本編の主な登場人物(本編での年齢です)
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十六歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …三十三歳、刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …三十四歳刈谷道場の本来の持ち主
相葉宣高(あいば のぶたか)…二十九歳、相葉影嗣の兄で相葉家の跡取り
静 …相葉宣高の妻

この章の主な登場人物
相葉影嗣(あいば かげつぐ) …三十六歳、八千矛(やちほこ)神社の居候
小太郎(こたろう)…十五歳、茶屋で働く少年。相葉を慕っている
蒼岩(そうがん) …六十五歳、八千矛(やちほこ)神社の神主 
相葉亨之丞(あいば ゆきのじょう) …十四歳、宣高と静の息子。相葉影嗣の甥
榊甚六(さかき じんろく) …六十二歳、亨之丞の世話役

 虎落笛(もがりぶえ)名残雪の章 4

 次の日、道場の稽古から八千矛神社に戻った相葉は、誰かが神社から出て行くのを
遠目で見た。二人連れらしく、二つの駕篭に乗って帰っていった。
『誰だろう?』
 今日は小太郎は来る日ではなかったし、なにより彼ならば駕篭で帰る筈がない。
 大事であれば蒼岩から何か言ってくるだろう、と相葉は気にしなかった。
 神社に戻り夕餉の支度を始めようとした時、案の定蒼岩が声をかけてきた。
「相葉殿、話があるので私の部屋に来てくれんか?」
「はい」
 相葉はたすきを取り、彼の部屋に入った。
「そこに座ってくれ」
 相葉が置かれてあった座布団の上に座ると、向かいに蒼岩も腰を降ろす。心持ち表情
が固い。
「実は今、茶屋の番頭が来てな……」
「小太郎のいる、ですか?」
「そうだ……」
「何かあったのですか?」
「……小太郎に……客をとらせると……」
「…つまり…それは…閨の相手をさせると……?」
「……らしいな……」
「納得できません」
 相葉はきっぱりと言い切った。
「客をとらせないという約束だったからこそ、小太郎を奉公に出したのです。それを破
るなど話が違います。すぐに小太郎を引き取りに行きます」
 相葉は腰を上げかけた。
「話はまだ終わっていない。最後まで聞いてくれんか」
「………分かりました……」
「店の方も約束を違えるつもりはなかった。だが、店の贔屓客で御家人の御曹子がな……
小太郎を指名してきたというのだ……よく茶屋に顔をだしていたので小太郎の顔を見知っ
たらしい……」
 考えてみれば、小太郎は十五歳で、陰間としては「盛りの花」の頃なのだ。子供から
青年へと移行する妖しげな美しさがにじみ出る時である。
「……もちろん店の方も、小太郎は色ではないと断ったのだが…かなり権力のある人物
らしく、断りきれなかったそうだ……」
「………………」
「一度きりという約束はとりつけたそうだが……」
「……私がその者に話をつけます……」
「……相葉殿が話をつけるのはたやすい。しかし、茶屋の者に迷惑がかかるかもしれん」
「関係ありません」
「そなたが良くても、小太郎はどう感じると思う……」
「………………」
「今迄世話になった茶屋に自分のせいで何かあったとしたら、あの子が苦しむのではない
か?あれは優しい子だ……」
「……しかし……」
「小太郎は承知したそうだ……」
「え………」
「……客をとるのを承知したそうだ……使いの者は私に詫びにきたのだ……」
「……………」
 相葉は何も言わず、膝に乗せた拳を固く握りしめていた。小太郎の苦しかったであろう
決断を思うと胸が痛む。
「……そして使いの者はもう一つ頼みがあって来たのだ」
「頼み……?」
「相葉殿に小太郎の閨の仕込みをしてくれぬかと……これは小太郎の希望だそうだ……」
「……は……?」
「小太郎は陰間ではないのだから、それに対する訓練をしておらん……だから、それを相葉
殿にして欲しいと言ってきた」
「……しかし………」
「……なんの訓練もしていないのに、いきなり客と閨を共にさせる訳にもいかん。客は準備
時間として三日待つと約束した。できるだけ小太郎の負担を軽くしてやりたいと、仕込みの
男で誰か指名したい人はいるかと聞いたら、相葉殿がいいと本人が言ったのだ……」
 通常、陰間達は十一、二歳あたりから受け入れる為の訓練をする。そういった仕立て専門
の男が何日間かかけて挿入してやり、慣らしていくのである。その時に客の奉仕のやり方や
後始末の方法なども身につけると言われている。
 知識としては相葉は知っているが、実際の専門の男のようにできる筈がない。
 やはり、その筋の者にやってもらった方が身体の負担は軽いと思うが………
「…受けてやってくれんか………?」
「………………」
 なぜ、小太郎は自分を指名したのだろう?仕込み専門の男があまりに生々しくて嫌だったの
か、自分なら親しい間柄で気持ち的に楽だと思ったのか?
 それとも………
 なんにせよ、小太郎が茶屋の為に色を売る、と決心したのなら、自分もできるだけ力になっ
てやりたい。
 この場合は身体の負担よりも、心の問題の方が大きい。
「……分りました……」
「……では、明日の夜、小太郎をこちらに寄越すので、相手をしてやってくれ……」
「……はい………」
「話はそれだけだ……頼んだぞ……」
「……………」
 相葉は立ち上がり、部屋を出て行こうと襖を開ける。
「相葉殿」
「はい」
「………そなたは残酷な男だ………」
 相葉が振り返ると、蒼岩はいつになく厳しい表情を向けていた。まるで、相葉を攻めるよ
うな……
「……承知しております………」
 相葉は頭を下げると襖を閉めて出て行った。
 今回の件を、もし小太郎が嫌だと言えば、茶屋がどうなろうと止めさせただろう。だが、
小太郎は引き受けたのだ。それは彼の性格からいって他にしようのない決断だったろうが、
相葉はそれを承知で小太郎の決断を認めた。
 小太郎自身が引き受けたらなら仕方ないと思い、それを覆そうとしない。彼の意見を尊重
すると言えば聞こえがいいが、それは小太郎の生き方に関与しないという突き放しでもある。
 自分の決断に自分で責任を持て、と彼の辛い試練を無理に助けてやろうとしない。亨之丞
と同じ言葉を彼にもぶつけている。あれ程自分を慕ってくれて、自分も大切にしている小太
郎なのに………
『……俺は…心を欠落している………』
 自分の冷酷さを相葉は自覚していた……

        *

 その日は朝から冬に逆戻りしたのかと思うぐらい寒い日で、夕刻から雪が降り出していた。
四ツ半(午後十一時)を過ぎる頃には止んだが、かすかに積もった雪は一面を銀世界にした。
 深夜、雪を踏み締めて小太郎は八千矛神社にやって来た。
 いつもの元気な彼と違い、俯き加減でしおらしい様子は見ていて胸が苦しくなったが、相
葉は黙って彼を自分の寝所に誘った。
 行灯の明かりの中、二人は夜具の上で向いあう。小太郎は俯いたままである。
「小太郎」
 相葉の声に小太郎の身体がびくりと震える。
「……本当に…俺でいいのか?」
 小太郎は小さく頷いた。
「本当に…客と閨を共にするのか……?」
「………………」
「無理しなくていいんだぞ……嫌なら……」
「俺……いつかこうなるんじゃないかって……思ってた……」
「ん………?」
「周りの…友達が、皆大きくなって……陰間として客をとる中、俺だけしないなんて事ある
訳ないって……思ってたんだ……」
「……………」
「だから……ある程度…予測していたんだ……」
「…小太郎……」
「相葉さんこそ、嫌な役目引き受けてくれてありがとう……ごめんなさい……」
 小太郎は無理に笑顔を作った顔を上げる。
 もう何も言うまい、と相葉は思った。
 負担にならないようにできるだけ優しくしてやろう。
 考えてみれば、人の肌に触れるのは福田がいなくなってから初めてだ、と思い出す。
「……分った……では……明かりは消そうか?」
「は、はい……」
 相葉が行灯の明かりを吹き消すと、部屋は障子から差し込む月光だけになった。積雪の反
射のせいか、いつもより明るく感じる。
 小太郎の頬に触れると、またびくりと震える。彼の額に口付けながら、相葉はゆっくりと
小太郎の身体を夜具に横たえた。
「あ…き、着物は……脱がなきゃ……」
「俺がする…小太郎は楽にしていろ……」
「……う…うん………」
「嫌ならちゃんと嫌だって言うんだぞ。無理するな」
「……うん……」
 相葉の身体が覆いかぶさり、唇が項に触れて、小太郎の身体にしびれが走った。相葉の手
が自分の帯を解いていくのが分る。襟を広げ、胸に優しく触れてくる……
「……あ………」
 またしびれが走り、小太郎はどうしたらいいのか分らなくなった。
 恥ずかしくて、少し怖いが、同時に甘い感情が沸き上がってくる。
 相葉の手が、唇が自分に触れているのだと思うと、歓喜にも似た想いが上がってくるので
ある。
「……あ……相葉さん……」
「ん……大丈夫か……」
「……う、ん……あ………!」
 胸の突起を吸われ、小太郎は甘い声をあげる。今まで味わった事のない快感に支配されよ
うとしていた。腰布が取られ、脚の間に相葉の手がするりと入ってきて、驚いた小太郎は脚
を閉じてしまう。
「…あ、あ…相葉さ……ん……」
「…嫌か……?」
「…ち……違…う……で…でも…………」
「怖いか……?」
「………………」
「大丈夫だ…無理強いはしない……痛くもしないから……」
「……い、痛くない………?」
「…ああ…大丈夫だ……」
 額に相葉の唇が落ちてきて、小太郎は恐る々脚を広げた。
 優しく小太郎のそれに相葉の手が触れてくる。小太郎は快感に耐えきれず、相葉の背中に
しがみついた。
 彼の手だ、と思うだけで身体が熱くなる。
「……あ……ああ……ん……」
「………………」
 相葉の手はとても優しくて、小太郎の為だけを考えている動きだったので、小太郎は泣き
たくなった。
 あんまり優しくしないで欲しい……愛されていると、錯覚してしまうから……
「あ………!」
 小太郎は頭の中が一瞬真っ白になり、果ててしまった。
 荒く息を吐いて、ぐったりした四肢を夜具に投げ出す。
「大丈夫か?」
「……う……うん……」
 息が少し整ったのを見て、相葉はうつ伏せになってくれるように頼んだ。小太郎は息を飲
みながら後ろを向いた。
 相葉は傍らに置いてある小壺の蓋を開けて中身を指ですくった。これは丁字油(ちょうじ
ゆ)と呼ばれる潤滑油の役割を果たすものである。
「楽にしていろ……」
「…………………」
 相葉の指が小太郎の臀部の間に入り、その奥へ挿入した。
「…!……うわ……!」
 小太郎は声をあげて身体を強張らせる。
「大丈夫か……?少しずつでいいから力を抜け……」
「……う………」
「無理しなくていいから、ゆっくりと……」
 相葉の優しい声が耳元で囁いている。自分の身体を気づかってくれる声だ。自分の欲望な
ど微塵もない。
『何やってるんだ俺は……』
 小太郎は相葉の優しい声に胸がしめつけれるような淋しさを感じた。
 相葉には愛する人がいるのを知っているくせに、彼に何をさせているんだ……
 これで愛されるとでも思っているのか……!
「……う……う………」
 小太郎は耐え切れずに泣きだした。
「小太郎……?」
「う…う……えっ……」
「辛いのか……?」
 相葉の指が引き抜かれると、小太郎は泣きながら謝った。
「…ごめんなさい……」
「……いいんだ……俺も悪かった……もっとゆっくりすればよかったな……すまない………」
「………違うんだ……俺……ごめんなさい……」
「ん?どうした……?」
 小太郎は涙を流した顔で振り向くと、相葉の胸に抱きついて大泣きした。相葉は泣きじゃ
くる彼の背中を優しく撫でてやった。
「ごめんなさい……ごめん………」
「どうしてそんなに謝るんだ?お前が謝る事などなにもないだろ?」
「……俺……やきもちやいたんだ……亨之丞に……」
「亨之丞に……?」
「……彼に……自分は相葉さんの子供かもしれないって……言われて……俺……」
「………………」
「……相葉さんと一番仲がいいの……俺だって……心のどっかで自慢してたんだ……それなの
に……亨之丞が現れて…俺負けまいと張り合ったんだ……それで、こんな事してくれなんて頼
んで……ばかだ……」
「小太郎………」
「……相葉さん……ずっと好きな人いるって知っているのに……ずるいよね……ごめんなさ
い………」
「………………」
 なぜ、小太郎は自分を指名したのか?仕込み専門の男があまりに生々しくて嫌だったのか、
自分なら親しい間柄で気持ち的に楽だと思ったのか?
 それとも………
 それとも自分に淡い恋心を抱いているからか………
 だが、彼がどんなに自分を好いてくれても、応えられないと相葉の心は決まっていた。
『お前のような子を愛せたら…きっと幸せなのだろうな………』
 そんな考えが相葉の頭に思い浮かぶ。
「……ごめんなさい………」
「……いいんだ………」
 相葉は泣く小太郎の身体を優しく抱き締めて背中を撫でた。
 長い間そうしていると、ようやく小太郎も落ち着いてきたらしく、涙が止まった。
「……寝るか?」
「……う…ん………」
「明日、またおいで。その時、もう一度話し合ってこれからの事を考えよう。今日はもう寝
よう……」
「うん……ごめんなさい……」
「もう謝るな。さ、布団にはいれ」
「……あの……相葉さん………」
「なんだ?」
「いっしょに寝ていい……?」
「……いいよ……おいで……」
 小太郎の心中を察した相葉は、小太郎を抱き締めたまま夜具に潜った。小太郎は相葉の胸
に顔を埋める。もう少しだけ、相葉の側にいたかった。
「……相葉さん……聞いていい……?」
「なんだ?」
「……相葉さんの好きな人って……亨之丞のお母さんなの……?」
「………違う………」
「じゃあ……亨之丞は………」
「俺の子供ではない………」
「………亨之丞……相葉さんの息子かもしれないって嬉しそうだったよ………」
「しかし、違うんだから仕方ない……」
「…じゃあ………誰なの………?」
「………月読だ………」
「え…………?」
「……俺は月に恋した哀れな男だ……」
「………………」
「……月光はその光を感じる事ができるが、手に掴む事はできない……俺は掴めると思い、必
死に手をのばしたんだ……できる訳もないのにな………」
「………相葉さん………」
「……それでも……一度だけ……」
 この手に掴めたのに………
 俺の元に降りてきてくれたのに……
「さ……もう寝ろ……」
「……うん………」
 相葉は辛い恋をしているのだ、と小太郎は思い、胸が苦しくなった。
 優しく背中を撫でる相葉と、埋めた胸板の感触が急にはっきり感じる。しなやかな彼の身体。
成熟した男の肉の匂いが鼻をかすめる。
 小太郎は初めて相葉を一人の男として意識した。
 父や兄の変わりでもなく、友達でもない……
『俺は……相葉さんが………』
 好きなんだ………
『やっぱりばかだ……俺……』
 気付いた瞬間、失恋決定じゃないか……
 ふいに溢れる涙を感じながら、小太郎は相葉の胸の中で眠りにおちていった。

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