかける気はありません。刀ごとき、くれてやればいいのです!」
「相葉!口がすぎるぞ!」
 声を荒げる伊井と相葉の間に緊張が走ったが、福田が軽く吹出したので、緊張が解けてしまう。
「福田殿……」
「ああ、すまん…影嗣の言うとおりだな」
「福田殿まで、何を……」
「いや、名刀を軽んずるつもりはないが、物が命より大切になってはいけないと思ってな。そういう意味では相葉の言い分は正しいだろう」
「……まあ……そうかもしれませんが……」
「だが、私のところに来るのはいかんぞ、影嗣。とりあえず家に帰りなさい」
「厭です」
「だめだ、帰りなさい」
「…………」
「伊井もはやく曾根崎家に行った方がいい。私も帰るとしよう」
「分かりました」
 福田の言葉に三人は立ち上がり、道場を出た。
 が、家に向かって歩いた福田の後を、相葉も歩き始める。
「影嗣、家に帰りなさいと言った筈だぞ」
「厭です」
「……伊井も言っていただろう、お前がいても何もならない」
「…………」
 そうだ、確かに福田が剣で負ける筈はないと分っている。しかし、もしかしたら男は卑怯な手を使ってでも剣を奪おうとするかもしれない。白い心根の福田だから、相手の罠にはまってしまうのでは、と相葉は福田が心配だった。
「家に帰り策を練った方がいい」
「……福田さんはどうするつもりです?あの男が来たら戦うつもりですか?」
「…………」
「それとも雪華の剣を渡すつもりなのですか?先程物が命より大事になってはいけないと言いましたから……」
「……雪華の剣が私一人の物なら欲しいという奴にくれてやるのだが、あれは今までの人の想いが詰まっている……」
「…………」
「刈谷九郎兵衛殿や、その前の水月を受け継いだ者達の想いがな……」
「…………」
「それに雪華は一度も人の血を吸っていない……」
「え………」
「あの血に飢えた男の元にやるのは不憫だな……」
 相葉はしばし、呆然とした。
 それは、つまり水月の剣を継いだ者は、今まで誰一人として、人を殺めていない事を意味するからである。
「……では、戦うつもりですか?」
「そうなるな……」
 もし、その男が中途半端な技では倒せぬ程強かったら?命を奪わなければ止まらないとしたら?
 相葉はその時、福田が人を殺せるとは思えなかった。
 血を流して倒れる福田の姿が浮かんできて、相葉は背筋が寒くなる。
「影嗣、早く帰りなさい」
「厭です…あなたの側を離れません」
「影嗣……」
 福田は軽くため息をつく。
「私の事は心配するな。別に命を粗末にしたりしない」
「……大切な人が心配なのに、何故側にいてはいけないのです?」
 福田は足を止める。
「影嗣……頼むから帰りなさい……」
「怖いのですか?」
「え………」
「俺と二人で家にいるのが怖いのですか?」
 あの熱い夜が思い出されて、福田は頬に熱を感じる。振り返ると、はまっすぐに自分を見つめていた。いつもの熱い視線で……
 もう、その瞳の意味も、想いも知っている。何を言っても無駄だと福田は悟った。
「……勝手にしなさい……」
「…………」
 歩きだした福田の後ろを相葉が歩いてくる。背中が燃えるように熱いと福田は思う。
 相葉の想いは真摯で、強くて、容赦がないので、福田は胸が痛かった。

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