主要登場人物

相葉影嗣(あいば かげつぐ) …二十一歳、刈谷道場の門弟、相葉家の次男部屋住み
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十六歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …三十三歳、刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …三十四歳刈谷道場の本来の持ち主
刈谷勝之進(かりや かつのしん) …(故人)新左ェ門の父
刈谷九郎兵衛(かりや くろべえ) …(故人)新左ェ門の祖父で福田の師
相葉宣高(あいば のぶたか)…二十九歳、相葉影嗣の兄で相葉家の跡取り
堀田 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
橋本 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
曾根崎 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
平川彦蔵 …謎の剣客
牧村親成(まきむら ちかなり) …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村加代 …牧村の妹
静 …相葉宣高の妻
幸太 …十六歳 刺客を生業とする一団の殺し屋

虎落笛(もがりぶえ)臥待月の章 2

 城下町や村では五人の男の死体の噂がとびかっていた。
 奉行所の調べで、お尋ね者の殺し屋の一派だという事が分かり、仲間割れの末、殺しあったのだろうと推察された。中には寺に僧として寝食をしていた聖行もおり、人々は驚いた。遺体は無縁仏として寺に葬られた。もちろんそやつらは幸太と相葉の殺したあの太郎、次郎らである。
 そんな大きな事件のせいで、相葉家の嫡男が亡くなった事や、刈谷道場の跡取りの帰省などはあまり話題にのぼらなかった。福田が療養所に運ばれたのも、食中毒を起こしたという話にすり変わっていたのである。
 あの日、相葉は屋敷に戻る前に馬を駆り、福田の家にあった六郎の死体を運び出した。そして、村はずれの太郎らの死体の側に投げ捨て、代わりに幸太の遺体を引き上げたのであった。幸太自身はそんな事を望んでいないかもしれない。きっと彼は満足に、思い残す事なく死んでいったのだろう。だが相葉は大切な事を自分に教えてくれた彼を、そのまましたくはなかったのである。
 幸太の遺体を相葉は所縁の寺に運んだ。住職らに口止めをしてあるので、奉行所に知れる事はあるまい。土に埋め、簡単な葬式は済ませてくれたが、いずれは自分もちゃんと参りにいきたいと相葉は思っていた。
 一方で、相葉は兄の葬儀の準備中も通夜の時も相葉はこれが現実でないような違和感を感じていた。遠い昔の映像をみているような、夢の中を彷徨っているような奇妙な感覚である。
 親戚達が口々に「家を継ぐのはお前になるな」と言っても、自分でない者に対して言っているようで、相葉は無言でそれを聞いていた。
『芝居の台詞を聞いているようだ』と、思う。
 自分の心にも違和感を感じるが、考えないようにした。
 考えれば最後、後ろに迫っている闇に取り込まれそうになるからである。相葉は無意識のうちに必死になって抵抗しているのだった。自分が闇に染まるのを………

 葬式がすみ少し落ち着きだした頃、相葉はこっそり屋敷を抜け出し療養所に出かけた。
 福田の容態は心配なのはもちろんだが、これ以上彼に会わねば正気を失う気がしたのである。
 彼に会って安らぎを得たかった。自分という存在を、気持ちを確信したかった。このままでは自分を見失いそうなのだ。
 療養所に着き、福田のいる部屋に案内される。体力は回復に向いつつあるが、まだ歩き回る程ではないそうである。食欲がないようで、おもゆも少ししか口にしないらしい。
「もう少し頑張って食事をするように勧めて下さいね」
 と、若い介護人は言いながら去っていった。
 相葉が部屋に入ると、布団で寝ている福田の後姿が目に入る。起きていたようで、相葉が襖を開けるとすぐにこちらを向いた。
「影嗣……」
 福田のやわらかい声を聞いて、相葉は身体の力が一気に抜けるのを感じた。目頭が熱くなる。
「…体調の方はどうですか……?」
 相葉は福田の横に正座しながら尋ねた。
「ああ…大分良くなった……」
 そう言うが、まだ顔色が青白い。しかし、幸太に背負われた時に比べるとかなり戻ってきている。
 あの時は本当に死相がでている状態だったのだから。
「…良かった……」
 相葉の頬に涙が伝う。
「……本当に…無事で……」
 福田が生きて、ここにいる事が嬉しかった。ただ純粋に嬉しくて、涙が溢れる。他には何もいらない程の幸福感だった。
「……影嗣……」
 福田が微笑みをうかべながら相葉の頬に手をのばす。
「……ありがとう……」
「福田さん……」
 彼の微笑みがあまりに透明で美しくて、相葉は胸がしめつけられる。
 どうして、いつもあなたはそんなに美しいのだろう?
 なぜ汚れないのだろう?
 人ではないもののように……
 そして、そんな彼を愛している……
 今までと、変わらず、いや、それ以上に……
「外が見たい…障子を開けてくれるか……?」
「まだ風が冷たいのでは?」
「最近かなり暖かくなったから大丈夫だろう」
 そういえば……身を切るような冷たさは感じない。知らない間に春が近付いているようである。そんな季節の変化など、気にする余裕は相葉になかった。
 相葉は療養所の中庭に面する障子を開けた。福田が身を起こそうとしたので手伝ってやる。
 福田の言ったとおり空気はまだ冷たいが、柔らかな日ざしが低木や木々に降り注いでいる。
「もうすぐ梅の華が咲くな……」
「…そうですね……」
 美しい木漏れ日に照らされた庭を見て、相葉は冷えていた自分の心に暖かさが戻ってくるのを感じていた。
 今まで自分は何を考えて、何をしていたのだろう……?と、相葉は不思議に思った。
 自分があの相葉家の屋敷でどういう風に過ごしていたのか思い出せない。記憶が曖昧である。
 現実という実感がなかったのかもしれない。兄が死に、自分が家督を継ぐという事実から逃げたかったのかもしれない。こうして福田に会って初めて現実なんだと理解する。福田が生きている事に感謝したからだ。彼が生きて、微笑んでいてくれるという事実が嬉しかったから、初めて今の現状が現実なのだと気付く。
 俺は…卑怯だ……
 受け止めたくない事実から逃げようとしている……
「幸太には…会ったか……?」
「いいえ……」
「そうか……」
 と、福田は寂しそうにつぶやいた。おそらく、道場で相葉が木刀を向けてから、いなくなったと思っているのだろう。
 そのほうがいい……
 世の中には知らなくていい事がある。
 何もかも知っている人が幸せになれるとは限らないのだから。
 福田はそれ以上何も言わなかった。透明感を増した彼は、今にも消えてしまいそうで、相葉は恐くなる。思わず彼の手を握りしめてしまう。
「…どうした……?」
「……いえ……」
「…影嗣…頼みがあるのだが…いいか……?」
「?なんです」
「昨日、鶴羽神社の神主が見舞いに来てくれたのだ。旅から帰ったらしい。それで、雪華の剣を貸して欲しいと頼まれた。お前なら置き場所を知っているだろう?すまないが持っていってくれないか」
「雪華の剣を?どうするつもりですか?」
「沼の近くの木に藁人形が打ち付けてあるのが発見されたのだ。それを取り払うにあたって、近くにおわす神がお怒りにならぬ為に使うそうだ」
「そんな事が可能ですか?」
 そういえば昔、荒神が暴れたのを静めた事があると聞いたが、雪華の剣を使ったのか……
「ああ……」
「しかし、あの太刀は……」
 福田でなければ扱えないのではないのか?
「……大丈夫だ…形だけだから……気休めだろうが、そうしたいのなら神主殿の好きにさせてやればいい……」
 あの場所にもう荒神はいないから、本当は不要だがそれを神主は気付いていない。わざわざ言う必要もないだろうし、神主がそれで安心できるのなら持っていけばいい。
「そうですか……分かりました……」
「ありがとう……」
「…福田さん……」
「…ん………?」
 刈谷新左ェ門が帰ってきたと知っているのだろうか?
「伊井先生は来られましたか……?」
「……ああ……」
 伊井が来たのなら当然話しただろうから、知っている筈だ。
「…彼には……会いましたか……?」
「……いや……彼は一度も来ていない……」
「そうですか……」
 刈谷新左ェ門はまた福田に勝負を挑む気なのだろうか?その為に帰ってきたのか?それとも福田と和解する気か……
 相葉も忙しくて道場には行っていないので、彼がどういう人物なのかを知らない。
『変わっているだろうか?俺が初めて水月を見たあの夜から』
 福田の水月を見た夜、刈谷新左ェ門は惨めな敗北者だった。だが、決して彼の腕が劣っていたのではなく、人が人でないものに適わなかっただけである。
 あれから八年……
 彼は人を越えた存在になっているのだろうか……?
『一度会ってみたい……』
 会って彼の本心を知りたい。
「福田さん……」
「なんだ?」
「…もし…彼…刈谷新左ェ門が……」
 勝負を挑んできたら……
 どうするつもりか、と相葉は声に出して聞けなかった。
「……新左ェ門とは、話し合わなければならないだろうな……」
 福田が先に答えをくれた。
「……また…決闘を……?」
「……わからない……だが、私は私として生きてきた過去といずれ決着をつけねばならないのだ……」
「…………」
「……過去からは、逃げられん……」
「……俺もです………」
「……影嗣……」
 そうだ、俺も相葉影嗣として生きてきた過去からは逃れられないのだ。相葉家の次男としての権利を有しながら生きてきた過去がある以上、その者がもつ義務がある。
『牧村、お前の気持ちが、苦しみが初めて本当に理解できた……』
 牧村家の嫡男として、立派に家を継ぎ、家を存続させていく義務を完璧に果たしていた彼。自分の感情を押し殺して……
 そして、幸太は昔の仲間と決着をつけた……
 兄の宣高を相葉は嫌いだったが、とりあえず義務も果たしていたのだから、自分より立派かもしれない、と相葉はふと思った。
『最低なのは俺だな……』
「…俺は……正しいと思っていました……」
「……ん……?」
「自分の思いのままに生きる事は正しいと……しかし…そうではなかった……」
「……影嗣……」
「……俺は……間違っている……」
「…………」
 しかし、正しい道も分からない……
 何が正しいのかも分からない……
 どうすればいいのだろう……?
「……私はもうすぐ家に帰ろうかと思っている……」
 考えあぐねていた相葉に福田が話しかける。
「……え?もうですか?まだ体力も回復していないようですし、もう少しいた方がいいのでは?」
「休息なら家でもできるさ。私などより重症の患者が大勢いるのだから、ここはその人たちの場所にするべきだ」
「…………」
 人の事より、もっと自分の事を考えればいいのに、と相葉は少し腹立たしかった。だが、そんな彼を好きになったのだ、自分は……
 たった一つ、確信をもって言える事……
 相葉はそっと福田の身体を優しく抱き締めた。
「……影嗣……?」
「…少しだけ……このままで……」
 福田はやはり何も聞かず、そのまま相葉の背中をポンと叩いてくれる。相葉の心に、また暖かさが満ちてくる……
 俺の願いは大切な人が笑顔で生きていてくれる事……
 あなたが自分のものにならなくていい……
 ただ、存在してくれるだけでいい……
 もう、あなたを殺して自分のものにしたいなどと思わない。
 あなたを失う事がどんなに恐ろしいか分かったから……
「俺はあなたに何もしていませんね……」
 いつも、いつも求めるばかりで……
「奪うばかりで……」
「……影嗣…お前は私にいろいろなものをくれたぞ……」
「……え……」
 相葉は福田の言葉に驚いて身体を離した。自分が彼に何か与えた覚えがないからである。
『俺が?何をあげたと……?』
「……私が欲していたもの、持っていなかったものをくれた……」
「…それは……」
「福田さん、薬の時間ですよ」
 介護人の女性が盆をもって部屋に入ってくる。相葉はまだ長時間話さない方がいいかもしれない、と思いたち、帰る事にした。
「…では、私はこれで失礼します。お身体大事にして下さい。食事もちゃんとして下さいよ」
「……ああ……来てくれてありがとう……」
「……本当に…大事にして下さい……」
「……分かった……」
 福田の優しい、今にも消えてしまいそうな微笑みに後ろ髪引かれつつ、相葉は療養所を後にした。

     *

 福田に言われたとおり、相葉は福田の家に行き、押し入れの隠し扉に隠してある雪華の剣を持ち出した。その足で鶴羽神社を訪れる。
 神主は丁寧にお礼を述べ、すぐに儀式を行なうと言い出した。日はすでに暮れかけているというのに。
「今すぐですか?」
「ええ、呪を受けている方が気になりますからね。早くしてしまいたいのです」
「……ご同行しても構いませんか?」
「ええ、どうぞ」
 相葉は神主について亀淵ガ沼に向った。儀式が終われば、またそのまま雪華の剣を引き取らせてもらおうと思った。あまり長く他人の手に雪華の剣を渡しておきたくなかったのである。
「福田さんの御様子は如何ですか?食中毒をおこしたと聞きましたが」
「……容態はかなり良くなりました。もうすぐ家に戻るそうです……」
「そうですか、良かった……」
 亀淵ガ沼に着いたが、相葉は今までと違う印象を受けて奇妙な感触がした。
 この場所は透明な威圧感のある畏敬の念を感じさせる場所だったのに、今は何か無気味な雰囲気が漂っているだけである。
『藁人形のせいだろうか?』
「沼の中央にある島に祠がありますでしょう。その前に雪華の剣を置いてきてくれますか?」
 神主が相葉にすまなさそうに頼んだ。
「ええ、いいですよ」
 相葉としては、他人の手に雪華の剣が渡らないのでありがたかった。
「舟がほとりに繋いでありますから、それをお使い下さい」
 小さな沼だが、足で歩く訳にはいかないようである。
「あ、はい」
「くれぐれも粗相のないように……」
「分っています」
 相葉は言われたとおり舟を漕いで島に向った。祠の前に雪華の剣を置いて手を合わせる。その時、祠の後ろにに奇妙な形をした石があるのに気がついた。膝をつき、祈りを捧げる時の格好に似ている。祠の影になって今まで見えなかったのだ。
 陸に帰った相葉は早速神主に尋ねてみた。
「あの変な形の石はなんです?」
「ああ、あれは天女の石ですよ?」
「え?」
「天女が海で水浴びをしていた時、蛇の化身の男がそのあまりの美しさに捕らえようとしたのです。驚いた天女が逃げ出したいう伝説があるのです」
「天女が、ですか?」
 天女に関する伝承がこの地にあるとは思わなかった。
「ええ、水浴びをしていたので羽衣は脱いでいて空を飛べなかった。天女は逃げ続けて、とうとうこの場所で力つきてしまったのです」
「男に捕まりそうになった天女は天に向って嘆願しました『父上様、助けて下さい。どうか私を石に変えて下さい』そして天女は石になってしまいました。それがあの石です。蛇の男は大層後悔し、せめて彼女が守られるようにとこの地を清め、神を守神として御降臨させました。以来、ここには荒神のおわす場所となったのです」
「なる程。もともと天女を守る神だから、荒ぶるの神なのですね」
「そうです。だから人の対して容赦がないのです」
「そんな話は知りませんでした」
「ええ…いつしか人々から忘れさられてきました……人が必要なのは人を愛する神だけですから……」
 その言葉に、相葉は思わず神主の顔を見る。
「人は忘却という方法で神さえも殺す……だから、ここで藁人形など打つなどという罰あたりな事ができるのでしょう…あなた様は雪華の剣が荒神を静めた事をご存知ですか?」
「昔、荒神が怒り、静めた事があるとは聞いていましたが、雪華の剣を使ったとは、知りませんでした。福田さんが静めたのですか?」
「そうです……水月の剣でね……私は初めて神が降りるのを見ました……」
「…………」
「……彼…福田さんは神に愛された存在なのですね……そして彼もすべてのものを愛している…人間も、動物も、虫でさえも…彼には差別というものがない……」
「…………」
「……しかし…人はあらゆるものを征服しようとする……」
「…………」
「虫も人も同じように愛する神はいらぬのです……」
 相葉はもう一度祠の方を振り向いた。
 蛇の男は石になった天女を見てなんと思ったのだろう……?
 激しく後悔して、己に愚かさに気がついたのか?
 大切なものは失ってからでないと分からない……
『俺も福田さんの命を奪ってから後悔するところだった……』
 幸太がいなければ、いつかそうなったかもしれない……
 相葉は突然はっとした。牧村の言ったあの言葉の意味が分ったからである。
『俺のようになるな』
 と、言った彼の言葉の意味を……
「では、始めます」
 神主が藁人形をはずす準備をしだした。
 丸い鏡を首にぶら下げ、呪文を唱える。手に持っていた鉄棒で刺さっている釘を抜き始めた。一本一本丁寧に気合いの言葉を発しつつ抜いていく。神主も相葉も知らなかったが、藁人形に呪いの力はもうほとんどなかった。
 最後の一本を抜く時、神主のぶら下げていた鏡に人の姿が浮かび上がる。
『何!?』
 その鏡に現われた人物を見た相葉は驚愕した。なぜ?と自分の目を疑う。
 釘を抜き終わった途端鏡に亀裂が走る。
「おっ?!」
「神主殿……」
 相葉が走りよる。
「終わりました。お時間をとらせてしまい申し訳ありませんでした」
「…いえ…それより大丈夫ですか?鏡が……」
「ああ…呪が呪った者に返ったのでしょう。その余韻をくらったのですよ」
「……一瞬人の顔が浮かびあがりましたが……」
「そうですか、きっとその者が呪った者なのでしょう」
「…………」
 まさか、あの人が……なぜ?誰を呪ったというのだ……?!
 相葉の頭に兄、宣高の謎の急死の事が浮かぶ。
『兄を…呪ったのか……』
 相葉は雪華の剣を島から引き上げ、神主と別れた。すぐに福田の家に戻すと、相葉の屋敷に急ぎ足で帰る。辺りはとっくに夜のとばりが落ちている。暗い夜道を相葉は疑惑をかかえながら走った。
 その疑惑を、なぜ、誰を呪ったのかはらす為に……

 相葉家の屋敷の門をくぐると誰か屋敷から出てくるところだった。提灯の明かりに照らされた人物は相葉家ご用人の医師であった。
「先生」
 相葉は思わず声をかけた。
「おう、これはご子息様」
 医師は深く頭を下げる。
「こんなお時間に診察とは、誰か何かありましたか?」
「ええ、静様がお手にお怪我を……」
 相葉の背中にぞくりとした冷たさが走りぬける。
「何の怪我です?」
「なにかの切り傷でしたが、いきなり裂けたと言うのです。鎌イタチかもしれません」
「……そうですか……」
「あ、そうそう、おめでとうございます」
「は?」
 医師と別れ、屋敷に入った相葉は早速静の部屋に向った。
「姉上、失礼いたします」
 相葉が返事もまたずに障子を開けると、手に包帯を巻いた静の姿が飛び込んでくる。傍らには侍女が付き添っていた。
「影嗣様、如何なされました?」
 静はいつものように明るい笑顔を浮かべていた。
「……その怪我は……?」
「ああ、夕餉の後かたづけをしておりましたら、いきなり切れたのです。きっとどこかにぶつけたのでしょう」
 夕餉の後かたづけの時間は、神主が藁人形の釘を抜いていた時間と一致する。
「たいした傷ではないので大丈夫ですよ」
 相葉が立ち尽くしているのを見て、心配していると思ったらしい。
「……姉上、お話があるのです…お人払いをしていただけますか?」
「え?」
「……お願いします……」
「分かりました」
 言われたとおり、静は側にいた侍女に合図すると、その侍女は隣の間にいた侍女達と誘って奥へひっこんでくれた。
「なんですか?影嗣様?」
 相葉は静の前に腰を降ろし、もう一度彼女を顔を見つめた。
 綺麗な若い女の顔である。
 なんと言えばいいのだろう?
 駆け引きの会話などできない相葉は単刀直入に聞く事にした。自分の間違いであって欲しいと思いながら……
「姉上、あなたは兄を呪いましたか?」
 相葉の言葉に静の表情が一瞬にして凍り付く。それを見た相葉は自分の言った事は真実なのだと確信した。
 間違いない。静が相葉の兄であり、自分の夫である宣高を呪い殺したのだ。



           戻る      進む