主要登場人物

相葉影嗣(あいば かげつぐ) …二十一歳、刈谷道場の門弟、相葉家の次男部屋住み
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十六歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …三十三歳、刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …三十四歳刈谷道場の本来の持ち主
刈谷勝之進(かりや かつのしん) …(故人)新左ェ門の父
刈谷九郎兵衛(かりや くろべえ) …(故人)新左ェ門の祖父で福田の師
相葉宣高(あいば のぶたか)…二十九歳、相葉影嗣の兄で相葉家の跡取り
堀田 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
橋本 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
曾根崎 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
平川彦蔵 …謎の剣客
牧村親成(まきむら ちかなり) …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村加代 …牧村の妹
静 …相葉宣高の妻

虎落笛(もがりぶえ)影華の章 1

  年が明けた。
 城下町や村は正月のめでたい雰囲気で盛り上がっていた。しかし、それも三が日だけである。七日を過ぎる頃には人々はすぐに生活の仕事に追われはじめ、日常がもどってきた。
 正月の間も今も、福田は落ち着かない気分だった。
 原因は、あの年末に発見した藁人形である。
 ああいったものは、多くが見かけだおしの害がないもので、見つければすぐ簡単に取りはずせるのだ。
 が、あの藁人形は本物である。本物の強力な呪がこめられていた。
 一体誰が、何の為に?誰を呪っているのだ?
 今、神社の神主は親戚の不幸で留守にしているし、あんな強力な呪詛を扱える術師は限られているだろうに。
 近くの寺の住職に頼んでみようかと、留守を預かっている宮司の子とも話し合ったが、どうも、その寺の住職と神主は仲が悪いらしい。頼むにしても、神主の許可が必要だというのである。
 ややこしい話だ、と福田は思ったが、それよりも問題は、藁人形をはずせば、すべての呪が呪った者に倍になって返る事である。
 自業自得と言えば容易いが、あれだけの呪を返されたのでは、命が危ういかもしれない。しかし、その一方で呪われている相手も、命が危うい程の呪を受けているのだ。
 いずれにせよ、藁人形ははずさなければならないだろう。その時、誰がその呪をその身に受けるのか……
 福田は軽くため息をついた。ふと気がつけば、水平線に太陽が沈みかけている。
「帰るか……」
 浜辺で垂れていた釣り糸をたぐりせ、福田は家り支度を始める。浜をあがって道を歩こうとした時、風の中に混じる血の匂いを嗅ぎとった。
『人の血だ……』
 道脇に釣り竿を置き、福田は近くの林に足を踏み入れた。しばらく、探すと、大きな木の根元で倒れ込んでいる少年を見つける。年の頃は十五、六だろう、体中傷だらけであった。
 福田はそっと近付き、傍らにひざをついた。
 その時、少年はいきなり上半身を飛び起こした。福田を睨みつけ、右手にもった短刀を構える。瞳が憎悪の炎で燃えていた。体中からすさまじいまでの殺気が漂う。普通の少年ではない。
 かなりの手練、しかも、人を殺めた者のもつ殺気である。だが瞳に怯えの色が見えた福田は
『傷付いた子狐みたいだな』
 と思う。
「別に私は何もしないよ。ただ気になってな」
 動じる風もなく、落ち着かせようと、優しい言葉をかける。
「怪我をしているようだ。私の家はこの近くなので、ちょっとこないか?多少の薬ならあるぞ」
「…………」
 少年は相変わらず、刀を構えて睨んでくるだけである。
 しかし、その瞳からは憎悪は消えていた。
「さあ、おいで。手を貸そう」
 福田は手をのばした。少年は手と福田の顔を交互に見ている。
「大丈夫だ、おいで……」
 福田の優しい瞳に気を許したのか、少年はおずおずと手を差し出した。

     *

 少年を家に連れて帰った福田は早速、傷の手当てをした。かなり深く、すべて刃物による傷跡であったが、福田は何も聞かなかった。
『適確に急所を狙われたものだな』
 しかし、寸でのところで上手く急所をかわしている。となれば、かわしたこの少年も、やはりただ者ではない。
「腹は空いていないか?たいした物はないが、食べるか?喉の方が乾いているか?」
「……………」
 福田は喉が乾いているだろうと、白湯を持って来た。が、少年は手をつけなかった。
「自分で飲みたかったら、勝手に飲んでくれ。井戸は中庭にあるし、土間に急須もあるからな」
「……………」
 少年はずっと無言である。
 握り飯を出したがそれも食べなかった。少年はそのまま福田の家で夜を迎えた。
 福田は客間に布団を敷き、そこで寝るようにと言って眠ってしまった。
 少年は畳みの上で座り続け、長い間、闇の中で目をこらしていた。
 しばらくたってから、少年はそっと襖を開けて、福田の部屋を覗いてみる。彼はやすらかな寝息をたてて眠っていた。
 少年の張り詰めていた気が少し緩む。
 何故、こうも簡単についてきてしまったのだろう?自分でも不思議だった。しかし、彼の瞳を見た時、穏やかな優しい口調で話し掛けられた時、信じられるような気がしたのである。
 人など、今まで信用した事はなかったのに……
 家に来てみても、彼の気配だろうか、とても澄んだ空気を感じて気持ちが落ち着いた。それに、彼は懐かしいなにかを感じるのだ。
 何者なのだろう?
 武士のようだが、姿勢や動きに無駄がないので剣士かとも考えた。が、学者と言われた方が納得できる気がする。
 剣を持つ者にしては、彼の気があまりに白いからである。
 今までいろんな人を見てきたが、彼のような人物は初めてだった。こんな穏やかな空気を纏った人は……
 少年は幼い頃に旅芸人に売られ、そこで身につけた刀芸のおかげで、またある一団に売られた。そこからは地獄と呼ぶに相応しい日が続いたのである。
 売られてから連れてこられたのは、人里離れた山の奥で、来る日も来る日も術を習得する為の訓練が続けられた。
 体術、剣術、暗殺術、と人を暗殺する為の技術である。自分が売られた一団は、金をもらい、人を殺める事を生業とする一団だったのだ。
 同じような仲間が六人いたが、最後まで残ったのは自分一人だけである。残りは過酷な訓練の最中に皆死んだ。死んで当たり前の訓練だった。水中に足に重りをつけられたまま沈められたり、手足を縛られたまま川に放りこまれたり。飛んでくる矢を避けながら森を走りぬけたり。
 もっとも恐ろしいのは食事の時間だった。毒が入っているのである。
 しかし、腹が減っているので、食べない訳にはいかない。どれに毒がしこまれているのか、分かるようになるまで三年はかかった。その間、何度腹をかかえて転げ回り、死にかけただろうか。おかげで、少量の毒であればきかない身体になった。
 そして、烏組の一員として十番目の名前をもらった。見事な雇われ刺客として、何人も手にかけ、命じられるままに、人を殺し続けた。
 だがある日を境に、この生活の果てに何が待っているのか考えるようになったのである。
 考えついたのは‘死,だった。
 いつか、俺は死ぬ。人は誰でも死ぬ。自分が殺してきた者と同じように自分も死ぬのだ。ボロ布になって道に打ち捨てられ腐って死ぬ。誰も悲しむ者はいない。
 なんて空しいのだろう……
 もし、死ぬならば、いつか死ぬならば、自分の意志で死にたい。何かの為にと、思い始めた。
 こんな、誰の為かも分からない殺しという仕事の最中に死ぬのは嫌だった。
 自分でこうしたいと願った事はない。それが許される環境にいた事もない。
 初めての願いだった。それは日々押し殺しておけぬ程大きくなっていった。
 そして、ある日、武家屋敷で主人の命を奪うという仕事をした時、家来に見つかってしまったのである。逃げる際、相棒が矢に打たれて死んだ。仕事は常に二人以上で取り組み、助け合う事と監視し合う事になっていた。脱走者は即、始末される。けれど、その時、自分は一人になったのだ。
 これは、天が自分に初めて与えてくれた機だと思った。
 そのまま、仲間の元には戻らず、逃亡したのである。
 そして、逃亡生活が始まった。絶えず、追っ手に怯えながら逃げるだけの毎日……
 逃げだしてから二年の歳月が流れ、脱走してもしなくても、自分はのたれ死ぬ運命なのだと悟ったのは最近だ。
 昨日は一団の一人である六郎に見つかり、死闘となった。なんとか逃げられたが、かなりの深手を追ってしまい、木の根元に倒れ込んだのである。
 もはや、これまでか……
 そう思った時、彼が現れた……救いのように………
 のこのこ付いて来たのは、きっとやけになっていたのだ、気が弱くなっていたのだろう、と少年は自分に言い訳した。
 襖を閉め、恐る恐る置きっぱなしになっている握り飯に手をのばす。初めはおずおずと食べていたが、やがてガツガツと、三個の大きな握り飯を、あっという間にたいらげてしまった。喉が乾いたと思い、中庭の井戸に行き、水を汲む。桶から直接飲んで乾きを癒すと、ようやくほっとした。
 空を見上げると、一面の星空がひろがっている。
 少年はこのまま立ち去ろうと、思う。が、腕に巻かれた包帯が目にとまり考えこんでしまう。
 傷薬をだしてきた時、毒かもしれない、と思ったが、少年は毒と薬を見分ける事が出来た。匂いから、確かに薬だと確認できたのである。
 包帯を巻く、彼の手はとても優しく感じられた……
 しばらく迷った後、部屋に戻った。
 何も、夜中に出ていかなくていいだろう。今夜は冷えるし、一晩ぐらいあの暖かい部屋で明かしても支障はあるまい、と考えたのである。
 敷かれた布団に手をのばして触れてみる。やわらかくて、暖かそうな感触だった。
 こんな布団で眠った事などない……
 少年は恐くなって急いで布団から離れた。
 こんないい事がある訳ない。絶対にない。もしかしたら、罠かもしれない、いや、きっとそうだ、やはりあの男は俺を殺そうとしているのだ!傷薬が毒薬ではなかったのは、油断させる為なのだ!
 少年は懐から短刀を取り出し、福田の部屋の襖を開けた。
 先程と同じ福田の寝息が聞こえる。
 少年は福田に近寄り、寝首をかこうと短刀を構えた。
「あまり動くと傷口がひらくぞ」
「!」
 いきなり福田が口をきいたので、少年は驚いて飛びすさった。襖に背中をぶつけ、急いで客間に戻る。バクバク鳴る心臓を抱えて隅に座った。
 何故、分かったのだ?!完全に気配は消していたのに!それに、いつ目を覚ましたのだろうか?何も感じなかった。
『なんだ、あのおっさんは?!武芸者か?でもまったく隙だらけじゃねーか!』
 もしかして寝言だったのだろうか?と思える程、変化が読み取れなかった。
 少年は朝まで考え続けたが分からなかった。しかし、いつの間にか彼の心の中から警戒心がなくなりだしていた。

     *

 次の日の朝、何ごともなかったかのように、福田の態度は変わらなかった。
 もしかして、殺そうとした思っていないのか?と、少年は疑った。
 朝食に粥と味噌汁が出されたが、やはり少年は食べなかった。同じ鍋から福田の椀と、自分の椀に注がれるを見ているので、毒は入っていないと分かっている。しかし、そう簡単に誰かの見ている前で食べる気にはなれなかった。
「傷を見てみよう」
 と、福田は少年の包帯をほどいた。
 昨日と同じように薬を塗り、また新しい清潔な包帯を巻いてくれる。
 やはり彼の手は優しかった。
「…聞かないのか……?」
 少年は初めて口をきいた。
「…ん……?」
「名前とか…どっから来たとか……」
「…そうだな……」
 福田は微笑んだだけで、それ以上何も言わなかった。
『変なおっさんだな』
 と、少年は思う。
『でも、変なだけで、いい人みてーだな』
 とも。
『そういや、こいつの名前も知らねーな』
 そして、少年は福田が名乗らないのは、自分が名乗るまで待っているからなのだ、と気がつく。こちらの気持ちを優先されているようで、少年は心がくすぐったくなる。
『ああ、そうか、こいつは俺を人間扱いしてくれるんだ』
 初めてだった。そんな扱いを受けるのは……
『このくずが……!』
『死にたくなければ立て!』
『殺せ!』
『貴様の代わりなどいくらでもいる!』
 いつも、自分にむけられる言葉はそんなものばかりだったから……
「福田さん」
 その時、玄関から声がした。福田が出て行くと、相葉が立っていた。
「影嗣か…どうした……」
「あけまして、おめでとうございます」
「……こちらこそ、あけましておめでとうございます」
 二人は年始めの挨拶をかわした。
 年が明けてから、相葉は家が忙しく、二人は道場でしか会っていなかった。去年の年終わりから、兄の婚礼などのせいで、相葉は家に翻弄されっぱなしなのである。
 師弟としての挨拶なら道場でかわしたが、相葉は、福田と一対一でかわしかったのだ。
「今日は道場が休みですので、弓の稽古をさせて頂きたいのですが……」
「……分かった…入りなさい……」
 家に上がり込むと、部屋に包帯だらけの少年が座っているのが目に入った。
「彼は……?」
「怪我をしていたので、連れてきたんだ」
 福田はよく犬でも猫でも怪我をした動物を連れて帰ってくるが、人間は初めてである。怪訝そうに見ていると、少年と目が合い、睨まれた。
 その視線に殺気を感じる。
 的場で福田と二人になってから聞いてみた。
「何者です?」
「さあな……」
「怪我ってどんな怪我です?」
「聞いてどうする?」
「……普通の怪我ではなかった筈です。刀傷ですか?」
「…………」
「やはりね……誰か人を殺めたのでは?」
「…………」
「いいのですか?」
「…怪我をしていたから連れてきた…それだけの事だ……」
「……分かりました……」
 相葉はそれ以上何も言わず、弓の稽古を始めたが気に入らなかった。

 少年は先程相葉が呼んだので、男の名前が福田だと知った。
『福田、か…福田なんていうんだろう?あの男はなんだろう?弓の稽古とか言ってたな』
 そういえば、この奥に的場があったのを思い出す。
『福田って弓の師匠なのかな?』
 相葉の視線を思い出す。こちらを警戒する不信に満ちた視線だった。
『…気にいらねーな…あいつ……』
 そんな視線には慣れっこの筈なのに、相葉のそれはかなり勘に触るのだ。
 身なりや体つきが良い事も、男前な事も、自信に満ちた空気も、なにもかもが気に入らなかった。
 福田が彼の名前を親し気に呼んだのも……

          *

 夕食の時間、居間には妙な空気が漂っていた。
 囲炉裏を挟んで、福田と相葉が向い合って座り、部屋の片隅に少年が壁にもたれて座っていた。
 今日の料理は福田が作ったものである。よって、大鍋に切った野菜、魚、うどん等を入れて煮込んだだけの簡単なものであった。
 最近、お重さんが十二人目の孫の世話で忙しく、あまりこちらに来れないらしい。
 福田はそれを鍋から椀に盛り、少年に差し出すが、彼は受け取らなかった。とりあえず側に置いたが手をつけない。
「怪我が痛くて食べれないのか?」
「…………」
「手伝おうか?」
「…………」
 少年は相変わらず無言だったので、福田はとりあえず、囲炉裏の前に戻った。
「結構旨いですね」
 相葉がぼつりと呟く。
「そうか?ありがとう」
「福田さんは結構なんでも器用にこなしますもんね」
「ん?そうかな?」
「そうですよ……」
 誰でも、動物でもすぐに器用に打ち解ける……
 あの少年は、もうとっくに福田に気を許している。警戒しているのは福田ではなく、自分なのだ、と相葉は気付いていた。福田を見る眼差しと、自分ではあきらかに違うからである。
 今日は帰るか……
 と、相葉は夕食を終えると、帰宅する旨を告げた。福田の顔にほっとした表情が浮かび、癪に障った相葉はやっぱり泊まろうかな、とも考える。
 本当は泊まる気だった。そして、ずっといようと思っていたのである。目を離すと、彼は行ってしまうだろうから……
 そんな事させるか。
 が、あの少年がいるのなら、しばらくは大丈夫だろう。怪我した人を放りだしていける福田ではないのだから。
「じゃあ、気をつけてな……」
「…………」
 外まで見送りに来ていた福田に、相葉は触れるだけの口付けをした。
 油断していた福田は一瞬呆然となるが、すぐに真っ赤になって俯く。
「では、失礼します……」
「……ああ……」
 相葉が見えなくなっても福田はしばらく外にいた。火照った体を冷ましたかったのである。
 まったく、彼はいつも、いつも意表をつく行為をする。
 去る決意がぐらつきそうになる……
 駄目だ……!彼の為にも自分はいるべきではないのだ……
 何度も言い聞かせた言葉を、また心の中で呟く。
 熱さがひいた頃、福田は家に中に入った。
 居間に戻ると、少年が先程相葉が座っていた席に座り、ガツガツと夕食を食べていた。その姿に福田は安堵感を覚える。
「おかわりは?」
 少年は黙って空になった椀を差し出した。
 おかわりを入れて渡してやる。
「……幸太だ……」
「……ん?……」
「…俺の名前……」
 それは昔、旅芸人で呼ばれていた、親がつけただろう名前であった。親の顔など、もう覚えていないが。
「そうか、いい名前だな。私は福田謙二郎だ」
 福田は微笑みながら、そう答えた。
 少年は自分も笑顔をかえそうとしたが、笑い方を忘れてしまっていた。

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