主要登場人物

相葉影嗣(あいば かげつぐ) …二十一歳、刈谷道場の門弟、相葉家の次男部屋住み
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十六歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …三十三歳、刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …三十四歳刈谷道場の本来の持ち主
刈谷勝之進(かりや かつのしん) …(故人)新左ェ門の父
刈谷九郎兵衛(かりや くろべえ) …(故人)新左ェ門の祖父で福田の師
相葉宣高(あいば のぶたか)…二十九歳、相葉影嗣の兄で相葉家の跡取り
堀田 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
橋本 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
曾根崎 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
平川彦蔵 …謎の剣客
牧村親成(まきむら ちかなり) …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村加代 …牧村の妹
静 …相葉宣高の妻
幸太 …十六歳 刺客を生業とする一団の殺し屋

虎落笛(もがりぶえ)影華の章 2

 次の日、福田は道場へ出かける日だった。朝食の支度をしていると、幸太が無言で手伝ってくれた。
 帰ってきた時には夕餉の支度をしてくれてあって、福田は嬉しそうに笑って礼を言った。言われた方の幸太は初めての言葉にとまどっていた。身体がむず痒くて、でも暖かくて……
 その時、幸太は笑えるようになる予感がしていた。
 そんな風に過ごして、三日を過ぎる頃には、ポツポツ口を聞くようになり、幸太は福田の事を聞き始めた。
 そして道場の師範代を勤めている事や、何かの剣の継承者だという事(これはかなり驚いた)門弟達の中で一番親しいのが、あの相葉影嗣という男である事などを知った。
 相葉にまつわる武勇伝なども聞かされ、幸太はますます彼をいけすない奴だと思った。
 きっと彼は苦労などとは無縁の坊ちゃんなのだ。そんな人種は大嫌いだ。生まれながらにすべてを持っている奴が憎い。そいつらは自分に与えられた物に感謝すらした事がないだろう。持っていて当たり前のものだからだ。どんなに求めても、手に入らない人の存在など、一生知らずに終わるのだ。
 何より、福田が彼の話をする時、想い深い様子を見せるのが一番気に入らないのである。
 こうして、十日程が過ぎてた。怪我の具合も大分良くなり、幸太は福田に自分の話を少しするようになった。
 もちろん自分の生い立ちや、殺し稼業という事以外である。旅で見た景色や動物、起こった出来事などだ。
 福田はふんふんと、頷きながら、笑顔をみせて聞いてくれる。幸太はそれが嬉しくて仕方なかった。こんなにも話を聞いてくれる人など今までいなかった。自分はただ人の言われるままに動けばいいだけだったからだ。意見も考えも、もつ必要はなかったのである。
 話すという行為がこんなにも自分の気持ちを明確にするのだと、幸太は初めて知った。話す事によって自分の気持ちを考えるようになり、見えてくる。これは新しい発見だった。きっと、聞いてくれるのが彼だからだ。彼だから、こんなにも話せるのだ、と幸太は気がついていた。
 本当は、もうここを離れなければならない。
 山で六郎に会ったのだから、まだこの近くで自分を探している可能性が大きい。今度、見つかったら命が危ない。早くこの地を去らなければ。
 そう思うのに、幸太はなかなか出て行けなかった。
 もう少しだけ、明日、明日出て行こう、と、毎日思うが結局、留まってしまうのである。
 少しでも長く福田の側にいたいと思ってしまう。
 彼の側は暖かくて、とても安らぐのだ。
 彼の手も、眼差しも優しくて、このまま時が止まってしまえばいいのに……
 と、ありえない事を願ってしまう……

 そんな時、鶴羽神社の宮司の子が二人、連れ添うように福田の元にやって来た。福田も藁人形の事は気になっていたので、早速経過を聞いてみた。が、実は神主から文が届いて、なんと旅先で病にかかってしまったというのである。たいした病ではないが、しばらくは帰れないらしい。
 例の藁人形の話は、とりあえず、黙っておいたが、処理をどうしたらいいのか、と相談に来たのだ。
「寺の住職に頼むしかあるまい。そういう事情であれば、後で知っても神主殿はお前達を咎めたりしないだろう」
 福田はそう答えたが、
「実は……」
「なんだ……?」
「寺の方で旅の僧がやっかいになっているらしいのです。かなり高名なお坊様らしくて、その方に頼んでもいいかと……」
「なる程。それはいいかもしれんが……」
 あれだけの呪術を昇華できる人物だろうか?
 しかし、早く取払わなければ、呪われている者の命が危ない。
「私が一度会ってみよう」
「本当ですか?!」
「ぜひ、お願いします」
「ありがとうございます」
 神官の二人はあからさまに、助かった〜、いった表情をしたので、福田は思わず苦笑する。なんの事はない。本当はそれを頼みたかったのだ。
 二人は福田に礼を言い、上機嫌で帰っていった。
「誰だ、あいつら?」
 幸太が眉を歪めながら聞いた。最近ではこんな風に普通の会話も交わすようになっている。
「神社の宮司の子だよ。神主がいない間留守を預かってるんだが、敷地内で藁人形が見つかってな。処理に困っているんだよ」
「で、あんたに押し付けに来って訳か」
『あんたは誰にでも優しいんだな……』
 幸太は意味も無く苛つく。
「そういうつもりではないだろう。まだ若いから不安なのだよ」
「しかし、あんたを利用してるんじゃないのか?」
「利用じゃないさ。頼みに来たんだ」
「結果は同じだろう。自分がしたくない事をあんたにやらせるんだから」
「んー…しかし、私が自分からやると言ったのだ」
「そうするようにもっていったんだろ。あんたが……」
 優しいのにつけこんで……
「だけど、やはり私が自分で決めた事だ」
「……あんたなんでもするんだな。なんでも出来る訳だ……」
「出来る事が多いからといって、偉いのでもないがな……」
「…………」
「明日は道場の帰りに寺に寄ってくるから遅くなると思う。夕食は先に済ませておいてくれ」
「…………」
 幸太の胸には今まで味わった事のない苦い思いが渦巻いていた。
 怪我をしている訳でも、恐いのでもないのに胸が苦しい……
 なんだろう、この気持ちは……
 言いたい事があるのに言葉にならない。いや、何が言いたいのかさえ分からない。
『俺の頭が悪いせいかな?』
 ふと見ると、福田が土間で、ご飯を焚き始めた。火を起こし、竹筒で竈に空気を送り込む。その足下に一匹の猫が寄ってきた。福田が撫でてやると、猫は嬉しそうに喉をならす。
 幸太は一瞬その猫がうらやましくなる。
 いや、猫だけではない。福田の元にはいろいろな動物が集まってくるのである。餌を与えているのでもない、ただ、福田に会いにくるのだ。それは見ていても分かる。そんな時の福田は彼等と話をしているからだ。言葉ではなく、別の方法を使って……
『不思議な人だな……』
 相変わらず彼は何も聞かない。優しく傷の手当てをし、微笑みかけてくれるだけだ。だが、彼といると、言葉など必要ないように思えてくる。
『本当に人だろうか?』
 最近、幸太はそんな風に思うのだった。

 一方、相葉は幸太が福田の家にいるのが気に入らなかった。当初は、奴がいれば福田が去る事はないから良かった、などと考えていたのだが、あまりに長く滞在しすぎている。
『あいつ一体いつまでいる気だ』
 相葉はとっとと家を出て、福田の所に身を寄せたかった。家に入ればしょっちゅう縁談話を持ってこられるので、うっとおしいのである。
 兄の宣高は最近具合が悪く臥せっているので(周りの者は祝言をあげたばかりではりきり過ぎたのだろう、と影で冷やかしていた)余計に話に熱が入っているのだ。
 相葉にも、結婚はいいものだ、と親戚連中が言いまくるのである。たまったものではない。
 最近は帰りたくないので、友人の家を泊まり歩いている始末だ。
『もう、奴がいたっていい。今夜にでも福田さんの所に行ってやれ』
 道場に向かう道を歩きながら、相葉はそう考えていた。
 ただ、福田と同じ屋根の下にいて、何もせずにいる自信はないのだが……
「相葉」
 後ろから声をかけられる。
「ん、ああ橋本か。お前もこれから道場か?」
「……まあな…ちょっといいか?話があるんだ……」
「?」
 真剣な表情の橋本に促され、二人は人気のない河原に降りていった。
「なんだ?話とは?」
「実はな、三百石の武田家知ってるか?」
「?ああ、それが……?」
「俺の家の遠縁にあたる家でな、その武田家に今年十六になる娘さんがいるんだが……」
 相葉はいやな予感がした。
「お前の奥方にどうかって言われたんだが、どうだ?かなり器量良しだぞ」
「……断ってくれ……」
 相葉はうんざりして、ため息まじりに呟いた。
「お前、もちこまれる縁談をことごとく蹴っているそうじゃないか。いくら次男とはいえ五百石の相葉家の男子がいつまでも独り身では体裁が悪いだろう」
「体裁など俺の知った事か」
「誰か…好きな人でもいるのか?」
「そうだ」
「……相葉…お前…福田さんが好きなのか?」
 突然の問いに驚いた相葉だったが
「……ああ…そうだ……」
「…そうか……」
「どうして分かった?」
「あの能の舞台を見ていた時の堀田とのやりとりでな……お前、人じゃないかもしれないって言っただろ。あれでもしやと思ったんだ」
「……ああ…あの時な……」
「…だが、想いが成就する事はないんだ。諦めろ」
 相葉は少しムッとした。
「…お前に関係ない……」
「関係あるさ。お前は友人なんだ。間違った道に行きそうになったら正して当然だ」
 間違った道だ?
 相葉は橋本を睨みつけたが、彼は微動だにもせず受けとめた。
「そうだろう、衆道など浪人ならいざしらず、お前の身分で許されると思っているのか。しかも師弟関係じゃないか。世間の批判を浴びるのは目に見えてる」
「批判など……」
 恐くはない。自分は自分の想いに正直に生きたいだけなのだ。それの何が悪い。
「お前が良くたって福田さんが迷惑だ。白い目を浴びるのはむしろあの人の方になるんだぞ」
 相葉は言葉につまった。
「もし、ここで暮らせなくなったらどうする気だ?あてもないのに出奔するのか?」
「……それでもいい……」
「相葉!いい加減に目を覚ませよ!なんだかんだ言ったって、お前は苦労知らずの良家の坊ちゃんなんだ!飢えた事もなければ、頭を下げる必要もなかっただろうが!」
「……橋本……」
「そんなお前がここを出て、まともに生きていける筈ないだろう……」
「……そんなのは……」
 違う!
 相葉は心の中で叫びながら、強い焦燥感を感じていた。橋本の言っている事が正論なのだと分かっているからだ。自分は本当の意味での生きる辛さを知らない。
 けれど……
 違う!
「……己を偽るのは嫌だ……」
「福田さんを不幸にしてもか……?」
「…………」
「大切な人を苦しめるのがお前の愛し方なのか……?」
 相葉は何も答えられなかった。そのまま、彼に背を向け歩きだす。橋本の言葉が針のように胸に突き刺さっている。
 とても惨めな気持ちだった。
 自分がどんなに醜いか、子供じみた事をしているか、分かっているつもりだった。だが、橋本はその自分の姿をはっきりと映し出して、自分につきつけてみせたのである。
 自分が避けてきた現実というものを、目の前に突き付けてきたのだ。
 愛されているという確信もないくせに、一方的な想いを押し付けて、彼を苦しめている……
 なんという餓鬼なのだろう、自分は。成人男子にあるまじき姿だ。
 どうしようもない男だな、俺は……
 しかし、どうすればいい?
 この狂おしい程の気持ちをどこにもっていけばいい?どこで折り合いをつければいいのだ?
 想いを制御できないのは自分が子供だからか?では、大人になるとはどういうことなのだろう?
 この情熱に蓋をする事か?
 何が出来たら大人なのだ?
『俺のようになるなよ』
 ふと、牧村の言葉が耳に蘇る。
 そう言った彼は分別のある大人だった。加代への想いを押し殺し、自分を自制し続けてきた。そして結果があれだ。
 だが牧村と加代が想いを確かめ合ったとしても、幸せになれたのか分からない。どう転んでも、背徳の想いに身を焦がした者の末路は破滅なのか?
 あの時、牧村にしてやれる唯一の事だと信じて彼を切った。しかし、本当にそうだろうか?彼はそれで満足だったのか?
 牧村、教えてくれ、お前はそれで良かったのか?俺は愛する人を苦しめるだけの存在か?俺のようになるなとはどういう意味だ?この想いを打ち消す事か?それが最良なのか?
 そして、周りの薦めに従い、愛してもいない女性と結婚するのか?家の為に……
 相葉の背中に虫酸が走る。
「……無理…だ……」
 けれど、そうしなければ愛する人を不幸にするとしたら……
 突風が吹いて虎落笛が辺りに響き、相葉は身体をビクリと震わせた。
 額に汗が浮かび、息と心臓の鼓動が跳ね上がっていた。頭にガンガンと響いて頭痛がする。
 見えない何かが自分を圧迫してくる。大きな黒い塊が覆いかぶさってくるのを感じる。
 それは、自分の背後に迫る意志を持った闇だ。がんじがらめにしようとするこれから逃れる術を相葉はもたなかった。
「去れ!」
 相葉はその闇を振払おうと、無意識のうちに大声をだしていた。
『大丈夫、大丈夫だ……』
 相葉は自分に必死に言い聞かせ、気持ちを落ち着かせようとした。
 何も変わらない……
 嘘だと分かっていても、自分の胸に言い聞かせ続けた。そうしなければ、心の均衡を失いそうだった。
「…は……」
 相葉はなぜか薄笑いを浮かべていた。
 気が狂う……
 

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