相葉影嗣(あいば かげつぐ) …二十一歳、刈谷道場の門弟、相葉家の次男部屋住み
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十六歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …刈谷道場の本来の持ち主
刈谷勝之進(かりや かつのしん) …(故人)新左ェ門の父
刈谷九郎兵衛(かりや くろべえ) …(故人)新左ェ門の祖父で福田の師
堀田 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
橋本 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
平川彦蔵 …謎の剣客

   虎落笛(もがりぶえ)雪華の章 

 その日の稽古は早く終わった。伊井は門弟達に用事があると説明していたが、相葉はその理由を知っていた。稽古が終わると福田はすぐに道場を出て行った。まだ約束の時刻には間があるので、どこかに立ち寄るつもりなのだろう。相葉は息がつまって、倒れそうだった。
 今日の稽古でも福田はいつもと変わりなかった。そんな様子さえも腹立たしく感じる。
 一体自分の気持ちをなんだと思っているのだ?
 自分がどれだけあなたを想っているか、なぜ分からないのだ、と相葉は大声で福田に怒鳴り付けてやりたかった。
 もちろん相葉は鳴神の滝に行くつもりである。誰もいなくなった道場で気を鎮めようと、相葉は目を瞑り正座した。そして、出かけようと立ち上がった時、伊井が道場に入ってくる。
「相葉、お前が頼んでくれた手紙が届いたぞ。読むか?」
「……はい……」
 大坂の道場で平川について何か知っている事はないか、と問い合わせた返事が来たようである。
 素性についてはまったく分からないとの書いてあったが、その戦いぶりや、言動などが少々書かれてあった。
「平川なる男は相当身軽なのだな。人の背を飛び越えるぐらいの跳躍力があり、実に俊敏な動きをするようだ。あやつと対峙する時は間合いを掴まれてはならないだろう」
 その得意な跳躍を活かして、人の懐に飛び込むか、飛び越えて後ろに回るかして相手を討つようである。
「人を殺す事が好きなようですね……」
「ああ、主人の仇を討とうとした妻子さえも殺めている。狂人だな……」
「…………」
 相葉は手紙を伊井に返し、道場を出ようとしたが、伊井が前に立ちふさがる。
「相葉、どこに行く気だ?」
「…………」
「鳴神の滝か、行ってはならんぞ。ここにいろ」
「お断りします」
 伊井を避けて通ろうとするが、またしても伊井は前に立ちはだかった。
「どいて下さい」
「ならん。お前はここから出さん」
「……福田さんに頼まれたのですか?」
「そうだ」
 相葉の心に怒りが沸き上がる。強引に押し通ろうとするが、伊井に肩を掴まれて、思いきり突き飛ばされた。相葉は床をすべり、道場の中央まで転がった。
「出さないと言った筈だ」
 相葉は起きあがると、壁にかけてあった木刀をとって伊井に向ける。
「では、先生を倒して行かせてもらいます!」

 福田は誰かに呼ばれた気がして、振り返ったが、気のせいだった。鳴神の滝までは一刻(二時間)もかかるので、福田は雪華の剣を取りに家に帰ると、すぐに出た。雪華以外には竹でできた水筒しか持っていない。
 相葉の事は伊井に頼んでいるので大丈夫だろう。伊井に適うわけがないのだから。
 『影嗣…怒っているだろうな……』
 福田の胸が痛んだが、彼の為にはこれがいいのだと自分の心に言い聞かせた。
 彼には幸せになって欲しい……自分の事など早く忘れるべきなのだ……
 突き刺さるような胸の痛みを押し殺して、福田は何度も何度もそう言い聞かせた。

 相葉はまた床に転がった。もう何度目なのか分からない。伊井も木刀を持って相葉に向うが、軽く振るうだけである。にも関わらず相葉はまるで歯がたたない。力の差がありすぎるのだ。
 だが、相葉は荒々しい息をしながら立ち上がり、伊井に向って構える。
「はっ!」
 木刀で打とうとしたが、なんなく伊井はかわし、相葉を突き飛ばす。また、床に仰向けに転がるが、相葉は上半身を起こして木刀を掴み直した。
「相葉、もういい加減にしろ!」
「…………」
「私はお前を行かせる気はない。あきらめろ」
「…………」
「お前が行ったところで何も出来ないのだぞ。行って何をするつもりだ?」
「……俺が…戦います……」
「お前の適う相手ではない!命を無駄にするな!」
「……では福田さんなら勝てると……?」
「……水月は負けん。あれは人の剣ではない。お前も知っているだろう……」
「では、福田さんは人を殺せると……?」
「分からん……だが、お前が戦うよりはよほどましだ……」
「…………」
「相葉、水月は忘れろと言った筈だ。もう執着するな」
「……俺も無理だと言った筈ですが……」
「私はお前に新左ェ門のようになって欲しくないのだ。彼のように運命を狂わせるな」
「……狂わせる…?それはどういう意味ですか?」
「水月にあれ程執着しなければ、彼はこの道場の跡取りとして何不自由なく暮らせたのだぞ。それが修行の旅に出て、今でも行方知れずだ」
 相葉は肩で息をしながら笑った。
「何がおかしい?」
「不自由なく暮らせる事が普通の運命ですか?何の狂いもない人生ですか?」
「相葉?」
「ばかばかしい……」
「どういう意味だ?」
「俺は新左ェ門が運命を狂わせたとは思えません。彼にとって、水月を忘れる方が狂った人生なのです」
「なんだと?」
「彼はいくらでも水月を、福田さんを無視して道場を継げた筈です。しかし、彼はそれをしなかった。彼にとって水月にこだわる事こそが自分の運命だと分っていたからです」
「…………」
「負けたとしても、それを忘れれば良かったのだ。けれど出来なかった。彼はそれが自分ではないと分っていたからだ。彼は自分の為にだけ旅だったのだ。自分の思いどおりに生きる事が本当の運命でなくてなんなのだ!」
「……相葉……お前……」
「俺も同じだ!俺は自分の為にだけ行くのだ!それが自分の選んだ運命だからだ!」
「……私は…お前は水月の剣に執着していると思っていたが……」
「……………」
「……そうか……お前……福田殿のことを……」
「……死んでもいい……」
 相葉は床に座りこみ、血を吐くような口ぶりであった。
 福田と生きる為なら死んでもいい。矛盾しているようなその感情が、相葉の一番正直な気持ちだった。
 伊井はゆっくりと歩き、道を開けた。
「勝手にしろ……」
「……先生……」
「お前の好きにするがいい……もう私は知らん……」
 相葉は立ち上がって道場を出ようとした。
「馬を使うがいい。栗色のやつが一番速い」
 伊井の言葉に相葉は頭を下げる。
「ありがとうございます、先生!」
 遠ざかっていく足音を聞きながら、伊井はぼつりと呟いた。
「……ばかな男だ……」
 相葉も…新左ェ門も……

      *

「またせたな」
 鳴神の滝の前で待っていた福田の前に平川が現れた。
 二人が対峙しているのは滝の前の切り立った崖の上だった。鳴神の滝は轟音を轟かせながら、遥か下の渓谷に水を落としている。その渓谷は深く険しいもので、この滝壺に落ちて生きている者はいなかった。
「雪華の剣は持ってきたか?」
 福田は腰に差してあった剣を抜いて、前に突き出した。美しく、この滝と比べてもその神々しさは見劣りしない。
「それか。それ以外に太刀は持っていないところを見ると、その剣で戦う気なのか?」
 福田は何も言わず、大きく手を振り、雪華の剣を放り投げた。
 雪華の剣は大きく弧を描き、滝の水とともにその淵に吸い込まれていった。白い気を放ちながら、人の手の届かないその深い場所に。もう二度と、人に汚される事はないだろう……
 福田の心は静かだった。
 あっけにとられていた平川だったが、すぐに怒りを浮かべた顔を福田に向ける。
「貴様……」
「…………」
 福田は穏やかな表情で、彼を見つめていた。
「愚弄しよって!許さん!殺す!」
「…………」
 平川は太刀を抜き、福田に向って来るが、福田は一歩も動かず、表情も変えずにじっと平川を見つめ続けた。彼の剣が福田に届きそうになったその瞬間、小柄が飛んできて、平川の腕に突き刺さる。
「!」
「ぐっ、な、何奴!」
 二人が振り向いた視線の先には、森の中から太刀を抜き、走ってくる相葉がいた。
「おのれ貴様〜!」
 平川は太刀を相葉に向けて、彼に飛びかかろうとした。咄嗟に福田は身を屈め、平川の足を払う。
 平川は地面に倒れ、慌てて少しでも迫ってくる敵から離れようと、転がりつつも起き上がり、体勢を立て直した。
 相葉の振り降ろされた剣を受けとめ、大きく後ろに飛び退る。相葉に向って跳躍しようとしたが、相葉は素早く横に動きまわり、距離を測れないようにした。
「うぬ……」
 先程の足を払われた動揺からまだ立ち直っていなかった。平川が飛びあぐねていると、相葉はいきなり突進してきた。
 今まで、横にばかり動いていたので、相葉のこの動きに平川は驚いた。なんとか相葉の一刀目を受けかわすが、先程の小柄で傷ついた手に痛みがはしった為、次の振りが一瞬遅れてしまう。
 相葉の剣は鋭く動き、平川の悲鳴と血飛沫があがった。
 平川の太刀を持った腕が、肘から地面に落ちる。
「ぐおお……」
 平川は血のしたたる傷口を左手で押さえ、後退した。すごい形相で相葉を睨みつけるが、相葉は動じる風もなく言い放つ。
「去れ!」
「…………」
「二度とその姿を見せるな!」
 平川はよろめきつつも、小走りに森の中に消えていった。
 相葉は太刀を振って血のりをきると鞘に納める。そして、大股で歩いて福田に近付き、彼の襟を乱暴に掴み上げた。
「死ぬ気ですか!?」
「……………」
「あんな狂人の前に素手で立ち尽くすなんて、死ぬつもりだったんですか!?」
「……影嗣……」
 相葉の全身は怒りに燃えていて、その顔には血飛沫がかかっている。自分に向けられた怒りなのだと、福田は彼の気持ちを思って胸が痛かった。
 相葉は掴んでいた手を離し、福田を強く抱き締めた。縋るように回された手や、全身は微かに震えている。
「……無事で……」
「…………」
「……本当に無事で良かった………」
 福田はそんな相葉の背中を優しくさすってやるのだった。自分にできるのはこれぐらいなのだ、と感じながら……

       *

 二人は森の中にある洞窟を見つけ、そこで夜が明けるのを待つ事にした。日はとっくに沈んでいたし、一刻も山道を歩くのは危険だからだ。馬は近くの木に手綱をくくりつけてある。
 薪を挟んで向かい合い、二人は長い間無言で座っていた。
 福田は竹筒から水を飲み、相葉に渡す。彼もそのまま水を飲んだ時、やっと口を開いた。
「死ぬ気…だったのですか……?」
 相葉はまた同じ質問をした。
「……いいや……」
「では、どうするつもりだったのです……」
「……そうだな…よけるつもりだった……」
「はあ……?」
「平山の剣をよけるつもりだった。何度でもな……」
「……何度でも……?」
「奴が諦めるまでな……もちろん五体満足で済むとは思っていなかったが……」
「そんな……身ひとつで、よけるだけですか?何も持たずに?」
「使うつもりがないのに、持っても無駄だろう」
「……無茶です……」
「……そうだな……しかし、私にはそれぐらいしか出来ないのだ……」
「…………」
「雪華の剣はもうないからな。一度諦めたら二度と来ないだろうとも思った……」
「……雪華を汚さない為にあんな事をしたのですか……?」
「あれはあるべき場所に還ったのだ…人の手の届かない、汚れる恐れのない所に…雪華のいきたかった場所だろう。それに……私はどうあっても人を殺せない……人の命を背負う勇気がない……それが私なのだ……」
「…………」
「一度自分を見失えば、きっと見つけられないだろう。自分を見失ったまま生きていくなど私には無理だ……」
「…………」
「たとえ死んでも、自分を失う事がなければ本望だ……」
「……それでも、私は嫌です……あなたが死ぬのは……」
「お前が来てくれた時は嬉しかった……ありがとう……命がけで私を守ってくれて……」
「…………」
「だが影嗣……私の事は忘れろ……」
 相葉ははっと顔を上げて福田を見つめた。
「私はお前の為に何もしてやれない……」
 今も苦しめている。
「何かが欲しくて人を好きになるのではありません……」
「……私は変わらない…ずっと、子供のときから何も変わらない……」
「え………」
「幼い頃、将来を約束した女の子がいた。まだ、何も分っていない子供の時だ。しかし私はそれを守るものだと思ってきた。だから、その子が大きくなって結婚していた時は言い知れない淋しさを感じた」
「…………」
「置いていかれたからだ……人は変わり、大きく強くなるが、私は幼い頃のままだった。人を愛する事も、結婚の意味も知らない子供のままで……親の言われたとおり動いていた。そうしておけば、違うことが悟られずに安心だったからだ。そして怖くなった……自分の意志がどこにあるのか分からなくて……」
「…………」
「自分の思うように生きようとしたが、余計に分かるのだ、自分が人と違うのだとな。だが、受け入れられる時がくると思っていた……しかし、そんな時はやってこない。私も異端である事を止められない。それが自分だからだ。私は今でも空気の中にさんしょっ子を感じている……」
「……福田さん……」
「私は変わらない、変われない………私はお前を苦しめるだろう……」
「…………」
「お前に…不幸になって欲しくない……」
「……新左ェ門のように…ですか……」
「……影嗣……」
「伊井先生にも言われましたよ。彼のようになるなと……彼とはどんな関係だったんです?」
「……新左ェ門は…私を憎んでいた……私は彼を嫌いではなかったが、彼は私のやる事なす事気にさわったようだった……」
「……そして彼を不幸にしたと……?」
「……そうだ……」
「分ってないですよ…福田さん…全然分っていない……」
「……影嗣……?」
「彼は不幸ではない。自分の気持ちのままに生きて、何が不幸なのです」
「…………」
「あなたはさっき自分を歪めて生きる事は辛いと言いました。彼もそうです。自分である為に起こした行動です。俺は彼の気持ちがよく分かる」
「…………」
「俺も同じだからです。自分の為に、自分が決めた行動です。不幸になると言いましたが、では何が幸せなのです。誰が決めた幸せですか!?」
「…………」
「幸せにしてくれる人を選んで、愛するのですか?」
 相葉は立ち上がって、炎を飛び越えると福田の横に膝をついた。彼はまっすぐに福田を見つめている。
「俺は自分の欲しいものを知っている。八年前のあの時から、俺の欲しているものはたった一つです」
「……影嗣……」
「それ無くしては、生きる意味がない……」
 この全身を焦がすような情熱に蓋をして生きるなど、死んでいるのも同じだ。と、相葉は思った。何故、分ってくれないのだろう、福田は……自分にとって、あなたに、水月の剣を知らない事の方がどれだけ不幸だったか、どれだけつまらない人生か……
 家の為に、家柄のいい女性と愛のない結婚して、家を大切にする子供をもうけて、また家の為にその子供を結婚させるのか?両親のように。それが幸せなのか?
「…もし…俺が苦しんだとしても、それは幸せの一部だ……」
「え………」
「あなたが与えてくれる幸せの一部だと……そう思えば……」
 耐えていけるか……
 自分の喜びも、悲しみも、すべて彼からだ。彼がいるから知ったのだ。自分の中に、これほどの激しい想いがあるのを……
「…………」
 相葉は福田に口付け、地面に押し倒した。焦がすような情熱が燃えている。荒々しく帯を解くと、相葉は福田の身体をうつ伏せにして、彼の背中が傷つかないようにした。
 炎がつくる影が福田の背中を生き物のように這っている。その背中に唇を寄せて、相葉は手を前にまわして福田の身体を愛撫した。
「…ん……く……」
 声を押さえ、福田は抵抗もせずに、相葉の行為を受け入れている。何故、抵抗しないのか、とは聞かなかった。すでに福田の身体を知ってしまった今では、抵抗されても止めるつもりがないからだ。
 彼が人以外のあらゆる存在から愛されているのを知っている。自分が一番醜く彼を想っているのかもしれない。自分の血で汚れた手で彼に触れている。しかし、福田とひとつになると、その透明な気にふれていると、自分までも澄んでいくようなのだ。どれだけ触れても、彼は汚れる事が無くて……愛さずにいはいられない……
 福田は相葉の想いを感じて苦しかった。どうして、それほどに強くなれるのだろう、それほどの熱い情熱をもてるのだろう。自分にはない強くて激しい人の想いだ。あの憧れたものを相葉は自分に与えてくれる。福田は自分はなんと愚か者だろう、と思った。異端の自分を受け入れてくれる時がくると信じて、それが目の前にあったのに気がつかなかったなんて……
 自分は相葉を愛しく想っていると、福田ははっきりと自覚した。でも、痛い。言ったとおり、自分は変わらず、それが彼を苦しめると分っているからだ。
 彼の手が、唇が触れたところから、身体が朱く染まっていくように感じる。
 初めて自分に落ちた華は、こんなにも甘美な情熱と、息がつまる程の痛みを教えてくれた……
「あ……!…ん…ふ……」
 自分の身体が熱くなって、福田は声を押さえる事ができなくなっていた。頭が熱にうかされたような状態になっていると、そこに相葉の濡れた指が入ってくる。
「…な…や……!」
 もう次の行為を知っている。福田の心の一部が恐怖で冷めた。
「…影嗣……だめだ……やめ……」
 濡れた声で名前を呼ばれて、相葉は身体が熱くなる。
「…すみません……福田さん………」
 乱暴にしてしまうかも……
 止められない自分を感じながら、相葉はゆっくり福田の内に入っていった。彼は声を上げ、苦しそうに背中がしなる。息をつき、相葉は動きだした。
「あ…あ……く……」
 揺れながら、やはり福田はあの時と同じ海を感じていた。火のはぜる音や、草の香りがするのに、今自分は海の底にいる。絶えまなく襲いくる波に翻弄されていく。そして、真っ暗なあれ狂う夜の海のように、見えない何かに怯えている。胸が痛い……
 激しく熱い波に飲まれて、福田は意識を手放してしまった。

        *

 夜が明けると、福田と相葉は村に帰った。夕べは無理をさせてしまったので、福田には馬に乗ってもらう。村のはずれにある福田の家につくと、馬を降りて相葉に言った。
「お前は一度家に帰りなさい…長い間帰っていないだろう……」
 一瞬迷ったが
「……はい……」
 今日はひとまず帰る事にした。けだるそうな福田を見ていて、また襲い掛かるかもしれないと思ったからである。燃える情熱は衰える事無く、相葉の胸に存在していた。
 この火が消える時がくるのか……?
 痛みを感じなくなく日がくるのか……?
 福田への想いも渇望も大きくなるばかりなのに……
 相葉はかぶりを振って歩き出した。
 少し残る朝靄の中、馬を引いて歩く相葉の後ろ姿を、見えなくなるまで福田は見送った。
 家に入ると、戸に背中を預け、息をつく。
 まだ、身体に相葉の香りが残っているようだった。
 瞳を閉じて熱い身体を冷まそうとしていた福田だったが、ある気に気付き、はっとする。
『まさか……』
 急いで中に入り、漂うその透明な気の源を見極めようとした。
 襖を開け、客間に入った福田はその床の間に、透明な気を放っている雪華の剣を見つけた。
 掛け軸にかけてある横の壁にもたれている。今、戻ってきたのか、鍔からは水がぽたぽたと滴り落ちていた。
 福田はそっと近付き、雪華の前に正座した。
「……そうか…戻ってきてくれたのか……」
 私はお前とは、水月とはやはり離れられない運命なのだな、と福田は思う。
「滝の底は冷たかったろうに…すまなかったな……」
 なのにお前は私のところに戻ってきてくれた……
 お前にとって私は帰ってきたい場所なのか……
 きっと雪華の剣は変わらないのだろう。昔も今も、その白く透明な霊気は澱む事なく美しいままで……
 福田は優しく微笑み、小さく囁いた。
「……おかえり……」
 あの夜、相葉に言った同じ言葉を……

 

 

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