本編の主な登場人物(本編での年齢です)
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十六歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …三十三歳、刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …三十四歳刈谷道場の本来の持ち主
相葉宣高(あいば のぶたか)…二十九歳、相葉影嗣の兄で相葉家の跡取り
静 …相葉宣高の妻

この章の主な登場人物
相葉影嗣(あいば かげつぐ) …三十六歳、八千矛(やちほこ)神社の居候
小太郎(こたろう)…十五歳、茶屋で働く少年。相葉を慕っている
蒼岩(そうがん) …六十五歳、八千矛(やちほこ)神社の神主 
相葉亨之丞(あいば ゆきのじょう) …十四歳、宣高と静の息子。相葉影嗣の甥
榊甚六(さかき じんろく) …六十二歳、亨之丞の世話役

 虎落笛(もがりぶえ)名残雪の章 2

 亨之丞と榊が八千矛(やちほこ)神社に来て、すでに七日あまりが過ぎようとしていた。
 二人は一向に帰る気配がなく、小太郎は少々不安になってきた。
『まさか相葉さんが帰るというまで居座る気じゃ……』
 冗談じゃない、と小太郎は思った。
 彼等を嫌いなのではない。毎朝観察しているうちにいい人達だと分ってきた。亨之丞は内
気なだけで、悪意はない子だというのも気がついた。
 彼は時々こちらを無視するが、それは何かに気をとられている時で、無視しているつもり
はないらしい。それが分ると彼の態度も寛容にできた。
 しかし、彼等が来てから、相葉と二人きりで話せる時間は皆無になってしまった。
『いっしょに暮していた時のような気分を味わえる唯一の時だったのに……』
 一体いつ帰るか、蒼岩の部屋に見舞いに来た時、愚痴がてら彼に聞いてみた。
「さあな…まあ…気のすむまでゆっくりしていけばいいさ……」
「じいじ〜」
 小太郎は蒼岩の事をじいじと呼ぶ。布団の上に身を起した彼は、皺だらけの顔をほころば
せて、ふお、ふおっと軽く笑った。
「まあ、相葉殿も久方ぶりに郷の者に会えて嬉しいだろう。今度、いつ会えるか分らないし」
「じゃあ、相葉さんは絶対国に帰ったりしないね?」
「ああ……おそらくな……」
「おそらくって……絶対帰らしちゃ駄目だよ!」
「どうして?」
「どうしてって……じいじだって嫌だろ、相葉さんがいなくなったら……」
「淋しくなるな……」
「でしょ!大体相葉さんがいなくなったら、この神社あっという間にあばら家だよ!」
「そうさの〜」
 蒼岩はまた笑う。
「もう笑ってないで、絶対引き止めるって約束してよ!」
「だがの〜相葉殿が帰ると決意した時は誰にも止められんぞ」
「そんな〜」
「意志の堅い男だからな」
「……でも………」
 小太郎が淋しそうに俯くのを見て
「だが、きっと相葉殿は帰らないだろう……」
「じいじはそう思うの?」
「おう」
「どうして?じいじを放って行く訳ないから?」
「それもあるが……彼がここに留まる理由があるからの……」
「理由って……?」
「……ああ…彼がここに初めて来た時、神剣を奉納してくれた。そして、その護り人として
ここの留まらせてくれ、と言ったんだ」
「うん……」
「だから、その神剣がある限り相葉殿はここに留まるだろう」
「え〜その程度の理由なの〜あてにならないな〜」
「そうかの〜?」
「そうだよ〜護り人なんて誰にでもなれるじゃないか〜」
「そうかの〜?」
「はあ〜」
 もっとすごい理由を期待していた小太郎はがっくりきた。この程度では、相葉が絶対国に
帰らないという確証が得られないではないか。
「相葉殿は一度約束した事を違える人ではないぞ。そうだろ?」
「うん……」
「相葉殿は帰らない、と言ったのだろう?」
「うん……」
「だったら信じてやらねば……」
「そうだね……」
 小太郎の胸には宿っていた不安が、蒼岩と話したおかげで少し晴れた。
「じゃあ、俺、そろそろ行くよ。じいじ身体大事にしてね」
「ああ」
「もうちょっと力のつくもの食べなきゃ駄目だよ。今度卵もってきてあげるから、ちゃんと
食べてね」
「おお、ありがとう、楽しみにしているよ」
 小太郎が部屋を出ていった後、蒼岩は相葉が初めてここに来た時の事を思い返した。
 彼は白く澄んだ気をもった神剣を持っていた。
 これ程の神剣があるのかと信じられぬ思いだった。あまりの美しさに手を取る事さえ躊躇
われた。
 装飾も美しく、鍔を見ただけで銘のある者の作だと分かる。
 彼はこの神社にそれを奉納したいと言ったので、驚いた。
『これ程の神剣ならば、もっと大きな社に納めた方が良いのではないのか。どこでも受ける
筈だぞ』
『大きな社では剣を納めても、私を留めてはくれないのです』
『というと?』
『この剣を奉納する代わりに、私をこの剣の護り人としてここに一生居させて下さい』
『そなたが?しかし、こんな貧乏神社ではろくな生活はできん。悪い事は言わない、他に行
きなさい。見た所まだお若いではないか』
 若いだけでなく、彼は一目で聡明な青年なのだと分った。隠居真近な老人であればともか
く、神剣の護り人として一生送るなどもったいないと思った。
『お願いいたします』
 相葉は深々と頭を下げる。
『しかし…そなたの為になるとは思えんが……』
『お願いいたします。この剣は私の命なのです……』
 その時の相葉の気迫と真摯な瞳は、今も蒼岩の眼に焼き付いている。
 誰にも止める事のできない熱い激情が、彼の身体から滲みでていた。
 蒼岩は相葉の覚悟を悟り、ここでの生活を許したのであった。
 あの姿を見ていた蒼岩は、相葉がここを去るなど到底考えられなかった。

 薪を割っている相葉の後ろ姿を亨之丞はこっそり見ていた。
 ここ数日、彼の様子を観察しているが、あの疑問は解けなかった。
 ずっと憧れ続けてきた叔父……
 どんな人なのだろう、といつも夢みてきた。
 初めて会った時、その風貌の良さは、まさに願っていたとおりの人だったので嬉しかった。
 しかし、彼は炊事や洗濯、家の掃除、境内の庭の手入れ等を行ない、まるで使用人のよう
で幻滅した。そんなみじめな真似は止めて欲しかった。
『誰かにやってもらえばいいのに……』
 そう思った。
 亨之丞は、貧しいという言葉の意味を理解していなかったのである。
 榊に尋ね、使用人を雇う程の金子がないのだと知った。
 金子がどういうものか、どういう役割を果たしているのか、亨之丞は初めて実感した。
『若、金子は人の本質に関係ないとお話しましたね』
 榊は亨之丞の世話役であると共に、儒学の勉学を教えてくれる講師でもある。
『ああ、覚えている。大切なのは仁の心だ』
『影嗣様はそういった心がないと思いますか?』
『………………』
『見かけでは分らないところを見ようとしてみたらどうでしょう』
 榊にそう言われて相葉を見る目を少し変えてみた。
 すると、今まで分らなかった事が分ってきた。
 彼はどんな惨めな事をしようとも、品性を失なっていなかったのである。
 一つ一つの動きにまるで無駄がない。自分のするべき事を黙々とこなしていく。
 夢見ていた姿とは違ったけど、やはり亨之丞は憧れずにはおれなかった。
「おもしろいのか?」
『え?』
 相葉が振り向かずにそのままの姿勢で話しかけてくる。
「薪割りをやってみたいのか?」
 自分が見ているのに気付かれた?と亨之丞は驚いた。
 恥ずかしくなった彼は、急ぎ足でその場を離れる。
 亨之丞が去っていった気配を感じて相葉は苦笑した。
 ここに来てから榊もあの子も自分を遠くから見つめるだけで、何も言ってこないのであ
る。
 一体どういうつもりなのだろう?
 国に連れ帰るつもりならば、さっさと切り出せばいいものを。
 それとも、国に連れ帰る価値があるかどうか品定めしているのだろうか?可能性は大い
にある。ならば見切りをつけて早く帰って欲しい、と相葉は思った。
 どうあろうとも、自分の答えは決まっているのだから………
 亨之丞は寝起きをさせてもらっている客間に飛び込み、高鳴る胸を落ち着かせようとし
た。
『どうして分ったのだろう。一度もこちらを見ていないのに?』
 二人は二間(三.六メートル)以上離れていたから、音で気付いたのではない。気配を読
み取ったのだ。
『やっぱりすごい人なんだな……』
 親類縁者の人達が口々に叔父の事を誉めていたが、誇張ではなかったのだ。
『…本当に…あの人が……僕の……』
 父上なんだろうか……?
 そうだったらいいなと、亨之丞は常に思っていたが、その思いは更に強くなっていた。
 初めて噂を知った時、母の静に尋ねてみようと何度も思った。
 しかし、儚気な少女のような母の姿を見ていると、聞くのをためらってしまうのである。
 正気を失っていると言っても彼女は美しかった。
 暴れたり、変な言葉を口走るわけでもなく、ただ一日中景色を眺め、微笑んでいる。そ
んな母を亨之丞は可愛いと思っている。
 そして、ある日、母は独り言を呟いた。
『亨之丞、お前の本当の父上は影嗣殿なのですよ……』
『え………』
『あの方も私を愛してくれました……本当に素晴らしい方でした……』
 母の瞳は夢でも見ているかのようにうつろであった。
『あれは本当なんだろうか?それともただの戯れ言?』
 でも、もし自分があの人の子供だったら……
 どんなに嬉しいだろうか、と亨之丞は胸は更に高鳴るのだった。

       *

 真夜中、相葉は奥殿に入り、雪華の剣の前に座していた。
 周囲にはこの神社の記録書や寄贈された置き物、巻き物、普段は使わない祭事用具などが
処狭しと棚に積まれている。行灯も蝋燭もつけず、上部にある明かり取りの窓から差し込む
月光だけが唯一の光であった。
 一番奥の中央にある神棚の上に、雪華の剣は祭られていた。
 この神社は鳥居から入り、すぐに手水、拝殿、奥殿が建っており、そこから裏庭が広が
り大雲取山に続いている。奥殿は倉代わりとなる建物で、普段は鍵をかけてある。奥殿の
隣には塀を隔てて普段相葉らが生活している家があった。塀が建っているのは建物の間だけで、庭
は続きになっている。
 相葉は一日の雑務が終わると、庭に通じる山の中で剣の稽古をする。彼は「水月の剣」と
おぼしき剣を体得し始めていた。まだ完璧ではないが、人目につくのは避けたいと、誰にも
見られぬように森の中で鍛練を積んでいるのである。
 稽古が終わると、就寝する前に必ずここを訪れる。
 福田の魂と向き合う為に……
 相葉は瞳を閉じ、剣から放たれる福田の白い気を感じていた。
 こんなにはっきりと感じるのは久しぶりだ……
 心の中が透き通っていくように感じる。
 白い気は奥殿の中をゆっくりと、風のように漂い、雪華の剣の中に吸い込まれていった。
 気が鎮まったのを感じて、相葉は瞳を開けようとする。
 いつも、この瞬間が怖い。
 福田の魂に触れた後、瞳を開ければそこに彼が立っているのではないか、と思ってしま
うからである。
 相葉は福田の遺体を確認したのでも、その瞬間を見たのでもない。
 存在の消滅を感じただけだ。どこに眠っているのかも知らない。新左ェ門を聞く間もな
く殺したからだ。
 最後に彼を見たのは自分を見送ってくれた、美しい夕暮れの中の姿。
 ひょっとしたら、生きているのではないか?
 そんなばかな考えが浮かび上がる。
 ――長い間待たせた――
 そう言って彼が自分の前に………
 相葉がゆっくりと瞳を開くと、ほのかな月光に照らされた雪華の剣だけが映る。
 胸の奥底からなにかが身を捩って叫ぶが、相葉は必死に押し殺す。
 何を叫ぶのだ?福田はこんなに近くにいてくれるのに……
 以前と変わらず透き通る魂の色をこんなにはっきりと感じているのに……
 ……福田に……もう一度………
 今を不足だと言うのか?いつからそんな贅沢者になったのだ、俺は………
 相葉は自分の胸の奥に潜む闇に気付いていた。
 あそこを越えると狂う、という闇の境界を垣間見る事がある。越えずに戻ってくるのだが、
甘く漂う闇の気配はいつも自分を惹き付ける。
 一度その闇に身を沈めた者として、闇の中の心地よさを知っているからだ。
 もう一度そうなれたらどんなに楽だろう。
 いつかまた越える時がくるかもしれない………
 相葉は深呼吸をすると、立ち上がって奥殿の外に出る。渡り廊下を渡った本殿側に、榊が
立っていた。自分が出て来るのを待っていたようである。
 相葉は黙って奥殿の扉に鍵をかけ、渡り廊下を歩いた。
「影嗣様」
「なんだ?」
「……私どもと、国に…帰って下さいませんか?」
 初めて榊は本題を口にした。いつもは亨之丞と同じく遠巻きに見つめるだけだったので
ある。
「俺は帰らん」
「……一つ聞いてもよろしいですか?」
「なんだ?」
「影嗣様が出奔なさったのは、静様が原因ですか?」
「どういう意味だ?」
 静が兄を呪い殺したと知っているのか?
「……若、亨之丞様は影嗣様の御子なのですか?」
「なに?」
 意外な言葉に眉を顰める。
「どういう意味だ?」
「……噂がでたのは若が産まれてから数年後です。影嗣様が兄上の妻である静様をお慕し、
御懐妊させたのではないかと。だから責任を感じて出奔したのだと……」
「ばかげた話だ」
「この噂の発端は静様本人の口かららしいのです……」
「……………」
「若は、影嗣様の御子だと……静様が言ったと……」
「……静殿はずっと別荘の方で静養中と言ったな……御病気か……?」
「はい……若をお産みになってから身体が弱ってしまったのです。それに伴いお心も不安定
になっていきました。数年前から別荘のほうでお過ごしです」
「……………」
 人を呪い殺したという、良心の呵責に堪えられなかったのか、それとも想う人を失った
悲しみのせいだろうか……
 自分を愛してくれた静。だが相葉は彼女を愛し返せなかった。
 なぜそんな話をしたのだろう?
 彼女自身、そう信じたかったのかもしれない……
 亨之丞は相葉と自分の子供だと……
 今の話を聞いても相葉が静を嫌えなかったのは、自分と似ていると思うからだった。正気
を失う程の情熱をもっている……
 歪んだ黒い情熱を………
「お心が不安定になっておられますから、あまり信憑性はないのですが……」
「亨之丞もその噂を?」
「御存知です」
『なる程、彼の俺を見る視線は、本当に自分の父親かどうか探るものだったのだ』
「違う……」
「では……」
「亨之丞は兄上の御子だ。俺の子ではない」
「……では何故出奔なさったのです……?」
「家督を継ぎたくなかったからだ……」
「それだけですか……?」
「そうだ」
「……………」
「俺は帰らない。榊、お前は早く亨之丞を連れて国へ戻るがいい」
「……若は…影嗣様が父上である事を望んでらっしゃいます」
「ん?」
「こう言ってはなんですが、兄上の宣高様は凡庸な方でした。良くも悪くも特徴のない方
でらっしゃいました。若が父上の話を聞いても、皆、当たり障りのない言葉しか返せない
のです」
「……………」
「しかし、影嗣様は違います。幼少の頃から才能溢れ、藩命にも見事応えられました。親
戚縁者達が集まると、影嗣様の話題が必ず出るのです。鼻が高かったと皆、お誉めになり
ます」
「それこそばかげた話だな……」
 藩命により、相葉は親友を切ったのだ。なにを自慢できるというのか。
「若は、立派な叔父のあなたに憧れを抱いていらっしゃいました。噂通り自分が叔父の子
であったなら、と心の底で望んでおられます」
「それで彼を連れてきたのか?」
「……近く、殿は隠居されるつもりです。宣高様がお亡くなりになってからもずっと当主
として勤めておりましたが、もう体力の限界だと言われまして。今度藩主様が国に帰られ
たら、若を家督相続人としてお目見えをさせて頂くと…そうなれば最早、自由はききませ
ん。ですから、まだ自由に旅ができるうちに、影嗣様に会わせて差し上げたいと思いまし
た……」
「俺に会って父親かどうか確かめさせるつもりだったのか?」
「そうです…影嗣様がもし若の憧れに足らぬ人物であったら、若もふっきれるかと……」
「それで、あのように観察していたのだな……」
「若は…やはり影嗣様の御子でありたいと思っておられます……」
「……父上、母上はお元気か……?」
「ご高齢ですがお二人ともお健やかです……」
「……それは良かった……亨之丞はさぞ可愛がられているだろうな……」
「はい、それはもう……」
「……俺を連れ帰ってどうする?新たな家督騒動の発端にもなりかねんぞ。それに父上も
母上も俺を嫌っていたのだから帰っても喜ばんだろう。むしろ、可愛い孫の家督相続に水
を差す奴として疎ましがる筈だ」
「しかし、若はお若く、お気の弱いところがございます。当主としての重圧に堪えられる
か……」
「私に何をしろと?」
「若の支えになって下さいませんか?」
「……亨之丞はいい子だな」
「はい……」
「内気で甘えん坊のところはあるが歪んでいない……いい子だ。お前が側にいてくれたお
かげだな。叔父として礼を言う」
「影嗣様……」
「当主の嫡男に産まれたのはあの子の宿命だ。俺には何も出来ん。もし、継ぐのが嫌なら
ば俺のようにすべてを捨てるしかない」
「……………」
「後悔しなければの話だがな……俺は後悔していない……」
 相葉は立ち去ろうと歩き出した。
「影嗣様、若は本当にあなた様の御子ではありませんのか?」
「……違う……」
「では、何故静様は……」
「……彼女を哀れに思うが、愛しいと思った事はない……」
「……………」
「……情けをかけた事もな……」
 相葉は再び歩き出し、二度と振り返らなかった。

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