主要登場人物

相葉影嗣(あいば かげつぐ) …二十一歳、刈谷道場の門弟、相葉家の次男部屋住み
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十六歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …三十三歳、刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …三十四歳刈谷道場の本来の持ち主
刈谷勝之進(かりや かつのしん) …(故人)新左ェ門の父
刈谷九郎兵衛(かりや くろべえ) …(故人)新左ェ門の祖父で福田の師
相葉宣高(あいば のぶたか)…二十九歳、相葉影嗣の兄で相葉家の跡取り
堀田 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
橋本 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
曾根崎 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
平川彦蔵 …謎の剣客
牧村親成(まきむら ちかなり) …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村加代 …牧村の妹
静 …相葉宣高の妻
幸太 …十六歳 刺客を生業とする一団の殺し屋

虎落笛(もがりぶえ)影華の章 4

 福田が家に帰ると幸太はいなかった。日が暮れて大分たつ。
『帰っていない、か……』
 井戸に行く時、屋根の上を見渡してみたが幸太の姿はなかった。
 道場であんなことがあったから、もう帰ってこないかもしれない。彼は誰かと命のやりとりをしているようだし、殺気に敏感である。いきなり相葉の殺意のある剣を受けたのだから、警戒するのは当然だろう。もしかしたら福田と相葉の間に何かあると察したのかもしれない。あの時の相葉の様子はどう考えても尋常ではなかった……
 いつかは別れる時が来ると分かっていた。しかし、こんな形で別れたくはなかった。もう一度会えないものだろうか?
『あの時、何か言えば良かったのか……?』
 誰に……?
 幸太にか?それとも相葉に?
 どんな言葉だろうとも、言い訳じみたものになったような気がする。
 しかも自分は嫉妬している相葉が嬉しかった……
 自分がとても卑怯な人間に思えて、福田は惨めな気持ちで土間に座り込んだ。
「すみません」
 いきなり外から声をかけられ、福田はハッと顔を上げた。
『幸太?いや声が違う』
 なんだろうかと、不吉な予感がして急いで戸を開けたが、そこにいたのは何と聖行であった。
「聖行殿?」
 約束は明日の筈だが……?
「どうかなさいましたか?確か明日の予定では?」
「ええ、実はあなたが何年か前、藁人形のあった場所で神を静めた事があると聞きましたてね。その時のお話を聞かせていただけないかと、こうして参ったのです」
「……ですが……」
 聖行は仏に仕える身なのだから、神を静めた話はあまり参考にはならないのでは?と福田は思った。なにより、あそこに、もう神はいない……
 藁人形の澱んだ気に堪えられなくなったのか、人間のあまりの汚さに愛想がつきたのかは分からない。
 ただ、あの場所を神は捨てたのだ。一度汚れたあそこは、それこそ不浄のものが集まる場所となるだろう。神々しさもない、澄んだ恐ろしさもない、ただの黒い汚れた気が集まる土地に……
「実は緑茶が手に入ったので、持ってきたのです。これを飲みながらどうでしょう」
 茶はこの時代、かなりの贅沢物である。
「そんな高価なものを……ありがとうございます、では御相伴にあずからせていただきます。さ、どうぞ……」
 ただ、世間話がしたいだけかもしれないな、と、福田は聖行を居間に通した。しかし、どうしても気持ちが落ち着かなくて、そわそわした態度になってしまう。
「何かご用事でもありましたかな?」
「い、いいえ…そうではないのですが……」
 今は一人になりたい。
 そんな事を考えて、福田は心の中で自分を叱責した。
『何を失礼な事を思っているんだ。頼みごとをしておいて、自分の都合のいい時だけ相手をするなんて……』
 しっかりしなければ、と福田は土間で何回か深呼吸をした。少し落ち着くと、急須と湯のみを用意し、居間に戻る。
 先程までの事は忘れるように心がけよう、と福田は思った。
 ちゃぶ台の上でもらった緑茶を煎れて、向かいに座る聖行に差し出す。
「茶菓子など気のきいたものがなくて申し訳ありません」
「いえいえ、お気づかいなく……ささ、どうぞお飲み下さい」
「ありがとうございます。ではいただきます」
 福田は勧めるままに茶を飲んだ。
「?」
 変な味がした。
「ところで、福田殿が静めたものの正体はなんだったのですか?」
「え、あ、はい、そうですね…正体と聞かれても何も分かっていないのが現状で……」
 聖行の質問に答えながら、福田は先程飲んだ茶の変な味が舌に残って妙な気分だった。
『なんだろう、この感触は?お湯が熱かったのだろうか、舌が痺れる気がする……』
 いや、気のせいではない。本当に舌が痺れている。しかも、胸やお腹まで痺れが広がってきた。
「…あ……」
「?どうかしましたか?」
「……い、いえ…少し……」
 そう答えた途端、急に身体の内部が燃えたような熱さを感じ、福田は前に手をついた。
 お腹が、胸が、喉が火に焙られているかのごとく熱を感じる。
『なん…だ!?』
 熱い……燃える……
 苦しい……
 福田は水を飲もうと立ち上がりかけるが、身体が思うように動かず、畳の上に横向けに倒れてしまう。その時初めて手足がしびれていると気付く。
「……効いたか……」
 聖行の声が聞こえ、福田は首をめぐらせて彼を見た。
 彼は冷徹な目で福田を見下ろしている。目の前で、一人の人間が苦しんでいるのに、うすら笑いを浮かべていた。先程までとは打って変わった表情で、とても僧とは思えぬ顔であった。
『ま、さか……』
 福田の内部からの熱はますます強くなるばかりで、呼吸も苦しくなってきていた。身体の痺れは全身に広がり、針で体中を刺されているな痛みが生じてくる。
「…聖行…殿…ま…さか……」
 苦しい息の元、やっと声をしぼりだす。
「そうよ、さっき貴様が飲んだ茶に毒をいれさせてもらった」
「な!」
 福田は驚愕の瞳を聖行にむけた。
「…な…ぜ……」
「貴様を殺して欲しいと頼まれたのさ。俺達はそれを生業とする者でな。金さえもらえば誰でも殺す」
「!」
 自分を殺したいと思う人物がいる?!
 福田の頭はガンガンと早鐘が鳴るような頭痛に襲われ、意識が次第に朦朧となりだしていた。
「…だ…れ……」
 一瞬、刈谷新左ェ門の姿が脳裏を横切る。
「依頼人の名前は知らんが、右手のない男だった。子供みたいな身体つきの奴だ」
 平川彦蔵か!?
 あの男が自分を殺してくれと依頼してきたというのか!?
「貴様が腕を切ったのではないようだな。だが、その男はお前を殺す方が腕を切った奴に効果があると言ったのさ」
 聖行は足をくずし、座布団の上にあぐらをかいた。
「苦しいか?だろうな。この毒薬は薬草と蛇の毒を使った特別なものだ。解毒薬を飲まなければ夜明けまで苦しんで死ぬ。苦しませて殺してくれという依頼なのでな」
 福田の意識は次第に薄くなり、視界もぼやけてきていた。聖行の言葉が木霊しているように聞こえ、身体はもう思うように動かない。
「いつも依頼を受けると坊主になりすまして、その場所の寺に入り込むのさ。寺はいろいろと情報が得られるのだ。それにしても、貴様がやってきた時は驚いた。獲物が自分から網にかかりにやってくるんだからな。笑いを堪えるのに必死だったぜ!」
 聖行は歪んだ顔で豪快に笑った。
 福田は不快なその笑い声を聞きながら、必死に残る気力をふるい起こした。
『本当に自分はここで死ぬのか?誰にも何も言えないまま……』
 いやだ……!
 相葉の顔が心に浮かぶ。
 彼に伝えたい事がある……言わなければならない事が……
 福田は手をのばし、畳の上をゆっくりと這いだした。ぐるぐると回る視界の中で、福田はなんとか光の差す方向に向かい、外に出ようとしたのである。
「ほう、どこに行く気だ?」
 聖行がおもしろそうに声をかける。
「…………」
「やれやれ、往生際に悪い奴だ」
 よっこらしょ、と聖行は立ち上がり、這う福田の腹を蹴り上げた。部屋の隅に飛ばされた福田は、背中を柱にぶつける。只でさえ弱っていた身体だったので、簡単に気を失ってしまう。
「そうだな、俺も夜明けまで貴様なんぞに付き合ってる暇はないわい。さっさと、とどめをさすか」
 頭をポリポリと掻いて、聖行は懐から短刀を取り出した。
「では、おさらばだ」
 倒れる福田の前に屈んだ時、聖行の背後に天井から何かが落ちて来た。
「何!?」
 聖行が振り返ったと同時に、その落ちて来たものは持っていた短刀で聖行の首を掻き切った。
「!お、お前…十郎……!」
 十郎と呼ばれた幸太は、すばやく聖行の心臓を突き刺した。
「十郎…き…さま……」
「…………」
 幸太の肩を掴み、聖行は恐ろしい形相で睨みつけるが、幸太は何の感情も抱いていない目でそれを見かえした。やがて、力つきた聖行の身体が畳の上に倒れる。
「福田さん!」
 幸太は倒れている福田の身を抱き起こした。
 福田の意識はすでになく、呼吸が不規則で苦しそうだった。顔色が白くてまるで生気がない。
「福田さん!ごめんよ!俺……」
 実は幸太は福田が帰る前から、家の近くの木に登っていろいろと考え事をしていたのである。そこに僧姿の六郎が現れたので驚いた。
 自分の居所がばれて、殺しに来たのだと思ったが、福田が木戸の前で彼と話し始めたではないか。
 もしや、福田は仲間だったのか!?
 と、幸太は疑ってしまったのである。
 そこで、真相を確かめるべく、こっそり屋根裏部屋に入り、天井裏から様子を伺っていたのだった。
『どうして疑ったりなんかしたんだろう?すぐに駆け付けて六郎を切ればよかったのだ!なんてばかな事を!』
 六郎が毒を使うというのも誤算だった。毒は四郎の管轄で、六郎はもっぱら剣術を得意とする刺客であったからだ。
『この薬には解毒薬があった筈だ!それを飲ませればきっと助かる!』
 幸太は聖行と名乗っていた六郎の遺体の懐を探り出した。
「…くそ……」
 いくら探しても、解毒薬はなかった。代わりに一枚の木の板が出て来る。それには仲間だけが分かる暗号が刻まれていた。
『村はずれ 三本松で 亥の刻(11時)』
 村はずれにある三本松の場所で他の仲間と合流するという意味である。その中に四郎がいれば、きっと解毒薬を持っているに違い無い!
「福田さん!」
 幸太は福田を肩に担いで、立ち上がった。
『とにかく医者にみせなければ!』
 小柄な身体に福田を担ぎ、幸太はよろめきつつも外に飛び出し、歩き出した。
「どうしたんだ!」
 声とともに相葉が二人の元に駆け寄ってくる。
 今朝の出来事が心に引っ掛かり、相葉は福田に会いに来たのだった。だが、なかなか足が前に進まず、こんな時間になってしまったのである。
 福田の様子を見て相葉は息を飲んだ。幸太から福田を引きずり下ろし、意識のない顔を覗き込む。
「福田さんは一体どうしたんだ?!何があったんだ!?お前何かしたのか?!」
 混乱した相葉は幸太の襟首を掴んで詰め寄った。
「……俺の昔の仲間が、福田さんに毒を盛ったんだ……」
「!……なんだと……」
「福田さんを頼む!医者に連れて行ってくれ!俺は解毒薬を取ってくる!」
「解毒薬だと…お前が……?信じられると思っているのか……!」
 相葉は怒りを押さえた口調で言い放った。
「俺も仲間から命を狙われる身だ。必ず薬を奪ってくる!信じてくれ!福田さんを死なせたりしない!絶対に!」
「……………」
「俺にとってもこの人は大事な人なんだ!」
 お前と同じように……!
 と、相葉は幸太の声にならない言葉が聞こえる。
 幸太は真剣な熱い瞳を相葉に向けた。相葉はその瞳をしばらく見つめ、決意した。
「……分かった…お前を信じてやる……福田さんは小石川療養所に運ぶから薬を手に入れたらすぐに来い!」
「分かった…村はずれの三本松っていうのはどこにある?」
「そこの道を真直ぐに行って分かれ道で右に行ったところだ……必ず持って来いよ」
「ああ……」
「福田さんに何かあってみろ…お前を殺す……」
「……死なせない…絶対に……」
「…………」
「俺が必ず助けてみせる!」
 幸太は一目散に走りだし、すぐに見えなくなった。相葉は福田を背負い、急いで歩きだした。
 幸太を完全に信じている訳ではないが、今はそれしか縋るものがないと判断したのだ。
 それにあの幸太の目は、昔の自分と同じだった。純粋に福田が好きだった頃の……尊敬し、憧れていただけの時の……
 耳もとに福田の小さな、苦しそうな息使いが聞こえる。先程見た福田は唇まで白くて、一瞬死んでいるのかと思い、心臓が止まった気がした。その唇には今日、自分がつけた傷があった。
 こんな福田の姿は初めて見る。
 子供の頃、熱をだしたり怪我をした自分を福田が介抱してくれた事はあったが、逆はなかったのだ。
『そうだ、俺はあなたに何もしていない』
 相葉は歩きながら、ふと思った。
 俺は今まであなたの為に何かした事があっただろうか?いつも、いつも自分を押し付けるばかりで……もらうばかりで、あなたに何もしていない……!
『福田さん、死なないでくれ!絶対に!俺は、あなたにまだ、何もしていないんだ!』

      *

「四郎か……?」
「ああ、遅くなってすまねえ兄者。俺が最後か?」
 背の小さなせむし男が暗闇の中で声をかける。
 亥の刻、村はずれにある、三本の立派な松の木が並び立っている場所で、刺客達は集まっていた。幸太の昔の仲間である。今、合流した四郎を含め、五人揃っていた。
 一番立派な体格を持ち、座ったまま動かない男が太郎。この一団の長である。
「いや、六郎がまだだ、あの野郎何してやがるんだ」
 背ばかり高いひょろっとした色白の次郎が返事をした。
「仕事に手こずってやがるのか?」
「今回は簡単な仕事の筈だぜ」
 何ひとつ明かりのない中で彼等ははっきりとお互いの位置を把握していた。今夜は三日月だが、厚い雲に覆われ、ほとんど月光は差さなかった。
「そういや、この村に来る途中十郎に会ったと聞いたが本当か?」
「らしいぞ。すごい偶然だな」
「仕留めたのか?」
「いや、見届けてはいないらしい」
「いい加減出て来たらどうだ、十郎」
 黙っていた太郎がいきなり口を開いたので、他の皆は一瞬騒然となる。
「兄者?十郎が?」
「ああ、森の中からこちらを伺っている輩がいる。十郎なんだろう」
 皆は一斉に短刀を抜き、身構えた。
「貴様からやって来るとはどういう了見だ?俺達の前に現われれば命がないと分っているだろうに、命乞いにきたのか?」
 辺りの木々が風に吹かれ、葉々がこすれて音をたてる。
『薬だ……』
 幸太の声が辺りに響く。居場所が分からないように、わざと響かせているのだ。
『解毒薬をもらいたい……』
「ほほう……六郎に毒にやられたのか?違うな。お前が六郎と勝負をしたのはかなり前だ。その時毒にやられていれば、今お前は生きていない筈……」
『……………』
「という事は、誰か毒にやられた奴を助ける為……四郎、お前、今回の六郎の仕事に毒を渡したそうだな」
「……へい……」
「十郎…貴様……六郎を殺したな……」
 太郎の言葉に他の皆の目に殺気が宿る。
「三郎、七郎、裏切り者を殺せ」
「は!」
 三郎と七郎は森の中に飛び込んでいった。木々の間から、刃のせめぎ合う音、枝の折れる音などが聞こえ始める。そして、誰かのギャッという叫びが小さく響いた。
「ばかな奴だ……」
 太郎がそう呟いた刹那、四郎の背後に気配を感じる。
「四郎!離れろ」
「へ?」
 その時、四郎の足元に光が走り、彼の足首の後ろが切り裂かれた。
「ぎゃあ!」
 腱を切られた四郎は地面に転がる。
「薬をよこせ!」
 血まみれになった幸太が四郎の首に短刀を突き付けた。
「貴様!」
 飛びかかりそうな次郎を牽制する為、四郎を立たせ、彼の身体を盾にして幸太は身を隠した。
「十郎…てめ…三郎と七郎までも……」
 次郎が歯ぎしりをしながら、幸太を睨みつける。
「……薬をよこせ…四郎……」
 幸太は遠ざかりそうになる意識を必死の思いでつなぎとめていた。三郎と七郎によって全身に傷を負い、どくどくと大量の血が流れだしている。立っているのが自分でも不思議だった。
 だが、幸太は痛みさえも忘れてしまうくらい、一つの思いに心を奪われていた。
 福田を助ける事である。
 こんなに強い思いを抱いた事など今までになかった。あの人を救う為に、今、自分は命をかけている。自分の意志で……
 なんて充実しているのだろう。
 この全身の堪え難い痛みでさえ、その一部のようだ。
 あの、空虚な心で人を殺し続けた日々とは問題にならないくらい、自分は満たされている、と幸太は感じていた。
「…四郎…渡してやれ……」
 太郎の言葉に、四郎はゆっくりと懐に手を入れ、薬袋を取りだした。幸太の目がそれに釘付けになる。
 と、四郎はそれをぽん、と空に高く投げた。
「あ?!」
 一瞬、幸太の気がそれる。その隙を逃がさず、四郎は前に屈み、太郎の投げた短刀が幸太の胸に吸い込まれていった。
「……あ……」
 幸太は自分の胸に深々と刺さった短刀を、信じられない思いで見つめた。ゆっくり膝が落ち、横に倒れる。
「死にましたか……?」
 四郎がぼそりと呟き。次郎が駆け寄って、足で幸太の身体を仰向きにする。
「まだ息がある…しぶとい奴だ……」
 次郎は幸太に唾棄すると、横腹を蹴った。
「この裏切り者の脱走者が!腹かっさばいて、臓腑をかきだしてやる!」
「そこに木に吊るし上げてやりましょう!俺の足の筋切りやがって!」
「誰だ!」
 太郎が立ち上がり、こちらに向って走ってくる人影に大声をあげる。
「幸太……!」
 走ってきた相葉は暗闇の中、慣れてきた目でなんとか人物を見分け、倒れ伏す幸太の姿を見つけた。
 診療所に福田を運んだ後、すぐに幸太の言っていたこの場所に駆け付けたのである。一瞬にして状況を把握する。
「貴様十郎の仲間か?」
 次郎が長太刀を抜く。
「……薬はどこだ?」
「やはり仲間か!殺してやる!」
「薬をよこせ!」
 切り掛かってくる次郎の剣を相葉も抜刀して受け止める。
 すさまじい剣の鍔ぜり合いが続くが、相葉の剣が次郎の身体を袈裟がけに切り捨てた。
「……兄…者……」
 絶命して倒れる次郎を太郎は冷徹な目で見つめていた。
 太郎は剣を抜き、相葉にかかっていった。
 太郎はかなりの腕前だった。相葉は彼の剣をかわしつつ、隙を伺ったが、まるでない。剣に人の生き血を吸わせる事を喜びとするような、そんな殺人剣である。何人殺してきたのだろう……
 場数が違う……
『だが、俺は負ける訳にはいかない……!』
 ここで自分が負ける事は、福田の死を意味するからだ。
『俺は負けない!絶対に!そう絶対にだ!』
 誰を犠牲にしようとも、どんな事をしようとも勝ってみせる!勝って、あの人を救うのだ!
 相葉はあの時の、牧村を討った時以上に自分の気が研ぎすまされていくのが分った。あの時とはまるで違う凶暴な感覚である。雑念もまわりのどんな音も聞こえない。只、目の前の男を殺す。それだけだった。
 相葉は殺気に支配されていた。迷いもなく、殺したいという純粋な殺気である。
 二人は間合いをあけ、しばし、向い合っていた。
 お互いの間に『死』という気が満ちてくる。
「はっ!」
「ふん!」
 相葉と太郎は走り込んで、お互いに渾身の一刀を相手に浴びせた。
 すれ違った後、太郎の頸動脈から血飛沫があがり、体がぐらつく。
「……ばか…な……」
 太郎は次郎と同じように絶命して倒れた。相葉は息つぐ暇もなく、腰をぬかしている四郎に向った。
「薬をよこせ!」
「ひ……!」
 四郎は恐怖の為縮み上がっていた。
『あの次郎兄者と太郎兄者がやられるなんて信じられない!、こいつ人ではないのか!?そうだ、人の筈がない!人に兄者達が殺せる訳がない!鬼だ!目の前にいるのは人の面をした鬼だ!』
「そ、そこにある薬袋だ……!」
 相葉は目をめぐらせ、落ちている薬袋を認めた。
「…本物だろうな……」
 相葉が般若のような恐ろしい瞳で四郎を睨む。
「…う、嘘じゃねえ…本物だ……!」
「……みせてくれ……」
「幸太……!」
 苦しそうにうめく幸太の側に相葉は急いで駆け寄った。
「大丈夫か!幸太!」
 幸太の身体は血まみれで、その顔には死相が浮かび、息も絶え絶えである。
「……薬を……みせてくれ……」
 相葉は薬袋を取ると、幸太に渡した。幸太は薬の匂いを嗅ぐと
「…本物だ……」
 四郎はその時、奇声を発し、びっこを引きつつ森の中に逃げて行った。相葉はもうどうでもよかったので、後を追わなかった。
「しっかりしろ、すぐ療養所に連れて行く」
「……もう駄目だ……」
「諦めるな、掴まれ」
 相葉は幸太を肩に背負おうとしたが、幸太は手をつっぱねて拒絶した。
「…俺をおぶれば、遅くなる……はやく…薬を福田さんに……」
「何言ってる、福田さんの為にも頑張れ」
「…これで…福田さん……助かる…よな……」
「ああ、お前のおかげだ……」
「……なあ……俺……笑ってるか……?」
「え……?」
「…俺…今…すげー幸せだ……」
「幸太……?」
「俺みたいな…くずでも……あの人の為……なったんだよな……」
 あの優しい人を救う事が出来た。あの優しい手をもった彼の命を……
 こんなに心が満たされるなんて……
 虫けら同然だった自分が、今、とても誇らしい。
「……お前はくずなんかじゃない……立派な男だ……」
 そうだ、俺なんかより、ずっと立派な男だ!
 と、相葉は強く思う。
「…もっと……話…したかった……」
「大丈夫だ、これからいくらでも話せる、だから……」
 頑張れ、と相葉は言いたかったが、もう助からないのは分っていたので、思わず言葉を飲み込んでしまう。
「……あの人…俺の事…知っても……大丈夫……だったのに……」
 自分が刺客だと言っていても、きっと福田は態度を変えなかっただろう。優しく包み込んでくれただろう。
 正直に、話せばよかった……もっと、もっとたくさん話したかった……
 でも……
 言葉なんて必要なかったな……
 幸太は福田と過ごした短い時間を思い出す。あの優しい瞳を知ってからの時間を……
 あんなに幸福な、温かい時間はかつてなかった……
「……福田…さ……大好…き……」
 幸太の頭ががくりと垂れる。
 月光が差し込み、幸太の死に顔を照らしだす。
 微笑みをうかべた、幸せそうな顔だった。
 相葉は震える手で幸太の身体を横たえると、意を決して走りだした。
 胸が張り裂けそうだった。
 自分と同じ想いを福田に抱いていた幸太。福田の命を救う為、命を賭けた幸太。それに引き換え自分はどうだ?
 福田の為に自分は何をしたのだろう?
『恥ずかしくはないのか?!』
 今まで自分のしてきた事は、すべて自分の為なのだ。福田の為ではない。
『俺は何が出来るだろう?』
 愛する人の為に自分は何が出来るだろう?福田が幸せな事とはなんだ?自分が一番望む事とは?
 自分が一番望む事……
 福田が幸せでいてくれる事だ……
 彼が生きて笑っていてくれる事……
 他には何も望まない……
 そう、願いは一つ、叶えばいい……
 相葉は暗闇の中、一心に祈りながら診療所に向って走り続けた。

       *

 診療所の医師に薬を渡し、福田に投薬してもらう。
 しばらくして、医師が症状が少し落ち着いてきたから、今夜が峠になるだろうと言ってきた。
 その夜、相葉は診療所の隅に座りながら、半分死んだも同然な気持ちでいた。
 事実、相葉の心は死んでいた。
 何も感じず、何も聞こえず、何も考えず、自分の体温すら感じず、すべてを拒絶していた。
 そうしなければ、心がもたなかったのである。
 夜が明けた頃、医師が相葉の元にやってきた。
「峠は超えたよ……もう大丈夫だ……」
 この一言で、やっと相葉の心は生き返った。大きく息を吐き、涙がこぼれる。
「……ありがとうございます……」
「いや、君の持ってきてくれた薬のおかげだよ。あれがなければ助からなかった」
「……俺じゃありません……」
 幸太……お前が助けてくれたんだな、福田さんを……ありがとう……
 相葉は心の中で彼に礼を言った。
「……会ってもいいですか……」
「ああ、どうぞ……但し、起こさないでくれよ」
「はい……」
 診療室の一室で福田は眠っていた。
 顔色は悪かったが、呼吸は落ち着いている。
 その姿を見た相葉はやっとほっとした。体温が戻ってくるのを感じる。
 髪に、頬に、唇に触れ、彼が生きている事を実感した。
「…福田さん…ありがとう……」
 生きてくれて…ありがとう……
 相葉は幸せな気持ちで彼の寝顔を見つめた。そして、何だろう、自分の内で何かが変わったのが分った。
 見えていなかった何かが、朧げに見えてきた気がする。
『何だろう…この気持ちは……』
 不思議な感覚で福田を見ていると、看護人の女性が小さな声で相葉を呼んだ。
「相葉さん…ですか……?」
「はい……?」
「表で榊とおっしゃる人が待っております」
「榊が……?」
 よく、ここが分ったな、と、少々うっとおしく思いつつ、相葉は表に行った。
「なんだ、榊?よくここが分ったな」
「探し回りましたよ……影嗣様、すぐ屋敷にお戻り下さい」
「……後で帰る……」
 福田の意識が戻るまで側にいたかった。それに、幸太が死んだ事は隠しておきたいので、後で幸太の遺体をこっそり弔うつもりなのだ。
「今すぐ、お願いいたします!」
 榊の強い口調に、相葉は眉をしかめる。
「…兄の…宣高殿が…お亡くなりになりました……」
「……なん……だと……?」
 相葉はあまりの事に、すぐに榊の言葉が理解出来なかった。
 ただ、いつかの闇が再び背後に迫ってきているのは、はっきりと感じていた。
 あの、暗く冷たい、人の意志を持った闇である。
 逃げる術のない……

 その頃、刈谷道場に一人の男が訪れていた。
「久しぶりだな、伊井……」
「…お前は……」
 稽古場にいた伊井はその男の姿を信じられない気持ちで見つめた。
 髭だらけの顔にぼさぼさの頭。雑巾のような着物を身につけていたが、その男の瞳は爛々と燃えている。
「…新左ェ門…お前…よく無事で……」
「…………」
 刈谷新左ェ門が八年ぶりの帰省を果たしたのであった。 

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