主要登場人物

相葉影嗣(あいば かげつぐ) …二十一歳、刈谷道場の門弟、相葉家の次男部屋住み
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十六歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …三十三歳、刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …三十四歳刈谷道場の本来の持ち主
刈谷勝之進(かりや かつのしん) …(故人)新左ェ門の父
刈谷九郎兵衛(かりや くろべえ) …(故人)新左ェ門の祖父で福田の師
相葉宣高(あいば のぶたか)…二十九歳、相葉影嗣の兄で相葉家の跡取り
堀田 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
橋本 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
曾根崎 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
平川彦蔵 …謎の剣客
牧村親成(まきむら ちかなり) …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村加代 …牧村の妹
静 …相葉宣高の妻
幸太 …(故人)十六歳 刺客を生業とする一団の殺し屋

虎落笛(もがりぶえ)臥待月の章 3

「何故です……」
「…………」
「答えて下さい姉上」
 静の顔色は真っ青で、強張った表情をしたまま石のように動かなった。相葉から目を逸らし、身体を小刻みに震わせている。
「……政略結婚だからですか…それ程兄が憎かったのですか……?」
 静の肩がぴくりと動く。
「……それ程、郷に帰りたかったのですか……?」
「…に……ったのでは……せん……」
「なんです?」
「……郷に帰りたかったのでは……ありません……」
「……しかし、兄が憎かったのは……」
 相葉は静の故郷に誰か好いた男でもいるのかと思ったのである。
「……むしろ、私はここから離れたくありません……」
「え?」
 相葉は静の言っている意味がよく分からなかった。
「……お分かりになりませんか……?」
 静は身体の向きを変え、相葉の目を見つめた。彼女の瞳は激しく燃えていて、相葉は一瞬背中が寒くなる。
「何をです……」
「……私が想っているのは影嗣様、あなたなのです……」
「…………」
 静の言葉に相葉は絶句した。
『なんだと……姉上が…俺を……?』
 また意味が分からなくなる。考えるのを無意識に拒否しているようだった。
「一年前、京都で助けられた時から、私はあなたを想ってきました。でも、あなたはしょせん通りすがりの名も知らぬお人…忘れようとしました…あきらめて、この相葉家に嫁いできたのです。なのに、そこにあなたがいたのです……」
「…………」
「でも…でも、あなたはよりにもよって夫となる方の弟でした……なぜです……こんなに近くに、想い続けた人がいるのに、打ち明ける事も出来ず、好きでもない殿方と夜を共にしなければならないなんて……!どうしてです!」
 静の声は震えている。胸の奥底に秘めていた苦しい胸のうちを吐きだし始めた。
「……私は自分の運命を呪いました……そんな時、曽根崎家の話を聞いて……」
「……曽根崎家……?」
「夫に先立たれた妻が、その家の親戚の男子と祝言をあげたという話です……」
 相葉の鼓動がどくんと跳ね上がる。
『ま…まさ…か……』
「……まさか……姉上……」
「そうです……私は……あなたと……あなたの妻になりたかったのです!」
 静の瞳から涙が溢れ、悲鳴という言葉が口から吐き出されていく。彼女は畳に顔を伏せた。
「宣高様さえ亡くなれば、私は影嗣様と婚姻できる!そう思ったのです!自分でも止められなかった!どうしてもあなたが欲しかったのです!」
「やめ……」
 相葉はとてつもなく恐ろしい話を聞いている気がした。
 自分と結婚したいが為に目の前にいるこの女性は人を殺したのだ。その憎しみで、その想いで……!
「まさか…本当に無くなるとは……」
 話を聞いていたくなかった相葉はこの場から去ろうと腰をあげたが、静が縋りついてきた。
「あなたが誰を好きでも構いません!」
「え………」
「影嗣様は誰か好きな方がいるのでしょう…でも、その女子とは祝言があげられぬ間柄なのでしょう……?」
「…………」
「…私なら…影嗣様の妻になっても、その女子との関係を許してさしあげられます……」
「…な…に……」
「私が妻になれば御両親様も家臣の皆様方も安心なさいます……皆には隠しておいてさしあげますから、影嗣様はその女子とこっそり会えばいいではありませんか……」
 相葉の心がひやりと冷える。喉がカラカラに乾いていくのを感じる。何か得体のしれないものと対峙しているような感覚だ。静の言葉を聞きたくないのに、頭の中に食い込んでくる。
「……影嗣様が誰を好きでも構わないのです…私はあなたの妻になれればそれで……」
 静の涙を流す見開かれた目は狂気をはらんでいる。恋に狂った女の目だ。
「私の望みはそれだけです…あなたに初めて会ったあの時から……!」
「……やめろ……」
「八方丸く収まりますわ!誰もが満足されるでしょう!影嗣様は時期当主となられて……」
「やめろ!」
 相葉は静の身体を突き飛ばし、部屋から走り去った。背後で彼女の泣き声と侍女達のざわめいている気配がした。
 相葉は自室に駆け込むと座り込んだ。
 走ったわけでもないのに、相葉は疲労しきっていた。額には汗が滲み、息も荒い。身体が鎖でもつけているかのように重かった。
 静の言葉を思い出すと悪寒がはしり、吐き気がする。
 あまりの衝撃で頭が混乱していた。気持ちをなんとか落ちかせようと、相葉は何度か深呼吸をした。
 しばらくすると、なんとか気持ちが落ち着いてきた。
 冷静になって考えてみると、藁人形はただの偶然かもしれない。
 ただ、偶然兄が亡くなった時期と重なっただけで、何の関係もないかもしれない。
 しかし、例えそうだとしても、静が本気で兄の死を望んだのは確かなのだ。自分と結ばれたいが為に……
 相葉は彼女の言葉が恐かった。なぜなら、その言葉に従いそうになる自分がいたからである。静の言う通りにすれば、万事上手くいくだろう。自分が静と祝言をあげ相葉家を継げば、皆安心する。静は黙認すると承知しているのだから、気付かれなければずっと福田の側にいられる。彼を責める者はいない。
 それが、彼を守る最良の方法なのか?
「…まるで囲い者のように扱ってか……?」
 思わず言葉がもれる。
 愛している人を、どこかの遊女扱いしろと……?
 そんな事は間違っている。分かっている筈なのに、何故こんなにも心が乱れるのだ?
 自分の中にある黒いものが、頭をもたげ始めていた。あの、闇が背後で蠢いているのを感じる。これは、外部からではなく、自分の内から滲み出ている闇だったと相葉は気付いた。
 自分の中に巣くう醜い心だ。自分の利益の為、願いの為、保身の為に他者を犠牲にする黒い感情である。
「俺のようになるな」
 と言った牧村の言葉の意味。
 それは愛する人を守りきれなかった自分のようになるな、という意味だったのだ。
 もし、加代の婚約者が立派な男で加代を幸せにしていたなら、牧村は一生自分の想いを口にしなかったろう。加代の幸せな姿を見守り続けた筈である。自分の気持ちがむくわれないと分かっていても、堪えていっただろう。
 彼に堪えられなかったのは、愛する人を守りきれなかった事だ。結ばれようと、結ばれまいと、関係なかったのだ……
 愛する人が幸せでいてくれる……
 自分はそれを見守り続ける……それだけで良かったに違い無い……
「……俺は……どうすれば……いい……」
 相葉は自分の答えを、必死に心に問うていた。

          *

 後日、相葉は父に呼び出された。
 対面する大広間には父と相葉以外誰もおらず、二人だけで差し向かう事となった。二人だけで話すなど今までになかった事である。それだけ重要な話なのだと察した。
「……影嗣、次の世継ぎはお前になった。来年、藩主が江戸から帰られた時、謁見を賜るつもりであるからそのつもりで」
「……………」
「それと、もう一つ。静と夫婦になれ」
「……………」
「今すぐとは言わん。静殿は懐妊しているから、産後の様子をみてから決めてもいいだろう」
「……………」
「産まれた子はお前の養子にする。もし男子であれば世継ぎとする。よいな」
「……………」
「今言った事を承知するなら、お前が外で何をしようが、誰と会おうが構わん。もちろん相葉家に害を成さない範疇だが」
「……………」
 相葉の父は一方的に言葉を発している。それは相談でもなければ報告でもなく、完全な命令であった。ほんの少し前の相葉であれば怒りの為に退席したが、今の相葉は何も言わず黙って聞いた。
 静が兄の子を宿しているのを相葉は知っていた。以前、門のところで相葉家の主治医に会った時、おめでとうと言われ、話を聞いたのである。
 可愛がっていた嫡男の息子だ。両親はなんとしても継承者にしたいに違い無い。そこで、自分と結婚させる事を思い付いたのだ。
『静が何か言ったかもしれないな……』
 ふと、そんな考えが思い浮かぶ。
 彼女のした事は納得できない。だが、誰かを狂おしい程想う気持ちは分かる。だから、相葉は静を憎む気持ちは湧いてこなかった。
「次に会う時までに髪を月代に結え。次期当主が総髪ではしめしがつかん。分かったな、もう下がってよい」
「……ひとつお聞きしたい事があります」
「なんだ……?」
 相葉の父は不思議そうな顔をした。相葉が自分から口を聞く等滅多にない事である。
「……母上を愛していますか……?」
「……………」
 狼狽した表情を垣間見せたが、すぐにいつもの冷たい顔に戻った。
「…あれは…相葉家の妻女として立派に務めを果たしている……」
「答えになっておりません……」
「……下がってよい……」
「質問にお答え下さい……」
「下がれと申しておる……!」
「……………」
 相葉は無言のまま頭を下げ、言われた通り部屋を出た。いつもの父の傍若無人な態度だが、なぜか腹はたたなかった。それよりも、相葉は父を哀れに感じたのである。
 今まで考えた事もなかったが、父も昔愛した人がいたかもしれない。だが、結局家の為に好きでもない女と夫婦になったかもしれない、と思ったからだ。そして、それは、母も同じだろう。自分の気持ちを犠牲にして、守ってきたものがあるかもしれない……
 何が大事かなんて、人によって違うものだ……
 守りたいものも…失いたくないものも……

 相葉が療養所に行くと、福田は退院したと言われ、その足で福田の家に赴く。歩いている間に日が落ちたが、相葉は提灯ももたずに歩き続けた。
「失礼します」
「影嗣、どうした、こんな時間に……?」
 戸を開けると、福田が土間で沸かした湯を桶に汲んでいた。すばやく駆け寄り、桶を持つ。
「もう退院して大丈夫なのですか?」
「ああ、療養所にいても寝ているだけだから……」
「湯を汲んでいたのですか?すぐに力仕事はしない方がいいでしょう」
「髪を洗おうと思ってな。身体は清拭してくれたのだが、頭までは無理だったので……」
「私がやります……」
「え?」
「ひとりでは洗いにくいでしょう」
「だが……」
「ここの土間でやりますので、着物は着たままでいいですから……」
「……ありがとう……」
 福田は板間の際に座って土間に頭を突き出した。相葉は大きな空の桶を下に置き、湯を杓で汲んで福田の髪を洗った。
「大丈夫ですか?体勢は苦しくないですか?」
「ああ、平気だ。とても気持ちがいいぞ」
「……良かった……」
 相葉は福田の髪を漉きながら、とても幸せだと思う。そして同時に張り裂けそうな痛みも感じる。
 ここ数日、相葉は考え続けてだした答えを福田に伝えようと思っていた。
『顔が見えなくて良かった……』
 彼の顔を見ていては、決心がにぶってしまうだろうから……
 洗い終わると布で福田の頭をごしごしと擦った。そしてそのまま、福田の顔が伏せられた状態のまま相葉は口を開いた。
「……兄が亡くなりました……」
「……ああ……ここに戻ってから聞いたよ。大変だったな……」
「……跡継ぎになれと言われました……」
「……………」
「……俺は……」
 多分、どちらも正しくて……
「……出奔します……」
 どちらも間違っている。
「………………」
 福田は何も言わず、顔もあげなかった。
「……長い間考えました……しかし、俺はどうしても家を継ぐ事ができません。家の為に妻を娶る事も……子供をつくる事も……」
「………………」
「……相葉影嗣としての義務を果たせないのなら、権利も放棄すべきでしょう……俺はそうします……」
 自分勝手だと承知しているが、考えに考えぬいてだした答えだった。後悔するかもしれないが、迷いはない。結論はもっと早く決まっていたのだ。だが、未練があった為に決心するまで時間がかかってしまった。未練とは、もちろん福田に会えなくなるという事である。
「……あなたに会えなくなるくらいなら……いっそ家を継ごうかとも思いました。でも、それをすれば、俺は俺でなくなってしまう……」
「………………」
「福田さんは、平川と対決する時言いましたね。「自分を見失ったまま生きていくなど無理だ」と……俺もそうです……己を見失ってしまうのです……」
 家督を継ぎ、静を妻にすれば誰もが納得する。誰も傷付かないに越した事はない。それが一番最良な答えなのかもしれない。
 分かっている、だが、駄目なのだ。その道を選べば、いつか、自分を見失い、望みも、願いも変わってしまう。愛する人を一度侮辱してしまえば、その気持ちさえも変質していくだろう……
「……あなたを想う俺でいたい……」
「………………」
 例えもう会えなくても、福田がどこかで微笑んで存在してくれるのなら、それでいい……それだけで自分は生きていける。
 彼を想い、自分の中の一番大切なものを失わずに生きていける。
 どこでのたれ死のうとも、きっと満足に死んでいけるだろう。
「……それが……俺の…願いです……」
 福田はゆっくりと顔をあげた。濡れた髪に布がかかっているが、それを取りもせずに、真直ぐに相葉を見つめる。
「……影嗣……私も、連れていってくれないか……」
「……え………」
 福田の言葉を相葉は理解する事ができなかった。
 今、彼はなんと言った……?
 真直ぐな瞳で、穏やかな表情で何を……?
「私もいっしょに連れていってくれ……」
「……福田さ…ん……何を……?言っている意味……分かってますか……?行く宛などないのですよ?」
 自分と共に行くというのは、福田も出奔する事を意味している。福田はすでに一度故郷を捨てているのに、その後ここで得たすべてをまた失うのだ。
「…分かっている……だが私はお前といっしょにいたい……」
「……そ…れは……何故……」
 師としての保護心からか?それとも……
「……影嗣……私もお前を想っているからだ……」
『……あ………』
「……私の願いを叶えてくれないか……?」
 福田はいつもの透明な微笑みを浮かべた。相葉はその微笑みに胸が痛くなる。辛いのではなく、泣きたいような気持ちなのに、何か暖かなものが広がっていく。
 相葉は震える手をのばして福田の頬に触れた。
 触れてもいいのだろうか?届くのだろうか?この手が、この想いが……
 ゆっくりと彼の身体を抱き締める。
 初めはそっと…そして次第に強くなっていく。
「……福田…さん……」
 彼を抱き締めて喪失感に怯えないのは初めてだった。
 福田が相葉の背中に腕を回す。
 腕の中に愛した人がいる。たったひとつだけ欲しいと願ったものがここにある。いくら手をのばしても届かなかった月を胸に抱いているような感覚だった。
 もう一度身体を少し離して顔を見つめる。
 確かに、福田がいる。愛する人がこの胸に……
 相葉は福田に口付けた。
「……ん……」
 ゆっくりと福田の身体を押し倒す。襟元を広げて項を吸った。
「……影嗣……」
「駄目……ですか……」
「……駄目だと言ったら止めるのか?」
「……優しくします……」
「……本当か?」
「……駄目ですか……?」
 福田は優しく微笑んで相葉を抱き寄せた。
「……やめなくていい……」
 相葉は体温が一気に上がるのを感じた。手を胸元に入れて帯を解こうとしたが、板間では福田の身体に悪いだろうと、寝所に行こうと思った。
「…影嗣……?」
 急に身体を起こした相葉を不思議そうに見る福田の身体を抱え上げる。
「こ、こら……」
 福田が恥ずかしいのだろう抗議の声をあげるが、抵抗はしなかった。彼の身体は随分軽くて、腰もひとまわり細くなっていると分かった。また泣きたいような愛しさがこみあげてくる……
 部屋に夜具が敷いてあったので、相葉はゆっくりとその夜具に福田を横たえた。土間からの差し込む光りが微かに彼の表情を映している。いつもより透明感が増した彼の微笑みが見える。
 口付けながら、相葉は着物を優しく脱げせていった。
 今まで彼に触れた時は余裕がなくて、いつも奪うように触れていたが今夜は違った。相葉はゆっくりと、確かめるように福田の身体に触れた。
「……う…あ……」
 福田も耐えているのではなく、相葉を受け入れてくれている。
 優しくしたい……この人を守りたい……俺を受け入れてくれたこの人を……
「……あ……影嗣……待……」
 そう思いながら、相葉は福田の身体に入っていった。そして、しばらく動かなかった。
「…影嗣……?」
「…なんだか…動くのが…もったいなくて……」
「…何…言ってる……」
 福田がコツンと相葉の頭を小突く。嬉しくて相葉はやっと静かに動きだした。ゆっくりと…何も見落としたくなかった。すべてを感じていたかった。
「…あ…う……」
 感じる……自分達が一つになっているのを……
 福田のすべてを感じる。奪うだけだったそれが自分に流れ込んでくる。そして自分が福田に与えているものがある。
 これがひとつになる事なのだと相葉は知った。
 月光を浴びている時を思い出す。
 暖かくないのに、それに似た何かが満ちてくる……
 愛する人は、羽衣見つけても天に帰らなかった。自分の元にとどまると言ってくれたのだ……
 相葉は今まで味わった事のないような歓喜に満たされていた。

         *

 相葉は久方ぶりに刈谷道場を訪れた。兄の葬儀で稽古を中断した事の謝罪という名目だが、本当は別れの挨拶のつもりだった。
 相葉が着いた時は丁度稽古が終わったところらしく、大勢の門弟らが出て来る。その中に橋本と堀田の姿もあった。
「相葉!」
 見つけた堀田がすぐに駆け寄ってくるが、橋本は少々気まずそうに目を逸らした。彼に会うのはあの河原で言い争いをした時以来である。
「久しぶりだな。今度は大変だったな」
「……ああ…心配させたな…堀田、お前は変わりないか?」
「俺は全然。いや〜突然の不幸だったな……大丈夫なのか?」
「大丈夫だ。かなり落ち着いた……」
「……そうか……跡継ぎになるんだろ?大変だろうけど頑張れよ。何かできる事があったら協力するから……」
「……ありがとう……」
 相葉は堀田に礼を言うと橋本に近付いた。
「……この度は……」
 橋本が慌てて社交辞令を述べようとすると、相葉が彼に向かって頭をさげた。
「相葉?」
「済まなかった……橋本……」
「え………?」
「お前は俺を心配してくれたのに、あんな態度しかとれなくて……済まなかった……」
「…相葉……やめてくれよ…なんだよ…顔あげてくれ……」
「許してくれるか?」
「ゆ、許すもなにも俺達友人じゃないか……そんな、謝られてもくすぐったいだけだぜ……」
「本当か?」
「ああ。だから早く顔あげてくれ」
 相葉は言われたとおり顔をあげた。その表情は清々しく、穏やかだった。
『……え…なんか……』
 橋本は何か思い出しかけたが、分からなかった。
「伊井先生は道場にいるのか?」
「……いや、今調度留守なんだ。多分もうすぐ戻ってくるらしいが」
「じゃあ、今日は先生なしで稽古を?」
「いや、刈谷殿が見て下さった……お前も聞いてるだろ?武者修行に出ていたあの刈谷新左ェ門が帰ってきたんだよ」
「ああ……聞いてる……どんな人だ……」
「それがすげーぜ。剣の腕は半端じゃないね。おそらく伊井先生もかなわないだろうよ」
 堀田が横から口をはさんでくる。
「そうなのか?」
「ああ、まだ本気の力を見ていないが、俺達相手に半分の実力も出していないと分かる。剣鬼だな……だが……」
 橋本は表情を曇らせる。
「だが………?」
「……教えを請いたいとは思わない…冷たすぎる剣だ……」
「……………」
「武者修行で相当な目にあったのかな?」
 堀田達は新左ェ門が何故修行に出たのか知らない。知っているのは伊井と、福田と相葉だけである。
 彼は水月の剣に勝てる程の実力を身につけて帰ってきたのだろうか……?
 どちらにせよ、福田はここを離れるつもりだから、関係ないのだが……
『話をせねばならないと福田さんは言っていたが……』
 申し込んできたらまた決闘をするのだろうか?
「会うのか?」
「……そうだな…とにかく伊井先生には会いたいから、中で待たせてもらうよ」
「そうか……じゃあ俺達は帰るから、またな……」
「……ああ………」
 去っていく二人に相葉は優しく微笑んだ。
「……またな……か……」
 二人とはもう二度と会う事はあるまい。これが別れになると知っているのは自分だけなのだと、相葉は少し罪悪感を感じる。
 出奔する事を家中の者に知られる訳にはいかない為、相葉は誰にも言わず、悟られないようにしていた。疑っているのでなく、自分が出奔した後、誰かが責められるのを防ぐ為である。
「橋本、お前、相葉と何かあったのか?」
 しばらく歩いてから堀田がぼつりと呟いた。
「……いや…たいした事じゃないんだ……けど……なんか…相葉の奴、印象変わったな……」
「謝ったからか?でも、あいつ真面目すぎるとこがあるから、悪いと思った時は謝る奴だぜ」
「…そうなんだか……妙にさっぱりした顔して……家を継ぐなんて、あいつの性格からいって嫌だろうと予想してたんだが……」
「けどしょうがないだろ。あいつ以外継ぐ人物がいないんだからさ。覚悟決めたんじゃないか」
「……ああ……でも…なんか…印象が……」
 先程の穏やかな相葉は、前の尖った空気を身に纏っていた彼とはあまりにもかけ離れている。比べ物にならないくらい穏やかで透明な感触だった。
『まるで…福田さんみたいな……』
 そう思った橋本は咄嗟に立ち止まる。
「どうした橋本?」
「……いや…なんでもない……」
 橋本の胸に少し不安が宿ったが、そのまま家に向って歩きだした。
 二人にとって、それが相葉を見た最後であった。
 相葉は刈谷道場の門をくぐり、周りを見渡した。ずっと通い続けてきたいつもと変わり無い学び舎を……
 福田と去る事を決めてから、相葉はこの生まれ故郷のなにもかもが愛しかった。
 あの生家も、幼い頃つけた傷や、遊び回った庭、冒険した倉、屋根裏部屋などそのすべてが懐かしい。愛情を感じた事のない両親や、静にも優しく接する事ができた。
 そして、この道場も……
 門弟達と剣の腕を磨き、遊び、語りあった日々がどれだけ自分にとって大切なものだったか……
 初めてこの門の前に立った時を思い出す。
『福田さんが声をかけてくれたのだったな……』
 あの目を奪われる剣の持ち主がいきなり現れたので、とても動揺した。驚いて胸が高鳴っていた……
『あの時からすでに彼への想いは始まっていたのだな……』
 数々の思い出を心に浮かべながら、相葉は道場の中へと足を踏み入れた。
「失礼します……」
 声をかけるが誰も出て来ない。
『女中もいないのか?』
「貴様は誰だ?」
 後ろから突然声をかけられる。気配がなかったので少し驚いて振り向くと、そこに鋭い目をした男が一人立っていた。
 その圧倒的な存在感から一目で刈谷新左ェ門だと分かる。すさまじい緊迫感から剣の腕もかなりのものだと感じられた。だが………
『橋本の言ったとおりだな……』
 氷のごとく冷たい張り詰めた気である。
「初めまして、私は相葉影嗣という者でこの道場の門弟です。伊井先生に挨拶に来たのですが、待たせていただいてよろしいでしょうか?」
「……相葉……」
 新左ェ門の目が奥で光る。
「……貴様が相葉か………」
 相葉は新左ェ門から無気味なものを感じた。
 すると新左ェ門は相葉を顎でつかい、稽古場へ誘った。
『なんだ?』
 不思議に思いながらも従いに応じ稽古場に入ると、新左ェ門が先に口を開いた。
「平川彦蔵の腕を切ったのはお前か?」
「……そうです」
 何故新左ェ門が平川を知っているのだろうか?伊井先生が話したのか?
「彼を知っているのですか?」
「……奴は死んだ……」
「そうですか……」
『あの片腕では長くもたなかったのか……』
「俺が殺した……」
 新左ェ門の言葉に相葉は驚いて彼を見た。気と同じく冷たい瞳をたたえている。
 新左ェ門はあの夜、不快な平川の笑い声を止めさせる為に奴を切った。平川はあっけなく、くぐもったうなり声をだしただけで簡単に死んだ。新左ェ門も何も感じなかった。ただ、害虫を叩き潰したというぐらいの感覚である。あんな生きる価値のないやつ等死んだ方がいい。おそらく、平川自身も死にたかったからこそ、自分に近付きあんな話をしたのだろう。
「何故、平川の腕を切った?」
「立ち会いですから仕方ありません」
「だが、申し込まれたのはお前ではあるまい。福田だった筈だ。なぜお前が平川を切る?」
「大切な人を守りたいと思ったからです」
 相葉がそう答えた時、新左ェ門から凄まじい殺気を感じて相葉は後ろに飛びのいた。太刀を構え、迷わず鯉口を切る。
『殺す気だ…ここで……』
 新左ェ門からたちのぼる剣鬼の気に相葉は確信した。彼は今ここで自分を殺す気である。
 相葉が構えたのに動じもせず、新左ェ門はゆっくりと横に動き、稽古場の正面にかけてあった太刀を取りに行った。その動作にも一分の隙もなく、殺気も衰えなかった。目が自分を見ていなくとも、新左ェ門は自分の動きを確実に捕らえていると、相葉は感じた。
 新左ェ門は太刀を持ち、再び相葉に向かいあう。
『なんという殺気だ』
 相葉は新左ェ門から立ち上る殺気を改めて感じる。今までこんな凄まじい殺気を受けた事は無かった。平川の時も幸太の昔の仲間を切った時とも違う殺気である。
 これは自分個人に向けられた殺気なのだ。と相葉は分かった。これまで対峙してきた者達は自分を邪魔する奴、あるいは切らねば切られるからという理由で立ち向かってきた。だが、目の前にいる新左ェ門は自分を殺したいのだ。相葉影嗣という男を。個人に向けられる殺気がこれ程のものなのだと、相葉は初めて知った。
 彼は自分を憎んでいる。
 だが、その憎しみの源がなんなのか、相葉には分からなかった。



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