本編の主な登場人物(本編での年齢です)
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十六歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …三十三歳、刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …三十四歳刈谷道場の本来の持ち主
相葉宣高(あいば のぶたか)…二十九歳、相葉影嗣の兄で相葉家の跡取り
静 …相葉宣高の妻

この章の主な登場人物
相葉影嗣(あいば かげつぐ) …三十六歳、八千矛(やちほこ)神社の居候
小太郎(こたろう)…十五歳、茶屋で働く少年。相葉を慕っている
蒼岩(そうがん) …六十五歳、八千矛(やちほこ)神社の神主 
相葉亨之丞(あいば ゆきのじょう) …十四歳、宣高と静の息子。相葉影嗣の甥
榊甚六(さかき じんろく) …六十二歳、亨之丞の世話役

虎落笛(もがりぶえ)名残雪の章 1

「お初にお目にかかります。叔父上……」
 十五、六の少年は、澄んだ瞳を真直ぐに相葉に向けてこう言った。
 神社の境内で帚をはいていた相葉は驚愕の思いで少年を見つめかえす。
 彼の傍らには昔、自分に仕えていた榊がいる。
 年をとり、すっかり白髪頭となっていたが、間違いなく彼だった。
 心の淵に沈んでいた故郷の記憶が蘇る。
 それは冬も終わろうとする如月の下旬の頃だった………

       *

 「おはよう、相葉さん」
 朝の光とともに、小太郎が土間へ飛び込んでくる。いつものように籠いっぱい
の野菜を降ろすと、釜の横で大根の葉を刻んでいる相葉に近付いた。
 相葉は襷がけをして朝餉の支度をしている最中であった。
 飯の炊けるいい匂いと、鍋からでた湯気が明るさの中にたちこめている。
 このおかげで寒さの堪える早朝でも、土間はかすかに暖かい。
 刻んだ葉を煮えたぎった釜に放りこみ、蓋をした。手慣れた仕草で菜物を皿に
盛る。
 ここで炊事をやるようになってから、十五年。相葉の料理の腕は、二十歳過ぎ
まで厨房に近付いた事のない者とは思えなかった。
「今日は葉の味噌汁?」
「ああ……蒼岩(そうがん)殿が夕餉に大根を召し上がりたいといったので、葉
が残ったんだ」
「大根〜あまり精がつくとは思えないけど…具合はどんな風?」
「変わりない。悪化していないが、良くもなっていない」
「そっか……」
 蒼岩とはこの八千矛(やちほこ)神社の神主である。この小さな寂れた神社を
たったひとりできりもりしていたが、数年程前から病がちになり臥せっているの
だ。
 小太郎は恩人である蒼岩の身を心から心配している様子で、表情を曇らせた。
「あれ、椀が多いけどお客さま?」
 盆に用意された椀の数に気付いたらしい。
「……ああ………」
「旅の人?」
「……いや……俺の甥と共の者だ………」
「え!」
 小太郎は目を丸くして相葉を見つめた。
「甥って…相葉さんの家の人って事?」
「そうだ……」
「……な、なんでここに……」
「………………」
 相葉を出奔してきた身と知っている小太郎は、衝撃を受けた。
 彼は十五年前にこの神社を訪れ、神剣『雪華の剣』を奉納したまま強引に居座り
続けているのである。
 もっとも、小太郎も帰る所も、待つ人もいない孤独な身の上というところは同じ
だ。
 小太郎は五年程前、この八千矛神社の門前で母親と行き倒れになっているのを相
葉と蒼岩が見つけたのである。
 蒼岩と相葉は二人を懸命に看病したが、母親は亡くなってしまった。行く宛のな
かった小太郎はしばらくの間、ここで暮らしていた。
 同じ境遇の者という安心感からか、小太郎は相葉にとても懐いた。父親を知らな
い、という事も関係しているのだろう、相葉の後を小さな足で付いて回り、彼の真
似をなんでもした。その思いは今も変わらず、小太郎の相葉を見る瞳には敬慕の色
が浮かんでいる。相葉もそんな小太郎を可愛く思った。
 生活は苦しかったが三人は楽しく暮していた。しかし、齢六十を越えた蒼岩はそ
の頃から病がちになり、世話や神社の仕事は相葉が一手に引き受ける事になった。
忙しくなった相葉はなかなか小太郎の面倒をみてやれず、蒼岩は小太郎の身を心配
した。
 『ここは町からかなり離れた場所に建てられているし、人通りも少ない。こんな
所にいて自分のような隠居生活をしていては友達もできないのではないか』
 子供は人々の喧噪の中で生活した方がいい。友達を作り、世間を見聞きし、人と
暮らせるようにならなければ、この先の人生は孤独なものとなるだろう。
 と考えた蒼岩は、町中で小太郎を引き取ってくれるところを探し回った。相葉も
その方が小太郎の為だと考えていた。
 そして一件の茶屋が、下働きとして引き取ると言ってくれたのである。
 夜は色を商売にしている茶屋だが、小太郎は店に出さないと約束してくれた。もっ
ぱら小太郎の仕事は陰間や遊女の世話である。他に蒼岩はがここに決めた理由は、
陰間と共に小太郎も勉学をさせてくれるというところだった。
 彼等は容貌や外見を整える訓練の他、舞、歌などを詠む稽古をさせられるのである。
小太郎もその勉学だけだが、許されたのだ。これは稀にみる好待遇だった。
 蒼岩に言われた時、小太郎は八千矛神社を出るの嫌がった。しかし、ここにいては
蒼岩や相葉に迷惑をかけるのは分っていた。自分は子供で何もできないのだから。
 もちろん、町中での生活というものへの憧れはあった。友達ができるかも、という
期待もあるが、その分不安も大きかったのである。
 だが、その茶屋には三日に一度は相葉が文字を教えにくると知って不安が薄らいだ。
「嫌ならいつでも帰ってくればいい」
 という相葉の言葉に、小太郎は茶屋で働く決心をしたのである。小太郎が十歳の時
だった。
 いっしょに暮せなくなったが、相葉と小太郎の間に生じた情は消えなかった。
 暇をみつけては相葉は小太郎の様子を見に行き、話をした。小太郎はそれが嬉しく
てならなかった。
 茶屋の方も気を使ってくれているようで、文字を教える代金としての野菜の届けを
小太郎にさせている。
 相葉と小太郎は、会う時間は短くとも、いっしょにいるだけで、お互い心に暖かい
ものを感じる間柄になっていた。信頼しあっている。
 だが、今の小太郎の相葉を見る瞳には、不安が宿っていた。
「なぜ、相葉さんの家の人がここに……?」
「小太郎がここにくる七、八年程前、行き倒れの男を助けたんだが……」
 相葉の言葉に小太郎はちょっと首をかしげた。
「その男は刀鍛冶の見習いだと言った。回復した時、助けてもらった礼に奥殿に祭ら
れている神剣を磨きたい、と言いだしたんだ」 
 奥殿に祭られている神剣とは、相葉が奉納した『雪華の剣』の事である。
 相葉は当然断ったが、男は頑固で一向に引かなかった。
 仕方なく、相葉は奥殿に男を連れていき、殿内の神棚に祭られている『雪華の剣』
を拝観させた。
 男は剣を見るとそのまましゃがみ込み、しばらく動かなかった。
 手に取るどころか近寄る事もせず、長い間座視した後、相葉に頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした……この剣は私ごときが手にできるものではありませ
んでした……今まで多くの剣を見てきましたが、これ程の透き通った気は初めてです。
とても私の手では……」
 相葉は微かに頷いた。
「しかし、この先私がもっと修行を重ね、この剣に触れられるだけの技倆が備わった
ら、その時はまかせて下さい」
 相葉はいいだろうと約束し、男は去っていった。
「それが何か?」
 今の話が何か関係あるのだろうか、と小太郎は不思議だった。
「男は言葉通り修行を重ね、名のある刀匠になったらしい。その彼が俺の家の宝刀を
修繕したんだが、その時俺の話をしたそうだ」
「え!それは偶然ですか?」
「ああ………」
「そんな事があるんですか……」
「……あったみたいだな……」
 小太郎はあまりの偶然に驚いた。実を言えば相葉自身も信じられぬ思いであった。
 修繕の間、その刀匠の身柄を預かったのが榊で、別れの夜、二人で酒盛りをしたそ
うである。
 酔漢した彼は自分の憧れている剣の存在を話し、約束した男の名前、つまり相葉の
名前を口にしたのであった。
 聞いた榊はまさか、と思ったという。
 只の同名ではないだろうか、とも思ったと。
 しかし、確かめずにはおれなくなり、こうして訪ねてきたのである。
 なぜか兄、宣高と静の息子である亨之丞(ゆきのじょう)を連れて……
 なんという運命の悪戯だろう。こんな事で自分の消息が分ってしまうとは……
 相葉は心中でため息をついた。
 榊は自分を国に連れて帰りたいらしいが、相葉にその意志はまったくなかった。
『さて、どうやってあきらめてもらおうか……』
 面倒な事になったな、と思うが、懐かしい顔に再会した喜びはある。なにより初め
て甥の顔を見れた事は素直に嬉しい。静に似て、可愛らしい顔をした少年だった。
 しかし、何故彼はいっしょに来たのだろう?
 榊の話では相葉の両親にも、他の誰にも、話していないと言っていたのに……
「小太郎も食べるだろ。彼等もいっしょでもいいか?」
「え……う、うん……」
 小太郎が野菜を届けてくれた時はいっしょに朝餉を食べるのだが、はっきりしない
態度だった。
「嫌なら蒼岩殿と食べるか?」
 蒼岩は自室で寝たきりなので、そこで食べている。
「ううん…相葉さんといっしょに食べる……あの…さ……相葉さん……」
「なんだ?」
「……帰るの……?」
 小太郎が伏し目がちに聞いてくる。彼にとってはそれが一番不安だった。相葉がい
なくなる事が……
「帰らない」
 相葉の言葉に小太郎は顔を上げて彼を見た。
「俺は国を出奔してきた身だ。今さら帰れる筈ないだろう」
「でも…迎えに来たんじゃないの……?」
「そうだったとしても、俺は帰るつもりはない……」
 もう二度と雪華の剣の、福田の側を離れるものか。
「そっか…よかった……」
 途端に小太郎は笑顔になった。
「あ、これ居間に持っていくんでしょ。俺が持っていく」
 盆に盛られた膳を持って、小太郎は家の中に入っていった。そんな彼の様子に相葉
は笑みをもらした。

 居間に入ると、自分と同じ年頃の少年と、白髪の老人が囲炉裏の前に座っていた。
 囲炉裏には火が入っていて、部屋は微かに暖かい。
「…おはようございます……」
 小太郎の挨拶に老人は軽く頭を下げたが、少年は一瞥しただけで何の反応も返さな
かった。
『この子が相葉さんの甥か……』
 いい身なりをしており、大身旗本の倅か御家人の跡継ぎといった雰囲気である。色
が白く、髷もきちんと結い上げている。手を見ると水仕事、力仕事などした事のない
綺麗な手だった。
 ささくれだった自分の手とは随分な違いである。
 小太郎は茶屋にいる綺麗な陰間とその姿を重ねるが、目の前にいる少年は自由な気
配がある。飛ぼうとする心を何かの型に無理矢理はめなければならない陰間達とは大
きく違っていた。
 老人は朴訥な顔だちでお人好しそうである。質素で清潔な身なりをしており、小柄
だが武士らしいがっしりとした体格だ。
「失礼します……」
 小太郎が二人の前に置かれた膳に椀をのせると、老人は
「かたじけない」
 と、礼をしたが、少年は今度は目もくれなかった。小太郎は老人の方に好感を持っ
た。
 相葉が入ってくると、少年ははっと顔を上げ、彼をじっと見つめる。その瞳に自
分と同じ色が宿っているのを小太郎は見た。
 相葉と小太郎は囲炉裏を挟んで、向いに腰を降ろす。
「小太郎、こちらが俺の甥の相葉亨之丞殿と、榊甚六殿。こちらは私の友人の小太郎
だ。同席をさせてもらいたい」
 榊は頭を下げ、今度は亨之丞も下げた。
「このようなものしか用意できなくてすまない。どうぞ召し上がってくれ」
「ありがたく頂戴いたします」
 四人は朝餉を食べ始めたが、始終無言だった。いつもなら小太郎はここぞとばかり
に相葉に話し掛け、相葉も相槌をうちながら聞いてくれるのだが、今日はとても気楽
に話せそうもない。
 小太郎は亨之丞の様子を見ていた。
 彼は食事中、ちらちらと相葉を盗み見ている。それなのに相葉が顔を上げて、目が
合いそうになると慌てて逸らすのである。
 恋心を抱いている娘と同じような仕草だった。
 食事の後片付けが済むと、相葉は小太郎といっしょに町へ向った。数年前から、蒼
岩の薬代を稼ぐ為、町道場で剣を教えているのである。
 相葉と歩きながら小太郎は先程の亨之丞の様子を思い出す。
 彼は自分と同じく、相葉を敬愛しているらしい。初めて会った叔父にそんな感情を
抱けるものだろうか……
 確かに相葉の容姿は端麗だし、立ち居振る舞いも凛としていて品がある。
 背も高く、細身なのに貧弱な印象はない。髪も総髪だが短くていつも清潔にしている
ので小汚い印象もない。
 剣の腕も相当あるのにそれをひけらかさず、奢ったりしない相葉は皆に尊敬される
存在だった。
 鷹みたいだな
 と、いつも小太郎は思った。
 その翼を広げなくても、威嚇しなくても、樹にとまっているだけで内に秘めた大き
な力が分る。
 違うところは鷹は鋭い眼光を放っているのに、相葉の瞳はいつも淋し気というとこ
ろである。冷めている、とも言える瞳なのだ。
「あの亨之丞って子、いくつ?」
「十四だ」
「一つ下か〜相葉さんのお兄さんかお姉さんの子?」
「兄の子だ」
「ふ〜ん…そのお兄さん自分の代わりにあの子をよこしたの?」
「いや……兄は亨之丞がお腹にいる時亡くなったんだ」
「え、じゃあお母さんだけなの?」
「ああ……」
 小太郎は言葉を飲んだ。
「そっか……とーさんいないのか……」
『顔も知らないんだろうな……俺と同じだ……』
 小太郎の胸がちくりと痛む。印象の悪かった亨之丞だが、そんな話を聞くと不憫な
奴だと思った。
「……あのさ〜相葉さん、聞いてもいい?」
「なんだ?」
「…どうして……出奔したの……?」
「……………」
 小太郎は今まで聞きたくても聞けなかった言葉を口にした。
 怒られるかな……
 と、内心びくつく。
「……私が…惰弱だったからだ………」
「へ?」
 相葉の答が意外すぎて、小太郎は拍子抜けしてしまった。見上げて相葉の顔を見るが、
いつもと同じ変わらぬ表情を浮かべていた。
 彼が惰弱なわけがない。
 道場破りに来た浪人を打負かした事もあるし、つい先日は町中で暴れていた輩共を
追い払ったばかりである。特に道場破りの浪人は、道場の高弟達を全員平伏させる程
強かったと聞いている。
 そんな訳ないよ、と思ったが口にだすのはやめた。
 固く閉ざされた彼の唇を見て、これ以上話したくないのだと、悟ったからである。
 しばらく無言のまま二人は歩く。
「…もうすぐ……梅の季節だな……」
 相葉は道脇に立っている梅の樹を見つめて呟いた。
 まだ、一葉もつけていない、枯れ枝ばかりの樹である。
 日中は少し暖かいが、まだ朝夜は冷えるので春の訪れは実感できなかった。
 しかし、道に広がる霜の白さは確実に薄くなってきている。
 梅は春の到来を一番に感じさせてくれる樹だった。
 樹を見つめる彼の瞳の奥に炎が宿る。
 冷た気な彼の瞳に時折炎が宿るのを小太郎は知っていた。
 相葉は町人も武士も誰であろうと同じ態度で接するが、誰にも心を開かなかった。
 懇意にしているように見えても、相葉は人と自分との間に常に一線を引いている。
 それは蔑みからくるものではなく、彼の無意識からくる防御ではないかと思う。
 相葉の心には深淵がある。
 小太郎にそれが分ったのは最近の事である。
 茶屋で働くようになっていろんな人を見てきた。
 初めは聞いた、見た通りの事が本当なのだと思っていたが、人は心の真実をそう
簡単に見せないものだと分ってきた。
 遊女達は白粉の下にそれぞれの心を塗りつぶして隠し、陰間達も小さな頃から己
を殺す術を学び始める。
 誰もが心の奥に闇を抱えて生きている。空洞といってもいい。
 相葉も闇の深淵を抱え、そこに炎を押し込めているのだ。
 しかし、相葉のもつ闇は遊女や陰間達のものとは違う色があった。
 もっと深く、もっと濃い色をもった何かだ、と小太郎は感じる。
 彼はその深淵に何を秘めているのだろう?何かを押し殺して生きているのだろうか?
 いつかまた、燃え上がる時がくるのだろうか?
 小太郎は知りたかったが、聞いてはならぬ事だと本能が悟っていた。
 知った時、何かが変わるのだろうか?
 あの突然の来訪者によって何かが変わるのか?
 それとも、始まるのか……
 相葉が変貌してしまう気がして、小太郎は少し不安だった。

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