水月の章のみの年令設定


福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …十三歳 水月の剣の後継者
伊井正太郎(いい せいたろう) …新左ェ門の友人
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …十一歳刈谷道場の跡取り
刈谷勝之進(かりや かつのしん) …新左ェ門の父
刈谷九郎兵衛(かりや くろべえ) …新左ェ門の祖父で福田の師

            虎落笛(もがりぶえ)水月の章 


 昔、月の女神が地上に住む人間の男に恋をした。その男は剣士でいつも修行にあけくれていたが、決して何ものの命も奪う事は無かった。
 女神は男と話したくて仕方なかった。会って私を見つめて欲しい。彼に触れてみたいと。しかし、女神が地上に降りる事は許されない。そこで、水に映った月の姿を通して自分の魂だけをを地上に降ろし、剣士と会っていた。だが、月のない夜は会えない為、女神が悲しんでいると、天界の鍛冶屋が「では、私が月を映す水のように美しい刀を作って差し上げよう」と言って、美しい太刀を創り、剣士に渡した。それが雪華であり、その剣士が水月の創始者である。
 水月とは女神を降ろす事が出来る者が継ぐべきもの。故に巫子としての気質をもつ者、神に愛される者でなくてはならない。
 巫子とは、人にあらず、神にあらず、いかなるものでもなく、またそのすべてでなくてはならない。
 いかなるものにもなってはならない、それでこそ、神の降りる場となる事が出来るのだ。
「……私は一度だけ、神の降りた水月を見た事がある」
 刈谷九郎兵衛は息子である勝之進に、この話をしているのを、襖の影から新左ェ門はこっそり聞いてしまう。気配は完璧に消していた。九郎兵衛が道場を完全に勝之進に譲り、村のはずれの家で隠居すると話していた時だった。
「先生のお師匠でな。森の中に一人静かに暮していた…会った瞬間分ったよ。この人は人間でないものに愛されているとな……」
「その人が水月を……」
「ああ、私が継ぐ為の修行をすると聞いて水月の演舞を見せてくださった…あれ程美しい剣を…いやすべてのものにおいて、あれを越える美しさを私は見ていない……」
「ですが、父上も水月を継いだではないですか。私も父の演舞を見せていただきましたが、あれを越える美しさを私も見ていませんよ」
「…本当の水月はあんなものではない…しょせん私はただの伝達者だ。仮の者だ……」
「……隠居なさるとは、本気ですか?」
「ああ、たくさんの門弟達を育ててきたが、水月を継げる者はいなかった…どうやら私で最後になりそうだな……」
「新左ェ門は…水月の剣を継ぎたいと思っています…あの子はどうです……?」
 新左ェ門は自分の名前が出て来たのでどきりとする。
 祖父は黙っていた。新左ェ門の鼓動が次第に早くなっていく。
 どうか、俺に、俺に継がせると言って欲しい。六才の時、初めて祖父の水月の剣を見た時から、ずっと夢みてきたのである。この美しい剣を継ぎたい、それに相応しい剣士になるのだと……
 そして、剣の腕はわずか十一才で天稟の才能をうたわれるまでになった。きっと俺になら水月を会得できる筈。新左ェ門はそう信じていた。しかし……
「新左ェ門は駄目だ。あれには継げぬ……」
 九郎兵衛の言葉に、新左ェ門は胸をえぐられるような痛みを感じた。
『俺には無理だと!?何故だ?』
 祖父の孫に産まれ、周りの者も自分の実力を認めている。それは決して師範の息子だからという贔屓目ではなく、本物の賛辞なのだ。第一、実力がものをいう剣の世界では世辞など意味がないのである。賛辞を受けるだけの実力があると自他共に認めているというのに、私にはその資格がないだと!?
「雪華の剣はどこかの神社にでも奉納しようと思っている……隠居した後、実は伊勢の方に参りに行ってみようかと考えていてな。どこか納めてくれるところがあるだろう」
「……分かりました。道場の方は私が引き受けます」
「おお、後は頼んだぞ。これでわしも気楽な隠居生活に入る事が出来る……」
 そう言いながらも九郎兵衛の表情はどこか寂し気であった。新左ェ門はその場を離れても、そんな筈はない、と自分に言い聞かせた。
 祖父は勘違いしているに違い無い。水月を継ぐのは私をおいて他にいないのだ。きっと隠居生活を考えて気持ちが焦っているのだろう。少し落ち着けば分かる筈だ。
 新左ェ門は今迄の自分のしてきた数々の苦労を思い起こし、これが報われない訳がないと確信していた。剣一筋に、他のすべてを犠牲にしてきたのは、水月を継ぐ為なのであるから。
 それとも、まだ自分には足りないものがあるのだろうか。もっと精進しなければ、と新左ェ門はさらに厳しい修行を自分に化すと決めた。そうしてもっと実力がつけば、祖父も考え直すだろう、そう信じて……

 しかし、伊勢から戻った九郎兵衛は、福田謙次郎という新左ェ門より二つ年上の少年を連れて帰ってきた。水月の剣の後継者として……
 新左ェ門は呆然とした。自分以外に継ぐ者が現れるなど考えてもみなかったのである。
 しかもどんな豪傑かと思えば、ごく普通のありきたりな少年なのだ。
『こいつが!?おじいさまは何を考えていらっしゃるのだ!?まさか年のせいで眼力が弱まったのでは?』
 だが、九郎兵衛は今まで見た事もないくらい生き々とした表情をみせ、隠居所で共に寝起きをし、福田に剣を教える事に心血を注ぎ始めたのである。
 新左ェ門は、祖父の思い違いだろうから、すぐに福田は国に帰るだろうと予想していたが、福田は一向に去る気配がない。
 水月の修行は誰にも見せず、二人きりで行なわれている為、福田がどの程度の腕なのか、どれ程水月を学んだのか新左ェ門には全く分からなかった。
 時折、道場や家に九郎兵衛は福田とたずねてきた。新左ェ門はその時の福田を垣間見るが、最初に会った時と印象は変わらぬ平凡な少年である。家に上がると夕食を共にし、後は酒をまじえながら父と九郎兵衛は雑談をするのだが、九郎兵衛の話はいつも福田の事だった。福田は夕食を終えると一人で先に帰るので、いつも彼はこの場にいない。
「彼ならきっと私が会得出来なかった水月の神髄に到達するに違い無い」
 嬉しそうに語る祖父の言葉を聞く度に、新左ェ門は焦った。
 本当に九郎兵衛は水月の剣をあの福田に継がせるつもりなのだろうか?もう修行が始まってから一年の歳月が流れている。その間に九郎兵衛はどんどん福田の稽古に熱心になっていた。
『本当に奴は水月の剣を継ぐ実力があるのか?確かめてやる!』

 ある夜、いつものように夕食を終え、帰ろうとする福田を新左ェ門は稽古場に誘った。父と九郎兵衛は酒を飲みながら話を始めている。こちらにすぐに気付かないだろう。
「何か?」
 福田はなんだろうかと、不思議そうな様子である。
 こいつはいつもそうだ、と新左ェ門は思った。
 たびたび会ってはいるが、彼はいつも大人しく九郎兵衛の横に立ち、穏やかな表情をしているだけで、何か特別な話をしたり、圧倒するような存在感を漲らせる訳でもない。ただ、いつも静かにそこにいるだけなのである。
『こんな普通の奴が水月の伝承者だ?片腹痛いわ!』
 新左ェ門は黙って木刀を福田に投げてよこした。
「?」
 福田はまだのみこめていない。
「お前と立合うのだ、構えろ」
「え?」
 木刀を持ちながら、きょとんとした目を福田がしたので、新左ェ門は苛ついた。
「早く構えろ!さっさとしろ!」
「……しかし、先生の許可無く立合う事は出来ない」
 新左ェ門は舌打ちした。
 確かに、師の許しのない試合や立合いは禁じられている。だが、それは一応建て前で、現に道場の門弟達は時折、力試しに野で立合ったりするのだ。
「それは正式な試合の場合だろ。力を試す事は悪い事ではない」
「だけど、やはりお耳にいれておかなければ……」
『融通のきかない奴め!』
 福田の言う事がやけに感に触る。正論だから、余計に耳ざわりなのだ。
『ふん、先生の言うことを良く聞く優等生様か。おそらく型通りの、気の入っていない剣だろう。きっとおじいさまは見誤っていらっしゃるのだ。水月の剣は型にはまるものではない。こいつの優等生ぶりに騙されているのだ、俺が暴いてやる!』
「それに先生は水月は滅多に人にみせてはならないとおっしゃっていた……」
 その福田の言葉に、新左ェ門の頭に血が登る。
「まだ、お前は水月を継いだ訳ではあるまい!?もう自分のもののように言うな!」
「…あ…すまない……」
 福田は軽く頭を下げるが、その様子がまた、新左ェ門を苛つかせた。
 なんだ、こいつは?!俺をばかにしているのか?
 水月に憧れながら、教えを受けられない哀れな奴だと思っているのか?!
「こちらから行くぞ!」
 新左ェ門はいきなり福田に木刀を降り降ろした。福田は慌ててその木刀を受けて止める。新左ェ門は一旦体を引き、再び打ち込んだが、その木刀はするりとかわされる。
 一瞬何が起こったか分からなかった。
 今、自分は確かに強い振りを彼に向けて放った筈なのに……
 まるで空気を切ったかのような感触である。
 新左ェ門は気を取り直して再び打ち込むが、同じだった。
『なんだ?これは……?』
 どれだけすごい一手を放っても、福田はするりと自分の剣を受け流す。自分の力が空回りして、体力だけが失われていく。実体がないものと対峙している気がして新左ェ門は気味が悪くなってきた。
『俺は…誰と立ち合っているんだ……』
 訳が分からない。福田はいつもと同じ、穏やかな表情で自分をまっすぐに見つめている。立ち合いの最中だというのに、気迫が微塵にも感じられない。本当に立ち合いをしているのか?
 新左ェ門は肩で苦しそうに息をしながら、疑問に思う。
 彼は向かってこず、ただ、自分の剣を受けるだけだ。ただ、受け止めるだけ、水に映る月のように自分の剣を映すだけ……
 自分は誰と対峙しているのだ、いや、何と立ち合っているのだろう?人か?本当に人なのか?今、目の前にいるのは……
 人でないものがそこに…自分の目の前に……
 新左ェ門が何か分かりかけた時、木刀がくるりと回り、遠くの床に落ちる。福田の木刀に跳ねられたのだ。
 しかし、何の力の律動も伝わってこなかった。風にさらわれるかのごとく、木刀は新左ェ門の手を離れたのである。
 新左ェ門は半場、呆然として福田を見た。
「お前……」
「新左ェ門?何をしている?」
 後ろを振り向くと勝之進が稽古場の入り口に立っている。
「……父上……」
「何をしていたのだ?まさか福田と手合わせをしていたのではあるまいな」
 新左ェ門は思わず目を反らした。
「勝手な立ち合いは禁じている筈だぞ。それに、無理矢理福田に向っていったのだろう」
「…………」
「福田は今修行中の大事な身だ。つまらぬ事につきあわせるな」
『つまらぬ事だと!?』
 新左ェ門はカッとなり、福田を指さしながら叫んだ。
「俺は認めませんよ!こんな奴が水月の後継者などと!」
「新左ェ門!」
 福田は一瞬驚いた素振りを見せるが、淋し気な瞳を新左ェ門に向けるだけである。
「…なんだその瞳は……」
「え……」
「なぜそんな瞳で見る!俺をばかにしているのか!」
 新左ェ門は福田の襟首を掴み上げて、彼を睨んだ。
「なぜ何も言い返さない!?俺がこれだけ叫んでいるんだぞ!本当に水月の剣の後継者になるつもりなら、その意欲をみせてみろ!俺を納得させてみろ!」
「新左ェ門やめんか!」
 勝之進は新左ェ門を慌てて引き離した。
「俺は絶対に認めない!」
 新左ェ門はそのまま稽古場を飛び出していった。
 後に残された勝之進と福田はしばらく黙っていたが、先に勝之進が福田に詫びた。
「すまなかったな福田。みっともないところを見せた」
「いえ……」
『みっともない?』
 福田はその意味が分からなかった。
「あれはずっと水月の剣に憧れを抱いていてな…継ぎたがっていたのだ……なまじ、剣才があったばかりに余計に未練があるのだろう……」
「……そう…ですか……」
「母のない子と甘やかしすぎたのかもしれん…我侭な子供に育ってしまった……」
 新左ェ門の母は彼が三歳の時、病没しており、それから父親である勝之進が、男でひとつで育てあげた。
家事は通いの家政婦がいて、彼女の料理が上手なので、福田も九郎兵衛も度々夕食を馳走になりにくるという訳である。
「福田……」
 呼ばれて顔をあげると、いつの間にか九郎兵衛が稽古場に入って来ている。
「まだいたのか?」
「はい……」
「共に帰るか?」
「はい」
「ではな勝之進、馳走になったな」
「ありがとうございました。失礼いたします」
 福田は行儀よく頭をさげ家を出た。九郎兵衛といっしょに歩く夜道は月明かりで明るく、提灯もいらないのでは、と思わせるほどである。
 二人は何の言葉もかわさず、歩いていた。福田はそれだけで満たされる気がしていた。隣を歩く師匠を福田は心から尊敬していたし、彼の側にいるととても心が安らいだ。彼が自分をとても大切にしてくれていると分かるからだ。
 水月の稽古は基本的な素振りと、体力作り、型稽古、そして瞑想にほとんどの時間が費やされる。心を無心にし、周りのすべてに心を開くのである。福田はそれは普通に出来る事だったが、水月の稽古をしだしてから、それがどんどん研ぎすまされていった。
 周りの無限に広がる大きさを感じる度に、福田はいつも感嘆していた。稽古はまったく苦にならず、むしろ楽しいと思っていたのに、自分が修行をする事で誰かが苦しんでいるなど、考えた事もなかった。
 確かに新左ェ門は以前から気にはなっていた。自分に会う度に、憎しみのこもった目で見つめてくるからである。一体、自分は彼に何をしたのだろうか?と、考えたりもした。
 しかし、いくら考えても分からなかったので、そのうち考えるのを止めたのだったが……
『彼は…新左ェ門は水月を継ぎたかったのか……』
 でも、それだけであんなにも嫌われるのだろうか?自分のした事ならいくらでも謝りようがあるが、この場合どうしたいいのか福田には分からなかった。
『私は彼を苦しめているのだろうか?しかし、どうすればいい?』
 自分が水月を学ぶのを止めればいいのか?だが、そんな気はないし、福田は九郎兵衛と共に稽古をするのが楽しいのだ。
 新左ェ門に認めてもらえるよう頑張ればいい。自分は彼が嫌いではないし、頑張れば、きっといつか友達にだってなれるだろう。
 と、福田は考え、気持ちが明るくなった。
「福田…寒くないか…?」
「いいえ……」
 季節はすでに神無月に入り、風が冷たくなってきている。
 二人はそのまま夜道を歩き、家につくまで一言も話さなかった。

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