本編の主な登場人物(本編での年齢です)
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十六歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …三十三歳、刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …三十四歳刈谷道場の本来の持ち主
相葉宣高(あいば のぶたか)…二十九歳、相葉影嗣の兄で相葉家の跡取り
静 …相葉宣高の妻

この章の主な登場人物
相葉影嗣(あいば かげつぐ) …三十六歳、八千矛(やちほこ)神社の居候
小太郎(こたろう)…十五歳、茶屋で働く少年。相葉を慕っている
蒼岩(そうがん) …六十五歳、八千矛(やちほこ)神社の神主 
相葉亨之丞(あいば ゆきのじょう) …十四歳、宣高と静の息子。相葉影嗣の甥
榊甚六(さかき じんろく) …六十二歳、亨之丞の世話役

 虎落笛(もがりぶえ)名残雪の章 5

 相葉は自分の下で荒い呼吸をする背中を見下ろした。
 ぐったりとした四肢は夜具に投げ出され、布の波に埋もれている。
 しかし、相葉はまたその背中に唇をおとし、腕を胸に回して愛撫をはじめた。
「…影嗣……や………」
 苦しそうに福田が声をあげるが、相葉は止めなかった。残酷な優越感を感じる。
 乾いていた。
 彼が、福田が欲しくてたまらない。
 どんなに彼を求めても、その欲望は後から後から沸いてくる。穴のあいた壺のよう
に、どんなに水を注ぎこもうと、決して満たされる事がなかった。
 相葉はふと、福田の声が聞こえなくなっている事に気付く。聞こえるのはくぐもっ
た息だけである。
 福田の顔を覗き込むと、夜具を噛んで声を押さえている姿が目にはいる。
 途端に怒りが込み上げてきた相葉は、福田の肩を掴んで強引に仰向けにさせた。
 布は口から離れ、福田は少し驚いた表情で相葉を見上げていた。その彼の瞳は潤ん
でいて、微かな恍惚感を漂わせている。
 こんな彼の表情は肌を重ねてから初めて知ったもので、相葉の獣欲が沸き上がる。
『俺だけなんだな。こんなあなたの表情を見るのは………』
 相葉は福田の髪を掻き上げ、深く口付ける。
「……ん……う………」
 唇を離さないまま福田の脚を開かせ、その奥に自分の楔を打ち込んだ。
 福田の悲鳴は相葉の喉に吸い込まれていった。

 夢から覚めて、相葉は飛び起きた。
 肩が上下する程荒い呼吸を繰り返し、一瞬自分がどこにいるのか分らなかった。
 ゆっくりと首をめぐらせ、横に小太郎が眠っている姿を見て、やっと現在を自覚する。
 自分の手をみると、大きく震えていた。いや、手だけではなく、全身が震えていると
初めて気付く。
 今、たった今自分の手の中にいた人は………
「……う……」
 突然の胸の苦しみに襲われ、相葉は手で押さえた。
 深い悲しみが相葉を苛んでいた。それは悲愴とも言える程深いものだった。
 とても部屋には居られず、相葉は外の庭に飛び出した。
 裸足のまま庭を歩き、池の側の大岩に腰を降ろす。
 辺りは薄く雪が積もっており、無音の世界が広がっている。雲ひとつない空に月が明
るく輝き、月光が木々に、池に、岩にその光を落としていた。
 かなり寒く、相葉は単姿だったが、まるで気にならなかった。むしろ、この身体中か
ら立ち上る熱を少しでも冷まして欲しかった。
 美しい月を見上げながら相葉は福田の事を考えた。
 あれ程愛した人、欲した人は彼だけだった。
 小太郎にあんなに優しくできたのは、欲していないからである。
 彼をこの手に抱く時、いつも感じる喪失感を払い除けようと、夢中で抱きしめていた。
彼をこの手にとらえたと感じたのは一度だけ……あの、福田が自分といっしょにいたいと
言ってくれたあの時だけ………
 彼がいなくなって十五年……いつの間にか自分は福田と同じ年になっている……
 あなたの時は止まり、自分だけが年をとり……
 きっと福田は相葉が誰かを愛しても、変わらずに側にいてくれるだろう。
 しかし、相葉は誰も愛せなかった。彼以外の誰も………
 相葉は榊からその後の藩中の話を少し聞いていた。
 そして、新左ェ門を殺した下手人は福田になっていると知った。
 確かに新左ェ門が死んだのは福田の家で、その直後、福田が姿を消し、帰ってこないの
だからそう考えるのが普通かもしれない。
『新左ェ門を殺したのは俺だ………』
 そう言ってやろうかとも思ったが、榊に心の重荷をもたせる事はあるまい、と黙ってお
いた。その時、福田が残り僅かの命だったという話も聞いて驚愕した。
 小石川療養所の医師が役人に証言したらしい。
 福田が帰ってこないのは、旅の途中で病が悪化して亡くなった可能性があると。どちら
にせよ、大病を患った彼の身体は(事実は毒を盛られたのだが…)後二、三年の命だった
と言ったそうである。
 あの時、彼が自分といっしょに行こう、と言ってくれたのは、自分の命が後少しだと悟
っていたから………
 最後の時を共に過ごす相手として俺を選んでくれたのだ………
 今まで福田は誰かの為にしか動かなかった。
 彼の行動の基準は誰かにとってその方がいいだろう、という考えばかりで、自分の意志
はそこになかったのである。
 彼が初めて自分の意志で動いたのが………
『俺といっしょにいてくれる事だったのに………』
 どうして………
 相葉は拳を握りしめた。
 その時、背後に人の気配を感じ、振り返ると亨之丞が立っていた。
「……あ、……あの………」
 戸惑う様子の亨之丞の手には羽織が握られている。
「…あの…さ、寒いかと……思って………」
 亨之丞は恐る恐る羽織を相葉に差し出した。相葉はそれを受け取ると亨之丞の身体にか
けた。
「お前こそ風邪をひくぞ。私なら大丈夫だ…こんな時間にどうした………」
「……目がさめたら榊がいなくて……どうしたのかと思って廊下にでたら叔父上の姿が見
えたので……」
「……そうか……部屋に戻りなさい。榊は厠にでもいったのだろう……」
「………あの……叔父上………」
「ん……?」
「叔父上はもしかして……私の…父上…」
「亨之丞」
 相葉はそれ以上言うのを阻むように名前を呼んだ。
「お前は私にとって可愛い甥だ。大切に思っている………」
「……え……」
「私は間男になるような真似はしない……」
「……………」
「さ、部屋に戻りなさい……私も戻るから………」
「……………」
 相葉は亨之丞の背中を軽く押して、戻るように促した。亨之丞は泣きたくなる気持ちを
堪えて歩きだす。
 しかし、心の奥底で、もしかしたら相葉は嘘を言っているのではないか、という疑問が
浮かぶ。まるで、その疑問に縋るような気持ちだった。
『もしかしたら、私が家督を継ぐのを止めるかもしれないと思って……それで……嘘を……』
 すると、急に相葉が歩みを止める。
「?」
 不思議に思った亨之丞が相葉の顔を見ると、するどい眼光を放っていた。
「……叔父……」
「しっ……」
 相葉は口元に手を当てる。
『様子がおかしい……いつもと違う……』
 相葉は何か異常な気配を感じて周りの様子を伺った。亨之丞の手をとって、ゆっくりと
奥殿の方に歩を進める。来てみると、本殿の廊下で榊が倒れていた。
 相葉と亨之丞は急いで駆け寄り、抱き起こす。気を失っていただけらしく、すぐに目を
開けた。
「どうした、榊?」
「あ…物音がして……見に来たのですが……誰かに後ろから殴られて……」
 相葉が目を向けると、奥殿の鍵が壊されていた。立ち上がると同時にその入り口から男
が飛び出してくる。
「!まずい、早く逃げろ!」
 他に奥殿から荷を持った男が五人程飛び出してくる。その中に雪華の剣をもった者がお
り、盗人達は全員森へ向って駆け出していく。
「!」
 相葉の全身から怒りの炎が立ち上る。榊の持っていた太刀を掴んで男共を追い掛けた。
『俺から、また福田さんを奪う気か!』
 相葉の心が憎しみで支配される。
「野郎!」
 盗人の一人が脇差しを抜いてかかってくるが、相葉は一太刀のもとに切り捨てた。
 その男の持っていた脇差しを拾うと、すばやく投げ付け、雪華の剣を持って走っていた
男の背中に突き刺さる。
「ぎゃあ!」
 男は背中を貫かれて悲鳴を上げた。雪華の剣は男の手を離れ、雪の上に落ちる。
「貴様!」
「やっちまえ!」
 他の男共が太刀を振り上げ、一斉に相葉に飛びかかってきたが、相葉は容赦なく切った。
「……すごい………」
「……………」
 榊と亨之丞は、相葉が盗人の男達を切り捨てる様を見て息を飲んだ。
 ほとんど一刀のもとに、男共は絶命していた。相葉の周りはあっという間に六人の死体
で埋め尽くされた。
「どうしたんです?」
 騒ぎで目を覚ました小太郎がやって来た。聞かれた榊と亨之丞は何も言えず、相葉の方
を見つめるだけだった。
 その光景を見た小太郎は驚いて心臓がとまりそうになる。
 返り血を浴びた相葉が剣を持ち、雪の上に立っている。彼の足元には死体の山が………
 吐き気が込み上げてきた小太郎は目を背け、口元を押さえる。
「い、一体…何が………」
「盗人がはいったのです…逃げようとしたところを相葉さんが………」
「……こ、殺したんですか………?」
「……ああ………」
 何も殺す事は……
 道場破りの奴も、町で暴れていた輩共も、追い払うだけだったのに………
 相葉らしくない所行に小太郎は呆然となる。
 小太郎はもう一度相葉を振り向いたが、彼は先程から微動だにせず、ある一点を見つめ
ていた。
「?」
 相葉の視線を辿ると、そこに一本の太刀が雪の上に落ちている。
『あれは………』
 相葉が奉納したという神剣ではないか?
『そうか、あれを盗まれまいとして……』
 しかし、相葉は太刀を拾うでもなく、ただ、じっと見つめるだけである。
 声をかけようかと思うが、相葉の身体から張り詰めた冷たい気を感じて何も言えなかっ
た。
 相葉は雪華の太刀をじっと見つめていた。
 白い雪の上に横たわるそれは、雪と同じくらい白く、透明な気に包まれている。
 それなのに俺は………?
 怒りで人を殺め、この手は血にまみれている。
 峰打ちにしようなどとは考えもしなかった。ただ、雪華の剣を、福田を奪っていくもの
への怒りだけだった。
 相葉はゆっくりと雪華の剣に近付き、その傍らに膝をついた。
 そっと手を伸ばし、雪華の剣を自分の手に取る。
 途端に流れ込んでくる福田の気。透明で美しく、彼そのものの気は相葉を蔑みもせず、
変わりなく白かった。
「……あ………」
 胸に福田の姿が、言葉が次々と蘇る。
 初めて水月を見た時の彼の姿。困った顔や、優しい笑顔。初めて抱き締めた時の彼の
ぬくもり……
『影嗣……私も連れていってくれないか……』
 初めて知った歓喜と……
『私もお前を想っているからだ……』
 そして、苦しみ……
 想いが溢れ出して堪えられなくなった相葉は雪華の剣を胸に抱いて慟哭した。
 雪に頭を埋めて蹲ると、そのまま号泣する。
「……どうして…………」
『私の願いを叶えてくれないか……』
「…どうして死んだんですか………!」
 相葉は大声で叫び、初めて福田の『死』を口にした。十五年間、一度も口にしなかった
その言葉を。
 言葉にすれば本当になってしまいそうで怖かった。
 だが、違う。福田は死んだのだ。もう二度と会えない……
 こんなに近くに、この手の中にあなたの魂があるのに………!
 あなたは目に見えないものも、見えるものも存在しているから同じだと言った。同じに
感じる事が出来ただろう。だが、自分は違う。あなたのようにはなれない。
 どんなに望んでも、この先あなたに会う事はできないのだ。
 あなたと、いっしょに過ごしたかった。どんな僅かな時間でもいい、あなたを失う事に
怯えず、いっしょにいたかった……
 優しく、したかった………
『私はお前を苦しめるかもしれない………』
 そう福田が言ったのは、自分の命があと僅かだったから……
 あなたが与える苦しみなら受けてみせる、と言った自分を笑う。
 今、同じ台詞が言えるか?彼を失ったこれ程の苦しみを知った後でも……!
 自分は、餓鬼だった……
『福田さん、俺は一度もあなたに謝っていない………!』
 激しい追悔の念に駆られる。
 堪えられない………
 もう一度、もう一度だけ、あなたに会いたい……
 でなければ、またあの闇に沈みたい………
 雪に平伏し、泣叫ぶ相葉の姿を小太郎は見ていた。
 そして、
『炎が燃えている………』
 と、思った。
 相葉の深淵に眠っていた炎が一度に吹き上げている。
 それは蒼く、美しく、悲しい炎だった
 ――影嗣――
『……え………』
 小太郎は誰かの澄んだ声が聞こえたような気がした。
 相葉は耳元に感じた福田の声に、心臓が止まる。
 静かに顔をあげると、目の前に福田が立っていた。
 ……あ………
 優しく微笑んで、自分を真直ぐ見つめている。
 月明かりの中、美しい瞳で……魂と同じ澄んだ気と共に………
 その瞳は、あの時と同じ瞳だった。自分を愛している瞳………
 時が止まり、辺りは沈黙に満ちている。
 静謐に包まれた世界の中で福田は優しく相葉を包み込んでいた。
 無限に広がる気は水月を会得した者だけが持つもので、人ではない存在がそこにある。
 福田は次の瞬間、霧のように消えてしまっていた。しかし、相葉は荒ぶっていた心が
不思議な程静まっているのを感じた。
 愛する人に……もう一度会えた………
 福田は相葉の怒りも、悲しみも、すべてを受け入れていってくれた……
 代わりに愛しい気持ちが胸に満ちている。
 相葉は腕の中の雪華の剣を、もう一度強く抱き締めた。
『……誰………?』
 小太郎は目の前に現れ、消えていった人に驚いた。穏やかで、優しそうな知らない人だ
った。だが、相葉の様子からあの人が相葉にとってどういう人なのか分っていた。
『あれが……相葉さんの………』
 突然、亨之丞が相葉から逃げるように反対方向に駆け出す。
「若!」
 榊が追おうとするが、足元がふらついて走れなかった。
「俺が行くよ」
 小太郎が後を追い、神社の手水場で佇んでいる彼に追い付いた。
「亨之丞……」
 亨之丞はしくしくと泣いていた。小太郎はその理由を察する。おそらく、彼にも相葉が
誰を愛しているのか分ったのだろう。
「……違うんだな………」
「………………」
「僕は……叔父上の息子じゃないんだな………」
 小太郎は亨之丞の背中を優しくさすってやる。先程、相葉が自分にしてくれたように………
 そして自分も静かに涙を零すのだった。

       *

 次の朝、奉行所に届けを出し、盗人の遺体は引き取られていった。
 相手はこの付近を根城にしていた山賊で、手配書がだされている極悪な一味であると
分る。
 多勢に無勢であった事、相手が先に刃物を抜いた事から相葉にお咎めはなかった。
 夕刻に小太郎は八千矛神社を訪ねていった。
 すると、鳥居のところで旅姿の榊と亨之丞にでくわす。
「帰るの?」
「……うん…これから小太郎のところに挨拶に行くところだったんだ。入れ違いになら
なくて良かった」
「…そっか……気をつけて……」
「……うん……世話になった……」
「……あの……亨之丞……」
「俺なら大丈夫だ……もう平気……はっきりして良かったんだ……」
「うん………」
「それに、俺は叔父上の甥で肉親なんだから、同じ血が流れているって事だろ。きっと
叔父上みたいになってみせるんだ」
「そっか……」
 気弱な亨之丞が随分強くなったみたいに思えて、小太郎は安心した。
『俺も強くならなきゃ………』
「じゃあ……機会があったらまた会おう」
「うん、元気でね……」
 榊が一礼し、二人は歩き出した。遠ざかっていく後姿を見送った後で、小太郎は神社
の人家に入った。
「相葉さん、いる?」
「こっちだ小太郎」
 庭の方角から声が聞こえたので、そちらの方に脚を向けると、相葉が蒼岩といっしょ
に線香と塩をたてていた。
「弔い?」
「ああ、略式だがやらんよりはましだろう……ばかな者達じゃな……」
 蒼岩が手を合わせたので小太郎も目を瞑って手を合わせる。
 昨夜の遺体の姿が浮かんできて少し怖くなる。
「それより小太郎は来るのが早いのではないのか?何か用があってきたのか?」
「あ、それが…例の御家人の御曹子なんだけど……」
「お前に色目使ってきた奴か?」
「う、うん……」
 小太郎の顔が赤くなる。側に立っている相葉の顔がまともに見れない。
「俺に言ってきた話しだけど、もういいって断ってきたんだ」
「ほう…そりゃ良かったな……」
「……うん……良かったんだけど……なんで、いきなり断ってきたのかな……」
 小太郎は相葉を盗み見るが、彼の表情は何の変化もなかった。
 もしかして相葉が何かしたのでは、と思うのだが聞いたところで彼は違う、と言うだ
ろう。そういう人だ。
「私は疲れたのでひと休みするよ。相葉殿、後を頼めるか?」
「はい」
「ではの……」
 蒼岩は立ち去っていき、小太郎と相葉がそこに残された。
「……良かったな……小太郎………」
「そ、そうだね………」
 小太郎はまだ相葉の方を見れなかった。胸が高鳴る。
「亨之丞、帰っちゃったんだね……」
「ああ……会ったのか?」
「鳥居のところで……」
「そうか……」
「……あの………」
「昨夜……会えたよ……」
「え………」
「俺の一番大切な人に会えた………」
「……………」
「俺は一度気が違えた事があったんだが、今度もそうなるんじゃないかって、心配して
来てくれたらしい……」
「相葉さん………」
「あの人がいなくなってから、俺は身体が半分抉りとられたのと同じだった……辛くて
、痛くて、その傷をなかったものにしようと、目を背けていた……」
 小太郎は顔をあげて相葉を見た。
「……でも…駄目だった……」
 傷は癒える事はなく、そこから血は流れ続けている。それを認めなくてはならない。
血を流しながら生きる覚悟をしなければならないのだ。
「……俺は……強くならなければ……」
 小太郎は相葉の瞳にあの炎が浮かんでいるのが見えた。
 いつもは深淵に沈んでいた炎が、はっきりと燃えている。もう、沈めずに、炎を燃や
しながら生きるつもりなのだ、と小太郎は分った。
『どうして死んだんですか!』
 相葉の昨夜の血を吐くような叫び。彼の愛する人はもうこの世の人ではないのだ。あの、
相葉のところに来た優しい人は………
「辛くないですか……?」
「……だが……俺はそれを選んだんだ……」
 相葉の熱い瞳を見て小太郎は何も言えなかった。
 今までのどこか淋しそうな表情は消え、凛とした強い空気が相葉の周りに漂っている。
 少し近寄りがたくなったような、そしてどこか痛いように感じる。
 いない人を愛し続けるのは、どれ程苦しい事なんだろう……
 それ程までに愛する人がいるのか……
『俺はそんな風に誰かを愛せるのだろうか……』
「咲いたな……」
「え………」
「梅の華だ……いい香りだ……」
「本当だ………」
 何処からか梅の香りが運ばれてきる。二人はしばらく春の香りに身を浸らせた。
 小太郎は相葉の傍らに立ちながら、決して届かぬ距離を感じる。淋しくもあるが、同時
にさばさばとした爽やかな気持ちもあった。
 きっと、これでいいのだと思う。
 相葉は目を閉じ、福田の姿を思い浮かべた。
 いつの間にか忘れていた水月の広さを感じた……
 そして思い出した事がある。
 彼は血にまみれた自分を愛してくれたのだと……
 この先、なにがあっても、彼以外の人を愛せないだろう……
 自分の気持ちを閉じて生きていく生き方を、何より恐れていたではないか。
 ならば、傷から目を逸らしてはならない。
『ああ……そこにいる………』
 福田が感じていた人間以外の気を感じて相葉は微笑んだ。
 この先、自分は彼の元に行く日が来るだろう。その時、誇れる自分でいたい……
 あなたに恥じぬように………
 昨日の雪は跡形もなく消え失せ、春がその地に降りようとしている。
 暖かな春の風が二人を包み込んでいた。

       終

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