水月の章のみの年令設定


福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …十八歳 水月の剣の後継者
伊井正太郎(いい せいたろう) …新左ェ門の友人
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …十六歳刈谷道場の跡取り
刈谷勝之進(かりや かつのしん) …新左ェ門の父
刈谷九郎兵衛(かりや くろべえ) …新左ェ門の祖父で福田の師

            虎落笛(もがりぶえ)水月の章 


「国に帰った……?」
 福田が免許をとったあの日から、十日後の夜、家に来た九郎兵衛から新左ェ門は意外な言葉を聞いた。いつものように夕食をよばれに来たわけだが、一人だったのである。縁側に座り、支度ができるのを待っている九郎兵衛は、後から福田が来るとも言わなかった。
 どうしたのだろうかと疑問に思うが、自分から福田の事を聞くのは癪だったので、すぐに尋ねなかった。
 しかし、気になって仕方が無く、とうとう新左ェ門は九郎兵衛に福田はどうしたのかと聞くと、彼は国に帰ったという答えが返ってきたのである。
「ああ、昨日な。こっちにも挨拶に来た筈だが、聞かなかったのか?」
「…………」
 そういえば、父が来たと言っていたが、ろくに話を聞かなかった。
 聞きたくなかったのだ、彼の事など……
「…なぜ……」
「最初からそういう約束だったのだ。水月の剣を伝授しても、こちらに引き止めたりしないというな。後は誰かに教えても、どこに行こうとも彼の自由だ」
「…………」
「両親に報告した後は一度こちらに戻ると言っていたが……」
 あいつが、福田がいなくなる?
『結構な事じゃないか、あんな奴、これから顔を見なくて済むなんて、せいせいする……これからは、いらいらしたり、動揺したり、心を乱される事はない。やっと落ち着いた生活ができるんだ』
 新左ェ門は必死に自分の心に言い聞かせた。胸に黒い染みが広がっていくのを無視しようとした。
「もしかしたら、嫁さんを伴ってくるかもしれんぞ」
「は?」
「どうも国に将来を約束した女性がいるらしい。免許をとったのだから、祝言をあげるかもしれない」
 ドクン、と新左ェ門の鼓動が脈打つ。
『なんだと!?』
 脈がどんどん早くなり、頭に響いてくる。新左ェ門は熱くなっていく身体と共に、怒りが沸き上がってくるのを感じた。
『ばかか!あいつは!祝言をあげるだと!?』
 あの夜の儀式の福田が、瞼に焼き付いて離れない彼の姿が蘇る。
『お前の美しさを、剣を知らない女に分かると思っているのか?!剣の他の事に気をとられるとは!許せない!』
「もし、夕餉の支度ができました」
 家政婦が九郎兵衛を呼びに来た。
「おお、ありがとう。新左ェ門、どこへ行く?」
 新左ェ門は九郎兵衛の問いに答えず、そのまま道場に向かった。夜は更けており、門弟らはすでに帰宅した後で、稽古場には誰もいなかった。
 そこで、木刀を手にとった新左ェ門は、素振りを始めた。
 燃え上がる怒りの衝動を、なんとか発散させたかったのである。
 何時間そうしていただろうか。
「くそ!」
 怒りは収まるどころか、ますます強く、深くなっていくばかりで新左ェ門は木刀を床に叩きつけた。汗が滝のように流れ落ちてくる。
 何故こんなに苛つくのだろうか?
 あんな男の事など放っておけばいいのだ。どうせ、すぐに居なくなる奴なのだから。
 何度も は自分の心にそう呟いたが、福田が自分の前から姿を消すと思うと気分が悪くなる。
 五年前、福田が現れてから、新左ェ門は穏やかに過ごせた日がなかった。いつも彼を思い出し、彼を意識し、彼に憎しみの瞳をむけた。
 それなのに、当の福田はいつも穏やかな瞳で自分を見つめるだけで、何も特別な思いを抱いていない。その他の大勢の人達といっしょである。どれだけ新左ェ門が福田によって心を乱されようと、彼は自分の百分の一だって動揺したりしないだろう。
 そう考えると、新左ェ門は激しい怒りと空しさに襲われた。この五年間の苦しみはなんだったのだ?
 確かに、福田への憎しみは剣の修行において有効的だったと言える。幼い頃、剣の才を謳われた者の中には、奢りのあまり、稽古をおろそかにしてしまう者がいる。しかし、新左ェ門は福田という常に劣等感を感じさせる存在があったので、常に自分に厳しく、どれだけ才能を讃美されようと奢らなかった。あの十二才の時の立ち合いが、胸に重い楔として打ち込まれていたのである。
 彼を思わない日はない。あの福田の水月を見てしまってから、更にその思いは強くなった。
 まるで、呪いように、彼は自分を呪縛する。
「…わりが合わん……」
 これだけ、自分の心を滅茶苦茶にしておいて、福田は国に帰り、女性と結婚して幸せな日々を送ろうとしている。きっと自分のことなどすぐに忘れてしまうだろう。
 あれだけの美しい姿を見せておいて……
 自分が憧れ続けた水月の剣を受け継いでおいて……
「……絶対に許さん……」
 もしも、福田が妻を伴ってここに挨拶になど来たら……
「その場で切って捨ててやる……」
 福田が来なくても、こちらから訪ねて行って息の根を止めてやる。
 当然のむくいだ。
 福田は水月の剣を、自分を疎かにしたのだから……
 新左ェ門の心は、黒く深い闇に覆いつくされていた。

     *

 予想に反し、福田はすぐに戻って来た。しかも、国を出奔してである。
 新左ェ門は事情を父から聞いた。将来を約束していた女性が、すでに結婚していたらしい、と。
 それを聞いた新左ェ門は嬉しくて大笑いした。いい気味だと思った。
『剣の他に心を奪われたりするからだ!あの水月の剣を伝授したくせに……』
 どんなまぬけ面をしているか見たくなった、新左ェ門は足を九郎兵衛の隠居家に向けた。稽古が終わった後で、かなり夜遅くなったが新左ェ門は意にかえさなかった。隠居家に着くと、九郎兵衛が出て来た。福田は稽古場にいると聞き、新左ェ門は家にずかずかと入っていった。
 稽古場には一人、正座している福田がいたが、彼の髪が短く段になっているのを見て、新左ェ門は少々驚く。今までは自分と同じ、後ろに束ね、若衆髷にしていたのに。なんだか、彼が今までと違って見える。
「よう…お早いお帰りだな……」
「…………」
 新左ェ門の言葉に福田は応えなかった。彼が稽古場に入ってきた時、こちらを見たが、すぐに視線を真正面に戻したのである。
「出奔してきたそうだな。なんだ、女に振られたのでがっくりきたのか?」
「…………」
 新左ェ門は福田に近付き、後ろから彼を見下ろして、言葉を投げ付けた。
「残念だったな。お前の一人相撲だったようで」
「…………」
 福田は黙ったままである。
『そんなに、その女を好いていたのか?特別な存在だったのか?』
 福田は少し淋し気に首を垂れていた。総髪で髪が短くなったせいで、項がはっきりと見える。
 突然新左ェ門はその項に歯をたてたい、という衝動にかられた。
『なぜ?』
 新左ェ門は自分の中の激しい思いに戸惑った。しかし、意志に関係なく、その沸き上がる思いは大きくなっていく。
『今、ここでお前を突き倒し、力づくで犯したら、お前はどんな顔をするだろう?今までと同じように、穏やかに俺をみつめる事が出来るか?俺という人間がお前の心に焼き付くだろうか?俺と同じように、いつも俺の事を考え、心を乱すだろうか?』
 突き上げる衝動に抗おうと、新左ェ門は持っていた木刀を福田の背中に振り降ろした。
「うっ!」
 すごい音がして、福田が背中を押さえながら振り返える。しかし、新左ェ門を見つめる彼の瞳には驚愕が映っているだけで、憎しみは微塵にもなかった。
 苛立たしくなった新左ェ門はまた木刀で福田を打つ。
「し、新左ェ門ど、どうした!」
 福田は手をかざして、跪座したまま後退した。
『お前はいつもそうだ……』
 新左ェ門は心の中であの空しさを感じた。
『お前は、俺を、憎んでもくれない……』
 福田のとって自分はとるに足らない存在なのだ。いつも、いつまでたっても……
 新左ェ門は木刀を捨て、福田を床に押し倒した。
 殴られる、と福田は思ったが、新左ェ門は福田の襟元を大きく広げ、項に歯をたてた。
「痛!」
 痛みを感じ、福田は一瞬何をされたのか分からない。だが、新左ェ門が乱暴に袴の紐を解き始めたので、驚いて起き上がろうとした。
「ちょ、新左ェ門、な、何をやってるんだ?」
 上半身を起こそうとするが、新左ェ門が自分の身体に馬乗りになっている上、先程打たれた背中が痺れて力がはいらない。手足をばたつかせていると、新左ェ門がいまいまし気に言い放つ。
「静かにしろ」
 新左ェ門は着物の襟を更に広げ、胸元を露にさせる。
「な、なんだ?新左ェ門?」
 福田の言葉など新左ェ門は無視していた。そして、また、福田の胸に歯をたてる。
「い!」
 痛みと同時に福田の胸に不安が芽生えた。怖くなって福田は必死に身を起こそうとした。が
「じたばたするな」
 と、新左ェ門にいきなり頬を殴られる。
 予想もしていなかった拳をまともにくらって、福田は一瞬意識が遠のいた。頭がガンガンして、痺れもまだぬけきっておらず、身体がまともに動かせない。そうしているうちに新左ェ門の手は着物の中に入ってくる。
「ちょ…と…ま……」
 いつの間にか新左ェ門は身体を福田の足間にいれていた。直に肌に触られて、福田の身体はびくりと震える。
 乱暴な、愛撫とは言いがたい新左ェ門の手の感触と、胸元に感じる濡れた舌に福田は恐怖を感じた。
「…い…いやだ……!やめ……」
 ふと、新左ェ門が顔を上げると、怯えた瞳で自分を見つめる福田の表情が目に入る。
 そんな瞳で自分を見る彼は初めてだ。新左ェ門の背中にぞくりとした快感がはしった。真っ白な積雪に足跡を残す時の感覚と似ている。自分だけのものだという印をつけるような……
 そうだ、俺は絶対手に入れる。福田を、水月を。
「俺は水月を手に入れる……」
「え……」
 新左ェ門がぼつりと呟く。
 水月を己のものとした福田を凌駕しなければならない。その時、初めて水月を手に入れる事ができるのだ。福田を手に入れる事が、彼に勝つ事が、あの美しい剣を自分のものとする唯一の方法なのだ。と、新左ェ門は思った。その為なら……!
 その時、新左ェ門の顔に柔らかいものがぶつかってきた。
 驚いた新左ェ門が上半身を起こして、床に落ちたそれを見ると、なんと兎であった。
「なんだ、こいつ……」
 どうやら、自らぶつかってきたらしい。足に包帯が巻いてある。唸り声が聞こえて後ろを向くと、三毛猫が毛を逆立てて新左ェ門を威嚇していた。
 新左ェ門は福田を見下ろした。
「…はっ…随分可愛い守神だな」
「…………」
 福田はまだ怯えた瞳で自分を見ている。少し胸がすいた新左ェ門は起き上がって福田を離した。福田は途端に身を起こし、座ったまま、背中が壁につくまで後ろに後ずさった。急いで襟元を但して、掴んだまま離さない。
「…いいか福田、覚えておけ」
「…………」
「今度、こんな、水月の剣以外に気をとられるような事をしてみろ、俺はお前を許さない」
「…………」
「……殺すぞ……」
「…………」
「水月を受け継いだ以上、それ以外、何も考えるな。人に心を許すな」
 そうだ、誰のものにもなってはならない。俺以外の誰のものにも……
「俺は絶対にお前に勝つ」
 そして水月を手に入れる。
 新左ェ門はそう言い放つと稽古場を立ち去っていった。残された福田は、力が一気に抜けて床に座り込んだ。
 そんな福田の様子を心配したのか、兎と猫が近付いてきた。福田は助けてくれた彼等をそっと撫でてやる。やっと気持ちが落ち着いて、福田は先程の新左ェ門の様子を思い返した。
 ここに帰ってくるべきではなかったのか……
 しかし、福田は国を出奔した時、強烈な孤独感に襲われたのである。今までも分かっていたつもりだったのに、忘れていた。自分が他の人と違うのだと……
 九郎兵衛といた修行中には気がつかなかった。なぜなら、彼は同じ感覚をもっている人だったからである。
 初めて、同じ感覚を持つ人と出会えた。だから、彼の側はとても安らいだのだ。
 自分達の間に言葉はほとんど必要なかった。
 この兎を見つけた時も、福田は森に聞こえない悲鳴を感じて近寄ってみたのである。そして、足を怪我しているこの子を見つけた。連れて帰ると、九郎兵衛は何も言わず、包帯や湯を用意してくれて……
 言葉がなくとも、分かり合えていたのだ。
 自分が分からなくなった福田は九郎兵衛の元に帰りたくなったのであった。しかし……
 新左ェ門は何故あれ程までに自分を嫌うのだろうか……
 長い間、彼と仲良くなろうと福田はいろいろと努力してみたのだが、一向に新左ェ門の気持ちは緩まなかった。福田のやる事すべてが気に入らないようで、いつも、悲しい気持ちになったものだ。
 今も新左ェ門は自分に屈辱を与えようとしていた。殴られた頬や背中よりも胸が痛い。
『そんなに嫌いなのかな……』
 悲しい気持ちが広がり、福田の瞳から涙がこぼれ落ちた。

       *

 ここに留まるべきか迷っていた福田だったが、九郎兵衛の身体が徐々に病気がりになり、世話に追われて去る機会を失ってしまった。道場で初心者を相手に稽古をつけはじめ、年月が流れだした。
 福田はできるだけ新左ェ門といっしょにいるのを避けた。彼の気持ちが和まないなら、できるだけ目障りにならぬように努めたのである。幸い、道場には勝之進がいたので、中和的な存在になってくれた。
 それから十年後、九郎兵衛は亡くなった。
 福田は四十九日が過ぎたら、今度こそ隠居家を去るつもりだった。九郎兵衛のいない今はなんの未練もなかった。しかし、その前に勝之進がある日道場でいきなり倒れ、意識が戻らぬまま、息を引き取ってしまったのである。勝之進の病は現代で言うところの脳溢血であった。
 刈谷道場は、新左ェ門が後を継ぐ事になるだろうと、皆は思っていた。彼の雁砕流の剣の腕はすでに父の勝之進を越えているとも噂されていたし、伊井も二年前にこちらに帰ってきており、高弟として門弟らに稽古をつけていたのである。ふたりさえおれば、刈谷道場は安泰な筈だった。
 福田もそう思い、去る決意を変えなかった。
 その旨を新左ェ門に話し、伊井に「後をよろしくお願いする」と頼んだが、新左ェ門は納得しなかった。その場で決闘を申し込まれたのである。
 福田は断ったのだが、新左ェ門は引かず、これは避けられないと悟った。
 伊井を見届け人として、真夜中の野原で二人は対峙した。
 結果は新左ェ門の負けである。水月の剣は人の適うものではなかった。
 そして、新左ェ門の方が旅立ってしまったのである。
 福田に絶対に待っていろ、と言い残して……
 福田は従うしかなかった……

 そして新左ェ門が旅だってから一月程たったある朝、福田は道場の門の前に一人の少年が立っているのを気がついた。年の頃は十四、五歳だろうか。
「誰だ?何かご用かな?」
「あ……」
 少年は福田の声に振り返り、真直ぐな瞳を向けた。
「…あ、あの…私は相葉影嗣といいます。この道場に入門したくて参りました。お願いします。入門させて下さい」
 少年は深く頭を下げる。
 きっと伊井の評判を聞き付けてやってきたのだろうと、福田は思った。
「分った。道場を預かっている伊井に紹介しよう。ついて来なさい」
「はい」
 相葉は福田の後ろをついて歩いてくる。
「…あの…あなたは……」
「ああ、すまない、私は福田謙二郎だ。一応この道場で師範代を勤めている」
「…福田さん……」
 相葉は綺麗な瞳を福田に向けていた。
 この時福田は相葉の事を『聡明な少年だな』と思っただけで、特別なものを感じなかった。
 相葉が新左ェ門との対決で水月の剣を見た事も、福田に憧れてこの道場にやって来た事も知らず、まして、これから先、自分の運命に深く関わってくる人などと、知る由もなかった。

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