本編の主な登場人物(本編での年齢です)
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十六歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …三十三歳、刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …三十四歳刈谷道場の本来の持ち主
相葉宣高(あいば のぶたか)…二十九歳、相葉影嗣の兄で相葉家の跡取り
静 …相葉宣高の妻

この章の主な登場人物
相葉影嗣(あいば かげつぐ) …三十六歳、八千矛(やちほこ)神社の居候
小太郎(こたろう)…十五歳、茶屋で働く少年。相葉を慕っている
蒼岩(そうがん) …六十五歳、八千矛(やちほこ)神社の神主 
相葉亨之丞(あいば ゆきのじょう) …十四歳、宣高と静の息子。相葉影嗣の甥
榊甚六(さかき じんろく) …六十二歳、亨之丞の世話役

 虎落笛(もがりぶえ)名残雪の章 3

 遊女達のさわがしい声が聞こえ
『相葉さんが到着したのだな』
 と奥の勉強部屋で待っていた小太郎は思った。
 今日は小太郎の働く茶屋に相葉が訪れる日だった。
 陰間や引き込み禿(見世にださず太夫にする為のエリート教育をする禿)に文字を
教える為である。
 以前は三日に一度来てくれていたのだが、茶屋の経営を息子の弥八がするようになっ
てから、勉学の時間が短縮されてしまい、今は七日から十日に一度の割合になってしま
った。
 先代と違って新しい主人の弥八は、教養より見目の美しさを重視しているのである。
 作法や舞の稽古にはうるさく口をはさみ、やれ水仕事はするな、ちゃんと肌を綺麗に
保て、と日常生活の管理は厳しい。
 そんな弥八であるから、役にたたないと思っている勉学を教えにくる相葉はうっとう
しい存在だった。
 歌を詠める程度の知識がついたら、もう勉学は必要ない、という考えだ。そんな時間
があるなら、他の事を身につけろ、とよく言っている。
 確かに陰間達は歌や踊りの他に、歩き方、食べ方、お酌の仕方、髪の結い方、化粧の
仕方、などうんざりするぐらい習わされる。食べ物も禁じられているものが多く、匂い
のある食べ物は厳禁だった。食した時は折檻される。
 勉学より美しさを、と言う弥八の考えも一理はあるのだが、陰間達にとっては、色事
に関係ない勉学は気持ち的に必要なものだった。
 もう一つ、弥八が相葉を煩わしく思っている大きな理由があった。それは、相葉が来
る日は何人かの彼に好意をよせている遊女が浮き足だつ事である。
 彼女らはいつもなら正午過ぎまでだらしない格好で眠っているのに、この日は朝から
身だしなみを整え、化粧を施して彼の到着を今か今かと待っている。
 遊女はすべてお客に花を売るのが商売なのに、特別な存在などいてもらっては困るの
だ。
 そんな弥八の心境など関係ないわい、と遊女達は相葉に濃艶な色気をふりまいている
気配だった。
 小太郎はそんな彼女らの様子を思い出して、ため息をついた。
『全然あきらめないんだな〜………』
 小太郎の知る限り、相葉が茶屋の遊女を買った事は一度もない。
 男色なのでは、という噂もあるが、噂だけで閨を共にした者はいなかった。
 しかし、彼女らは「一夜でも……」と思っている。あきらめた遊女や、年期があけて
国に帰った者などはいるが、茶屋には常に新しい遊女が入ってくるので、その子が相葉
を見て……といった事が続き、一向に減る様子がなかった。
 相葉が二十代の男盛りだった頃はもっとすごかったのかと、小太郎はずっとこの茶屋
に勤めている番頭に聞いてみた。(といっても今の相葉は二十代後半にしか見えないの
だが)
 その頃の方が相葉の男っぷりはあったが、滅多に町に出て来ず、しかも茶屋などには
来なかったので、見知る機会がなかったそうである。茶屋の遊女が相葉を初めて見たの
は小太郎を連れて挨拶に来た時なのだ。当時うるさく騒いでいたのは町娘らだったらし
い。
 しかし、ある事件をきっかけに町娘達のほとんどは諦めたのだ。そして今は年齢時に
つり合わなくなってしまったので、騒いでる者はいなかった。(町娘のほとんどが二十
歳までに所帯をもつからである)
「小太郎、ちょっと……」
 勉強部屋の障子から番頭が手招きして呼び寄せる。小太郎が廊下に出ると相葉が入り
口で待っているから行けと言われた。
 これからこちらに来るのに何の用事だろうと不思議に思いつつも店の入り口に向かう。
すると相葉の横に亨之丞が立っていた。
「相葉さん、なに?」
「頼みがあるんだ」
「なんですか?」
「亨之丞に町を案内してやってくれないか?あの神社では退屈だから気晴らしにでもな
るかと思ってな。弥八殿の許可はとってある」
 実はこれは榊の希望であった。少しでも庶民の暮らしを見ておいた方がいいだろうと
いう考えだ。亨之丞もさすがに退屈してきたので、すぐに承知した。
「え………」
 小太郎はまともに嫌そうな顔をした。
 また相葉と話せる機会が邪魔されたと思ったのである。
「嫌なら無理にとは言わないが………」
「え、あ、ああ別に嫌じゃないけど、勉強の時間がなくなるな、と思って……」
「後程二人の勉強時間をとってもらう約束をしてあるんだが……だめか……?」
「分かった。いいよ」
 相葉と話せる時間がもてると分かった小太郎は気が晴れ、明るい口調になった。
「すまない……」
「でも、どこ連れていったらいいの?」
「普段小太郎が行くところでいい。本屋とか、釣り堀とか。昼代を榊から預かっている
から渡しておく。何かおいしいものでも食べてくれとのことだ」
 相葉は紙入れを小太郎に渡す。
「え?いいの?じゃあ駿河屋のお団子食べていい?」
「ああ」
「やった〜じゃあ、行こうか」
 亨之丞は軽く頷き、二人は歩きだした。
 そうは言ったもののどこから行こうか、と小太郎は考えた。
「どこか行きたいとこある?」
「…………」
「何か見たいものとか?」
「…………」
 亨之丞は考えている様子だったが、なかなか思い付かないらしく、黙ったままである。
『大丈夫か?こいつ?』
 黙っている亨之丞に郷を煮やした小太郎は相葉の言ったとおり、本屋に連れていく事
にした。あそこには学書の他に浮世絵や物語本などおいてあって楽しいかもしれない。
『その後、駿河屋に行ってお団子食べようっと。近くには釣り掘りがあるし、船乗りな
がら釣りすればいいや。よし、決めた!』
「あのさ、これから……」
「小太郎!」
 本屋に行こう、と言いかけた小太郎の声を女が遮った。
「へ?」
 振り向いた先には遊女のおゆみがいた。強張った顔つきで小太郎を見つめている。
「な、なんですか?おゆみさん」
 彼女のただならぬ形相に腰がひける。亨之丞も驚いている様子だった。
 おゆみは小太郎の肩をがしりと掴んで詰め寄る。
「教えておくれ!相葉さんの好きな人って一体誰なのさ!」
「え?」
「知ってるんだろ?教えておくれよ。そんなに綺麗な人なのかい?」
「い、いや俺知らないんだよ……」
「嘘お言いでないよ!あんなに親しいお前が知らない訳ないだろ!」
「いや…本当に……」
「何かしようとか思ってないよ。ただ知りたいだけなんだ!教えておくれ!」
「だから…本当に……」
「お小遣いが欲しいんならあげるよ。ねっ」
 おゆみの手が懐を探る為に小太郎から離れる。その隙に小太郎は亨之丞の手を掴ん
で走りだした。
「こっちだ!」
「え?え?」
「あ、お待ちよ!」
 おゆみが立ち上がった時、二人は筋を曲がりすでに見えなくなっていた。
「あんちくしょう!」
 おゆみの罵倒が空しく響いた。

「ここまでくれば、もう大丈夫だ」
 かなり走り続け、小太郎はやっと止まった。隣では亨之丞が激しく息をついて苦し
そうだった。
「大丈夫か?」
 小太郎の声に返事をする余裕は無さそうで、青白い顔をしながら今度は咳き込みだ
した。
「おい、大丈夫かよ〜だらしないな〜」
 背中をさすってやりながら小太郎は休める所を探した。すぐに団子屋があったので、
そこで一服しようと 亨之丞引きずるように連れて行く。
「お茶二つ」
 腰を長椅子に降ろして亨之丞を見ると、息は整ってきていたが顔色はまだ悪かった。
『あんまり走ったこととかないんだろうな〜悪かったかな』
「ごめんな、大丈夫か?」
 亨之丞は軽く頷く。
「ちょっと休憩していこう」
「はい、どうぞ」
 看板娘がお茶と小さな砂糖菓子を運んできた。
「ありがとう。さ、飲みなよ」
「……………」
 亨之丞はおそるおそる口をつけるが、すぐに躊躇なく飲みだした。
 茶を飲んで少し落ち着いてくると、顔色も息も元に戻ってきていた。
「大丈夫か?もう行ける?」
「……あの……」
「ん?」
「…今の女の人……」
「ああ……おゆみさんって言って遊女をしている人さ」
「……叔父上のこと……聞いてたけど……」
「え?ああ…たいした事じゃないんだ……」
「叔父上の好きな人って……言ってたけど……」
「うん……まあ……」
「知っているのか?!」
「へ?」
 今度は亨之丞がおゆみ並に詰め寄ってくる。
 小太郎は勘弁してくれ〜と思った。
「知らないよ。本当に」
「じゃあなんであの女の人は?」
「俺が知ってると思ってるんだろ。なんでか知らないけど」
「…叔父上は誰か好きなのか………?」
「うん……多分……」
「小太郎に何か話したのか?」
「俺に話したっていうか、この町の人ならたいてい知っているよ」
「どんな事?!」
 話していいのかな〜と小太郎は一瞬迷うが、亨之丞が真剣な表情をして自分を見つ
めるのでごまかすのが悪い気がしてきた。それに町の誰もが知っている事だし、変に
脚色された話を聞かされるより、自分から話した方がいいかもしれない……
「いや、俺もじいじ…蒼岩さんから聞いた話なんだけどさ、この町一番の庄屋の一人
娘が相葉さんに惚れたんだ」
「それで?」
「その娘さんってすごいべっぴんで、性格も良かったんだって。他の相葉さん好きだっ
た町娘も皆彼女なら決まるなってがっくりきてたらしい」
「うん」
「でも相葉さんは断った」
「好きな人がいるから?」
「そう。自分には一生を決めた人がいるって言って断ったんだ。で、他の町娘も『あ
の庄屋の娘でも断られた〜!』って事で一気に諦めたんだって」
「そうか……」
 亨之丞は考え深げに頷き、なぜか嬉しそうだった。

 その後二人は小太郎の計画通りに遊びに行った。
 亨之丞は釣りも船遊びも初めてらしく、始終珍しそうだった。なんでも素直に反応す
る亨之丞の様子を見て小太郎は結構いい奴だな、と思った。今迄は朝餉の時に会うだけ
で、無表情にぽそぽそ食べている姿だけしか知らなかったのである。
『早く帰って欲しいなんて思って悪かったな……』
 小太郎はちょっと罪悪感を感じた。

「あ、七ツの鐘だ。そろそろ帰ろうか?相葉さん待ってるかも」
「うん」
 二人は仲良く横に並んで茶屋へ向かって歩きだした。始終小太郎がおもしろい話を喋
り、亨之丞は笑って相槌をうっていたが、茶屋が近付くにつれて無口になっていった。
そして亨之丞はぼつりと言葉を発した。
「……あの……小太郎……」
「なに?」
「あの……さ……」
「だから何?」
「……相葉さんの…好きな人って……僕の母上かもしれない……」
「へ?」
「僕は……叔父上の息子かもしれないんだ……」
「……え………?」
 小太郎の足が思わず止まる。
「……叔父上って…相葉さん……だよね……?なんで……?亨之丞は相葉さんのお兄
さんの子供だって……」
「うん…そうなってるんだけど……もしかしたら叔父上が出奔した理由は、僕の母上
に恋して、その想いをふりきる為だったんじゃないかって………」
「……だ、誰が……そんな話を……」
「母上が……それにそういう噂があって……」
「……そうなんだ………」
「…僕……そうだったらいいなってずっと思ってた……実際叔父上に会ってもっとそ
う思うようになった……だってかっこいいもん」
「……………」
 亨之丞は夢でもみているような目つきをしていた。
 きっとおゆみの話で確信が強まったのだろう。相葉の好きな人は自分の母で、自分
は彼の子供なのだと………
 相葉が自分の父かもしれない、と語る亨之丞の頬はほの赤く染まっていて、口調も
熱っぽかった。
 自分の望んでいた真実に近付いているのが嬉しいのだろう。
 一方、聞いている小太郎は、今迄味わった事のない複雑な心境だった。胸に暗雲が
立ち込めているかのような、もやもやした感触がする。
『亨之丞が相葉さんの息子……?つまり相葉さんがお父さん……』
 実は陰間達の中にも相葉に憧れる者が何人かいる。その子達は相葉と親しい小太郎
をよくいじめたが、相葉に告げ口されるのを恐れたのか、いつしか手は出さなくなっ
た。しかし、自分に向けられる憎しみの視線はいつも感じている。
 そんなもの小太郎はまったく平気だった。
 自分は相葉と一番仲が良い者だという優越感があったからである。離れて暮らすよう
になっても、淋しくはなかった。相葉とは心がいつも通じていると思っていたからだ。
 それなのに、今亨之丞から聞かされた話だけで、小太郎の胸には寥々とした思いが渦
巻く。
「亨之丞、小太郎」
 相葉の声が聞こえ、二人は顔を上げる。茶屋の外で相葉が二人を待っていた。亨之丞
が走り寄ったので、小太郎も慌てて続く。
「おかえり亨之丞。どうだ?楽しかったか?」
「はい、とても」
「小太郎、ありがとう時間とらせたな」
「ううん……ちっとも……」
 小太郎は笑ってみせたが、顔が強張っているのが自分で分かる。
「では日が暮れる前に戻ろう。じゃあ、小太郎、また来るから」
「ありがとう、小太郎」
 亨之丞が明るい笑顔を向ける。
「う、うん……」
 二人は仲良く歩き出し、その姿はまさに帰路につく親子のようであった。
 見送りながら小太郎は先程感じた暗雲がさらに濃くなっているのに気付いた。
『どうしたんだろ?俺……』
 亨之丞と榊はいつか去っていく旅人なのだから、自分にあまり関係がない人物のよう
な気がしていた。彼等は対岸に住む人々で、自分とは関わりのない者達だと。
 だが、先程の話を聞いた小太郎は、彼等がこちら側の岸に突然現れたように感じたの
である。
 いきなり目の前に、自分の横にはっきりと立っている。
 そして身近にいた相葉が遠くにいってしまったような……
 小太郎は相葉の過去を気にした事はない。そんなものは知らなくていいと思っていた。
目の前に相葉がいてくれれば過去などどうでもいいのだと……
 そう思っていた筈なのに、小太郎は初めて相葉の過去を知りたいと思った。
 一体なぜ国を出奔したのか……
 亨之丞の話は本当なのか……
 亨之丞は相葉の息子なのかどうか……
「……父さん…か……」
 小太郎はぼつりと呟いた……

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