水月の章のみの年令設定


福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …十八歳 水月の剣の後継者
伊井正太郎(いい せいたろう) …新左ェ門の友人
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …十六歳刈谷道場の跡取り
刈谷勝之進(かりや かつのしん) …新左ェ門の父
刈谷九郎兵衛(かりや くろべえ) …新左ェ門の祖父で福田の師

            虎落笛(もがりぶえ)水月の章 


 四年後のある日、新左ェ門の友人である伊井正太郎が二年ぶりに帰ってきた。彼は剣の修行の為、諸国を渡り歩いていたのである。国に帰ると、彼はまっ先に恩師である勝之進のいる刈谷道場にやってきた。
 勝之進に挨拶をすませた伊井に新左ェ門が駆け寄る。二人とも久し振りの再会に心から喜んだ。身体つきはお互い見違える程逞しくなったが、笑い顔はまだ子供のままであった。
「正太郎、よく帰ってきたな。これからはずっといるのか?」
「いや、叔父上が危篤だと知らせを受けて急いで戻ってきたんだ。またすぐ旅に出るつもりだ。たった二年じゃ修行とはいえないしな」
「落ち着かないな。少しはゆっくりしていったらどうだ?」
「いや、今、ゆっくりしたらかえって落ち着かないよ。最近旅の修行のこつがつかめてきたところなんだ。忘れないうちに戻らないと」
「そんなに多くの事を学べるのか?」
「ああ…俺も最初は集中できなくて、時間を無駄にしている感があったが、今は違う。思いもよらない剣豪に出会えたり、耳にした事もない流派を知ったりできるんだ。すごい刺激があって、触発されるよ」
「そうなのか…また詳しく話を聞かせてくれよ」
「ああ、もちろん」
 新左ェ門は剣一筋で人情に欠けるところがある為、友人と呼べる人物はほとんでいない。だが、伊井だけは、剣の腕も剣術にかける情熱もひけをとらないので、親しくしている。
「新左ェ門こそ、身体はでかくなったみたいだが、腕の方はどうだ?あがったのか?」
「多分な……」
 新左ェ門は少々暗い顔をする。
「?」
 伊井がどうしたのだろうかと思ったが、新左ェ門が突然鋭い視線を自分の後方に向けたので、見ると、福田が道場の廊下を歩いていた。
 成る程な……
 と、伊井は暗い顔をした理由が分かった気がする。そして思いきって尋ねてみた。
「……福田殿はどんな様子だ?まだ修行中か?」
 なんといっても師の九郎兵衛は高齢である。早く会得しなければ、伝授できぬまま、という事になりかねない。
「……明日、免許を賜る……」
「え!」
 これには伊井も驚いた。わずか五年で水月の免許を皆伝出来るとは思ってもみなかったのである。伊井は福田の剣を一度も見ていないが、新左ェ門の様子からすごいものがあるのだろうとは察している。この新左ェ門さえも嫉妬させるものが。
「どこかで継承とかさせるのか?俺も拝見できるかな?」
「亀淵ガ沼のほとりで行うそうだ……あそこで水月の演舞を披露し、免許を授ける事になっている」
「ああ、あの鶴羽神社の近くにある沼か。どうしてそんなところで?」
「あの沼の中洲に祠があっただろ。」
「ああ」
「最近、古くなってきたんで修繕しようと祠をどかしたんだが、途端に沼に近い家から順番に不幸が出始めた。もう五件目だ」
「え?それって……」
「どうやら荒神が飛び出してしまったらしい。祠は封じる役割をしていたんだな」
 神は悪と善といった両方の性格をもっている。悪なる性格をもつ神を荒御霊(アラミタマ)善なる性格をもつ神を和御霊(ニギミタマ)というのである。あくまで人間にとっての善と悪なる性格だが。
「それでなんで水月が?」
「水月の演舞を奉納し、荒神に静まってもらおうというんだ。利き目があるか分からんがな……」
「神事となる訳か…それじゃあ誰も拝見できないのか?」
「祖父と神社の神主と福田だけの儀式だ……ご神事を穢してはならんと言われたよ。は、俺は穢れって訳だ」
 新左ェ門の瞳の奥に殺気が見えて、伊井は少し恐くなった。それに
『見に行くつもりだ……』
 とも分かった。
 新左ェ門の水月への憧れを伊井は幼い頃から聞かされて知っている。二年たった今でも変わらないようだ。しかし、何故そこまで執着するのだろう?水月はすでに他のものに渡ったのだから、あきらめるしかないではないか、と伊井は思ってしまう。それに今の新左ェ門は雁砕流の修行中で、もうすぐ免許を皆伝できるまでになっているのだ。水月に固執するから、福田に憎しみや劣等感を抱いてしまうのだ。
『俺は一度も水月を見ていないから、思うのかもしれないが、少々度がすぎている気がする』
 問題は福田にあるのか?
 伊井も福田を見た当初は普通すぎて、拍子抜けしたものだ。どんな剣豪なのかと思えば、学者肌の少年であまりに静かだったからである。
 水月は一目にさらさないので、実力の程度も分からないのだから、新左ェ門が納得できない気持ちも分かる。
 一度、福田の水月の剣を見れば、新左ェ門もあきらめられるかもしれない。伊井はその方が新左ェ門の為だと思う。
 深すぎる執着は愛憎を呼び、激しい愛憎は狂気を招くのだから……

        *

 その神事が行われる日は、ほとんどの人が知らず、普段となんら変わり無い日であった。町人には神主がお払いをするので、誰も近付かないようにと知らされている。
 伊井は昨日忙しくて行けなかった、九郎兵衛の隠居家に挨拶に訪れた。戻ってから叔父の家に行ったり、親戚周りをしたりで来れなかったのである。恩師の父上なのだから、挨拶ぐらいはしておかなければ。それに、福田の顔もみたかった。
 儀式は夕刻から夜にかけて行なわれると聞いたので、日があるうちにこようと思っていたのに、もう暮れかけであった。
『まだいるかな?』
「ごめんください」
 玄関先で声をかけるが返事はない。
『行ってしまったか?』
 と、帰ろうとした伊井の耳に矢の音が聞こえる。
『的場か?』
 そう思い、庭から的場に足を向けた。行ってみると白装束に身を包んだ福田が射場にいた。『引分け』(弓を引く状態)から『会』(引分けが完成された状態)に入ったところであった。
 二年振りに福田に会った伊井は、彼の澄んだ『会』に驚いた。
 心と気力が渾然一体となっているのが分かる。無心で心に澄(すまし)が満ち、矢が放たれる。
 その残心(矢が離れた後の姿勢)も見事なものであった。
 透き通った気合いには、風格と気品が漂い、矢は的のまん中に命中していた。
 伊井は息をするのも忘れてその姿にみとれていた。
『それにしてもこんなに美しかったか……』
 あまりに美しすぎる気に伊井は呆然とした。
「伊井じゃないか、久し振り」
 福田が彼に気付き声をかけてくる。何故か伊井はどきりとした。
「あ…お久し振りです……」
 穏やかな表情をうかべる彼は澱みがまるで感じられない。そんな人間だから水月の剣が会得できたのだろうか。神事を行うにふさわしい者だ。福田の力がぼんやりだが、伊井は分かりかけてきた。
「二年振りかな?随分大きくなったな」
「はあ……」
 旅立つ前は福田より少し背が低かったが、今の伊井はかなり背がのび、胸板も太くなっていた。新左ェ門も似た体型なので、二人が並ぶと十六才とは思えぬ迫力がある。
 福田はあまり変わらない。最初に会った印象のまま、学者のように静かな人だが、感じ取る伊井は変わっていた。
 諸国を修行してきたせいで、伊井の感覚は鋭くなってきたのだ。国を出る前とは雲泥の差で、当時、分からなかった福田の白い気が今なら分かる。これ程澄んだ気を持つ者はまずいない。いろんな所を渡り歩いてきた伊井だが、これからも会う事はないだろうと確信する。
『この人とずっといっしょにいたら、たまらないだろうな』
 新左ェ門が彼を憎む理由を、伊井は勘違いしていたと気が付いた。
「叔父上の具合はいかがか?」
「え…ええ…俺が戻ってきた事ではりが出たのか、今は持ち直しています。医者も驚いていました」
「それは良かった」
 福田が嬉しそうに微笑むが、その笑顔も二年前からまるで変わっていなかった。
 初めて分かった気がする。
 新左ェ門は水月の剣を継ぎたいだけで福田を憎んでいるのではない。おそらく、もっと人間の本質的な部分で彼を憎んでいるのだろう。
 無視してしまえば楽になれるだろうが、新左ェ門の場合は水月の剣がからんでいるので、そうもいかないのだ。
「九郎兵衛先生はいらっしゃいますか?」
「いや、もう亀淵ガ沼に行かれた」
「福田殿は?」
「もう行くところだ。少し、気を整えてから行こうと思って……」
 あなたが?必要ないのでは?
 と、伊井は心の中で呟いた。
「では、すまないが、私も出かけるよ。もしよければこの家で先生の帰りを待っていてくれないか?」
「いいのですか?」
「ああ、かまわないよ。一時程で戻るから」
「わかりました。お言葉に甘えて待たせていただきます」
「ああ、じゃあ」
 福田が出掛けていって、伊井は一人で家に残ることになった。
 日が落ちて、辺りは寒さが満ちてきていた。祠を取り払ったのは葉月の初旬である。それまで、儀式を行おうかと話し合われたが、神無月では神が出雲に集まってしまう為、霜月に入ってから、という事になったのだった。

 月が登り初め、伊井は暗い部屋で一人待っていた。もう儀式は終わった時刻であろう。伊井は新左ェ門の事が気になり、落ち着かなかった。こちらに来る前、刈谷道場によってみたのだが、新左ェ門は姿を消していた。神事を盗み見る気だろう。
 当初、伊井は水月をあきらめる為なら、神事を盗み見てもいいだろうと考えていたが、福田のあの白い気を目の当たりにして不安になってきた。
 あれは人間がそう簡単に触れるものではない。いや、むしろ触れてはならぬもののような気がする。無垢で白く、それゆえの残酷さがある。
 伊井は初めて福田を恐いと思った。あの穏やかな彼を……
 新左ェ門はずっと福田を羨望のまなざしで見続けているのだ。それはとても危険だと思う。
 伊井はたまらなくなり、亀淵ガ沼へと足を向けた。
 今宵は満月で空気が冷たいせいか、空が明るい。伊井は森の中を歩くのだから、と提灯を灯していたが、別になくても良かったかな、と思った。しかし、道の両脇は黒々とした木々が立ち並び闇を創っている。光源を持っているせいか、いつもよりに闇が浮かび上がって感じた。冷たい闇と、沈黙が耳に迫り、伊井は少々心細くなる。
 すると、反対側から小さな提灯の光が見えた。伊井は思わず自分の提灯の火を拭き消し、道から外れた森の中に身を隠した。
 思ったとおり、それは九郎兵衛と福田、それに神主である。儀式が終わった帰り道だろう。
 三人は何も言わず歩いていたが、いつもと変わらない様子の九郎兵衛と福田に比べ、神主の表情は惚けていた。心ここにあらず、といった虚ろな瞳をして、興奮したのか頬が赤い。
 伊井は身を潜め、できる限り気配を消して三人が通り過ぎるのを待っていた。白装束の二人に気付かれるのではないかと、オドオドしていたが、なんとか気付かれずにすんだ。
 ほっと息をついた時、背後に人の気配を感じ、驚いて振り返る。
 新左ェ門が森の中を歩いていた。おぼつかない足どりで、神主と同じ虚ろな瞳を浮かべている。
 神事を、福田の演舞を見たのだと、一目で分かった。
「新左ェ門!」
 伊井の声に新左ェ門は、はっとなって我にかえる。
「新左ェ門、大丈夫か?」
「え……なにが……」
「……見たのか……?」
「……なに…を……」
「福田の演舞をさ……」
「…演舞……」
 あれがそうか、あれが演舞と言えるものなのか?
 新左ェ門はそう自分に問いながら、先ほどの儀式を思い出していた。
 神の降りた水月を初めて見た。
 小さな頃、祖父の水月を見たが、あんなものではなかった。
 祖父の自分はただの伝達者だ、と言った意味がやっと分かった。
 人間ではないものがそこにいた。福田の中に降りてきた。その空気はなんだ?暖かく、透き通るように白く、限りなく深い海の底のような……名の無い神がそこに……
「新左ェ門?」
 まだ遠くを見つめている新左ェ門の様子がおかしくて、伊井は不安になった。しかし、そんな伊井の心情など分かる筈もない新左ェ門は、また歩きだした。
「新左ェ門」
「ついてくるな」
「だが……」
「一人になりたい……」
「………」
 伊井は何も言わず、彼の後を追わなかった。新左ェ門は一人、森の中を歩き続けた。
 身体が勝手に動くのだ。でる筈のない答えを求めてさまよい歩く。心がはじけそうで止まる事などできなかった。
 自分が何を見たのか、自分は何を感じたのか。
 福田の姿が目に焼き付いている。あの無垢の姿が……
 心が震える。
 一人になって考えたかった。
 自分が何を求めているのかを……

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