主要登場人物

相葉影嗣(あいば かげつぐ) …二十一歳、刈谷道場の門弟、相葉家の次男部屋住み
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十六歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …三十三歳、刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …三十四歳刈谷道場の本来の持ち主
刈谷勝之進(かりや かつのしん) …(故人)新左ェ門の父
刈谷九郎兵衛(かりや くろべえ) …(故人)新左ェ門の祖父で福田の師
相葉宣高(あいば のぶたか)…二十九歳、相葉影嗣の兄で相葉家の跡取り
堀田 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
橋本 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
曾根崎 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
平川彦蔵 …謎の剣客
牧村親成(まきむら ちかなり) …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村加代 …牧村の妹
静 …相葉宣高の妻
幸太 …十六歳 刺客を生業とする一団の殺し屋

虎落笛(もがりぶえ)影華の章 3

「私が聖行(じょうあん)だが」
 福田はさっそく寺に行き、例の旅の僧に面会を頼んだ。寺にあがるのは、はばかられたので、小僧に門先に呼び出してもらう。しばらく待って現れたのは、かっぷくのいい、大柄な僧であった。
 体躯の良さもさる事ながら、堂々とした態度、険しい顔だちに、威圧感を覚える。長い間旅をしているらしく、着ている僧衣はボロボロだった。
 かなり荒々しい気性のお坊様ではないだろうか、と福田は思った。今まで会った僧とは違う印象を受ける。そんな気性の持ち主でなければ、信仰の旅はできないのかもしれない。それに、かなり厳しい目にあっている人物だとしたら、あの藁人形も扱える可能性がある。
「はじめまして、私は福田謙次郎と言いまして、町の道場で師範代を勤めております者です。忙しい中、ご面会下さりありがとうございます」
 福田は丁寧にお辞儀をした。
「いやいや、私はこの寺に世話になっている身ですからな、気楽なものですよ。で、私になにか?」
「実はお願いがありまして、参りました」
 福田は簡単に事情を説明し、改めて、藁人形を取り払いをしてくれないかと頼んだ。すると、聖行はあっさり引き受けてくれた
「分かりました。私にできるのでしたらやらせていただきます」
「ありがとうございます」
 福田はまた頭を下げた。
「では、取払いの儀式をする前に一度見ていただきたいのですが……」
 あれだけの呪詛だ。一度見ていただき、取り払えるか判断してもらった方がいい。
「……う〜ん、そうですな…一度案内していただけますか?」
「分かりました、ご都合のよい日がありますか?」
「早い方がいいでしょう。呪われている方の安否が心配です」
「……そうですね……」
 福田は少し心が痛んで思わず尋ねる。
「呪っている方は大丈夫なのでしょうか?」
「は?」
「呪が破られた時は、呪った方へ倍の呪が返ると聞いておりますが、本当ですか?」
「ええ。ですが、仕方ありませんな、自業自得でしょう」
「…………」
 容赦のない言葉である。やはり、聖行は荒々しい気性の持ち主らしい。
 しかし、呪っている方も、それだけの理由があってした事だろう。人道にはずれた行為だが、そこまで追い込まれたとも言えるのだ。もちろん、福田はどんな事情があるのかなど、知る由もない。だが、あの藁人形からは強力な呪詛の他に、深い悲しみを感じるのである。
 哀れだな……
 そんな風に感じてしまう。
「明日は用事がありますので明後日、案内していただけますか?できれば遅い時刻の方がありがたいのですが」
 聖行の言葉に福田は顔をあげる。
「はい、分かりました。私も道場での稽古がありますので、五つ刻(午後四時)ほどでは?」
「構いませんよ」
「では、こちらの寺にお迎えにまいります」
「いや、実は朝方から出かける事になっておりますので、私があなたの家に行きましょう。あとで子坊主にでも場所を聞いておきます」
「しかし、それでは……」
「気に為さらず。私は待つのは嫌いな質でしてね」
「分かりました。ではお越しをお待ちしておりますので、よろしくお願いいたします」
「分かりました……」
 福田は挨拶をすませると、寺を去って行った。
 その後ろ姿を聖行は無気味な目で見つめていたが、福田はそれに気付かなかった。

 寺からの帰り道、相葉家の家臣である榊に会った。初老の温和な人で、影嗣が心を許している数少ない内の一人である。以前、次男影嗣の遊女屋通いを止めさせてくれないか、と頼みにきた人物でもある。幼少の頃から相葉に仕えているが、放慢な彼にいつも振り回されているようだ。
「福田さん、お久し振りです……」
「ああ、お久し振りです。お元気ですか?」
「はい、変わり無く……時に福田さん、お時間ありますか?お手間はとらせません。」
「今ですか?」
「はい……」
「少しなら……」
「では、そこの茶屋に付き合って頂けますか?おりいってご相談したい事が……」
「……分かりました」
 彼の相談事と言えば、絶対影嗣の話なのである。
 二人は茶屋に入っていった。
 榊の話はやはり影嗣の事であった。持ち込まれる縁談をことごとく断っているので、参っているとういう話である。
「福田さんの方からも、それとなく説得していただけませんか?」
「……榊殿達が大変なのは分かりますが……あまり無理強いをせぬ方がいいのではないでしょうか?」
「しかし、こうも、無下に断ってばかりいると、気を悪くする相手方もおりまして……」
「ですが……」
 話ながら福田は胸にもやもやとした染みが広がっていくのを感じていた。
「……しばらく様子を見てみてはいかがでしょうか?あの子は強情なところがありますし……」
「はあ……」
「あまり追い詰めない方がいいと思いますよ。不器用な質ですから、心に不可がかかっても、逃げるという事があの子は出来ません……」
「まあ…確かに…」
「皆が無理強いするから頑になっているところがあるかもしれません。少し放っておいてみては?」
「…そうですね……」
 榊はそう答えつつも浮かない顔だ。
「何か心配事でも?」
「……こんな事を言うのはなんですが……」
「はい?」
「……嫡男の宣高殿は凡庸な方です……」
「……………」
「……いや、今の平和な時代には、それでいいのだと思います。しかし、影嗣様の才があり過ぎて、どうしても見比べてしまうのですよ……どうしても力の差が歴然としてしまう……」
 榊は少し目をそらして話しており、今まで言えずにいた胸の内を吐き出しているようであった。福田は黙って彼の話を聞いていた。
「家臣の中には影嗣様に仕えたいという者が大勢おります……今、宣高殿は少々臥せっておりましてね。たいした病ではないのですが、病弱だという噂が家中で広まりでもしたら、家を継ぐのは影嗣様にした方がいい、という意見がでるのは必至です。家の内紛にでもなったら……」
「それで、早く他家にと?」
「はい。他家の領主になれば、皆もあきらめるでしょうから……」
「……そういう御事情でしたか……」
「見苦しいお話を聞かせて申し訳ありませんでした。これは他言無用に願います。もちろん福田さんは軽々しくこのような話を人にする方ではないと知っていますが……」
「分かっています。お話して下さってありがとうございます……ですが、やはりしばらく様子を見る方がいいと思いますよ……そのうち、彼も変わるでしょう」
 そうだ、自分がいなくなったら、相葉は変わるだろう、と福田は胸に痛みを感じながら思った。
 自分がいなくなれば、恋の熱がさめれば変わるだろう。名門相葉家の男子としても自覚が芽生え、婚礼の話にも耳を傾ける筈だ。
 自分の事などすぐに忘れて……
「福田さん?」
 急に黙り込んだ福田を不思議に思った榊が声をかける。
「…………」
「福田殿?」
「……あ、は、はい……なんでしょうか?」
「いや、なにか心ここにあらずといった感じでしたので……」
「……申し訳ありません………」
「そんな、謝って頂かなくても……あ、ではこれで失礼いたします。お時間を取らせて申し訳ありませんでした」
「……いえ……」
「では……」
 榊と福田は茶屋を出て別れた。福田は道を歩きながら、自分が旅立った後の事を考えた。
 皆、すぐに忘れるだろうか……?自分の事を……
 もし何年後かに戻って来た時、誰も自分を覚えていないかもしれない。名前を呼んでくれる者が一人もいないかもしれない。冷たい、他所者を見る目で見られたらどうしよう。今、ここで過ごしている時間のすべてが、消えてしまったかのようになったら……
 相葉に「誰だ?」と聞かれたら……
 そう、考えて福田はたまらなく淋しくなった。孤独感に胸がしめつけられる。
『何を言ってる。その方がいいじゃないか。自分を忘れた方が彼の為だと、そう思っていただろ』
 子供が駄々をこねているみたいではないか……
 福田がいくら自分に言い聞かせても、孤独感は積もるばかりであった。

       *

 次の朝、福田は少し早めに家を出て道場に向った。さすがに門弟らは誰も来ていない。
 雑巾を取り、床を磨き始める。
 動いていた方がいい。余計な事を何も考えずに済む。
 余計な事を考えるな、何も考えるな……
 一心に床を磨いていた福田が、気配を感じて顔をあげると、稽古場の入り口の廊下に幸太が立っていた。木戸は開け放してあったのである。
「……幸太…どうしてここに……」
「…………」
 彼はこの場所を知らない筈なのに、と不思議に思いながら立ち上がった。幸太は何も言わず、稽古場に入ってくる。少し気まずそうな表情に、福田は彼が迷惑だったかと不安に思っていると分かる。
「会いに来てくれたのか?」
「…………」
「稽古を見学していくか?おもしろいかもしれないぞ」
「……そうだな……」
 いつもの優しい笑みを浮かべる福田に、幸太は少しほっとして返事をした。実は昨日、家に帰って来てから福田が淋しそうだったので、心配になったのである。道場にでかける彼を幸太はつけたが、福田は彼らしくもなく気付かなかったのだ。
「……あの……」
 幸太が何か話さなければ、と口を開く。
「ん……?」
「俺さ……あんた…懐かしい感じがするな〜て思ってたんだけど……」
「うん?」
「あんたさ……似てるんだ……」
「誰に?」
「木彫りの観音様に……」
「観音様?」
「ああ……」
 昔、旅芸人にいた頃、同じような境遇の女の子がいたが、彼女が母の形見だといって木彫りの観音像を持っていたのである。幸太は何度もそれを見せてもらっていた。いつしか母をみているような気持ちになって、その像をみると心が安らいだものだ。福田の側にいる時と同じように……
 刺客の修行に入ってから今まで忘れていた。
「……私はそんないいものじゃないと思うぞ……」
 福田は苦笑しながら呟いた。
「そんな高尚なものである筈がない……」
『あ…まただ……また、淋しそうな表情をしている……』
 幸太は福田を慰めたかった。彼にはいつも笑っていて欲しい。なんとかしたいけど、どうすればいいのか分からない。
 幸太は思わず福田に近付き、顔を覗き込んだ。
「……そうでもないと思……」
「ん?」
 福田の顔が間近に見えて、幸太は胸がドキリとした。同じくらいの身長なので、彼の真直ぐに自分を見つめる瞳が目の前に迫る。
 一点の曇りもない綺麗な瞳だ。彼の気と同じ、なんの澱みもない……
 幸太はそっと福田の身体を抱き締めた。
「幸太?」
 福田の肩に顔を埋め、背中に手を回す。
「…あんた……かーちゃんの匂いがする……」
「え……?」
「……かーちゃんの匂いなんて忘れちまったのに……」
「…………」
 福田は幸太の背中に手を回し、ポンポンと叩いてやった。
 ここ、数日暮してみて、幸太が孤児であるとは察していた。普通の境遇ではない事も……人を殺めている事も……
 しかし、幸太はいい子だった。常識や摂理を知らなかったとしても、根は素直ないい子なのだ。彼は傷ついた何も知らない小さな子供で、心は人の温かさを求めているのだと福田は分っていた。
『本当は優しい子なのだ……』
 福田はじっとして、幸太の好きなようにさせてやろうと思った。その時、入り口の木戸が大きな音を立てた。
 二人が振り返ると、相葉が驚いた様子で立っている。が、すぐに彼の表情は怒りに変わり、壁にあった木刀を掴むと走り寄ってきた。全身が殺気だっている。
「はっ!」
 怒りのままに木刀を幸太に振り下ろす。しかし、幸太はそれをなんなく躱した。
「…お前……」
 幸太は驚いた様子で相葉を見つめる。二刀、三刀と相葉は怒りの太刀を幸太に向けるが、幸太は後ろ向きに宙返りしながら避けた。冷静さを欠いた相葉の剣は、いつもの鋭さがなかったのである。幸太は躱しつつ廊下に飛び出すと、そのまま屋根に跳躍して消えた。
 残された相葉は肩で息をしていた。そして、険しい表情のまま福田を振り返る。
 福田はなんと言っていいのか分からなかった。
 幸太に抱き締められている図を見て相葉が嫉妬したのは明らかである。
『違うのだ、彼は父母の情を自分に求めていただけで……』
 そう、言い訳すればいいのか?
 分からず、とまどっている福田に相葉は足早に近付いた。
 乱暴に身体を抱き寄せ、噛み付くような口付けをする。
「…!ん……」
 福田は驚いて一瞬硬直してしまうが、なんとか相葉の手を振りほどこうともがきだした。
 こんな、稽古場でいつ誰が来るか分からないのに……
「…ん…影つ……」
「……………」
 だが、相葉の力は強くてびくともしなかった。
 しかし、福田の耳に、廊下から歩いてくる門弟達の話声が聞こえた。渾身の力を込めて相葉を突き離す。離れる瞬間唇に痛みがはしる。
 どうしたのかと、手で唇に触れると指に赤い珠がついてきた。相葉を見上げると、彼は先程とはうってかわった辛そうな顔で自分を見ている。
「…影嗣……」
「…………」
 相葉は眉をしかめると、稽古場を飛び出した。入り口付近で入ろうとしていた二人の門弟とぶつかるが、構わず彼は走り去った。
「相葉か?」
「どうしたんだ、あいつ?」
 ぶつかった門弟は相葉の様子をおかしく思いつつも稽古場に足を踏み入れる。
「あ、福田さん、おはようございます」
「……おはよう……」
「どうしたんです福田さん?」
「……え……」
「唇から血が……」
「……あ……」
 福田は唇を手で覆い隠す。
「……洗ってくる……」
 中庭に行き、井戸で水を汲み、福田は唇をぬぐった。
 そして、そっと唇に触れてみる。
 立ち去る前の相葉の辛そうな表情を思い出す。
 胸が苦しい。
 相葉が嫉妬していると分った時、困惑と共に甘い感覚が心に走ったのを福田は気付いていた。
 そうだ、自分は嬉しかったのである。彼が嫉妬しているのが……
『どうして……』
 どうして、そんな事を思うのだ。相葉が辛い思いをしているのに……
 こんな感情は初めてで、福田はとまどってしまう。こんな、醜く、激しい想いを自分がもっているなんて……
 自分の気持ちが分からなくなって、福田は長い間そこに立ち尽くしていた……
 

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