主要登場人物

相葉影嗣(あいば かげつぐ) …二十一歳、刈谷道場の門弟、相葉家の次男部屋住み
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十六歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …三十三歳、刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …三十四歳刈谷道場の本来の持ち主
刈谷勝之進(かりや かつのしん) …(故人)新左ェ門の父
刈谷九郎兵衛(かりや くろべえ) …(故人)新左ェ門の祖父で福田の師
相葉宣高(あいば のぶたか)…二十九歳、相葉影嗣の兄で相葉家の跡取り
堀田 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
橋本 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
曾根崎 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
平川彦蔵 …謎の剣客
牧村親成(まきむら ちかなり) …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村加代 …牧村の妹
静 …相葉宣高の妻
幸太 …(故人)十六歳 刺客を生業とする一団の殺し屋

虎落笛(もがりぶえ)臥待月の章 4

 『遅くなってしまったな』
 伊井は弓削道場に呼ばれた帰り道で、少々急ぎ足で駈けていた。
「伊井」
「福田殿」
 道の反対側から福田がこちらに向かって歩いてくる。
「最近、退院したと聞きましたが、お身体の方は大丈夫なのですか?」
「……ああ、大分良くなった……」
「それは良かった……」
 そうは言うものの、福田の姿はかなり小さくなったように感じる。大きさ自体はそうたいした変わりはないが、印象が変わってしまっている。元々透明感のある人だったが、それが更に増したようなのだ。
「調度良かった。刈谷道場に行くところだったのだ」
「私に会いにですか?」
「ああ……それと新左ェ門にもな……」
「……そうですか…話を……?」
 伊井は療養所に見舞いに訪れた時、新左ェ門が福田とまた決闘をするつもりだと伝えてある。
「……実は小石川医師に温泉に療養に行ってはどうかと薦められているのだ。それで伊豆にでも行こうかと思っている」
「それはいい、この際ゆっくり身体を休めるのもいいでしょう。門弟の誰かを伴わせましょうか?」
「……いや…もういる……」
「ほう、誰です?」
「…一番…大切な人だ……」
 福田の想いがこもった口調に、伊井は思わず足を止めて彼を見る。すると、穏やかに微笑む彼が伊井を見つめていた。
「……福田殿…まさか……」
「伊井」
 福田は伊井に真正面に身体を向け、頭を下げる。
「新左ェ門を…頼む……」
「福田殿……」
 伊井は複雑な心境だった。福田がもう帰ってこないつもりだと分かったからである。そして相葉も供に行くのだという事も……
「……私は反対です……未来ある若者の芽を摘む真似はすべきでない……」
「……私もそう思っている……」
「ならば……」
「……伊井…私は幸せになりたいのだ……」
 福田は顔をあげた。
「は?」
「私を幸せにしてくれる人は分かっている……その者と供に生きたいのだ……」
「……福田殿……」
「昔、出奔を決意したのは、自分で選んだ人生を生きたいと思ったからだ…だが、私はなぜか出来なかった……」
「……………」
「自分の中で、どうしても欲しいものがなかった。私は皆を、すべてを愛しく思ってしまう……皆がいいと言う方向にしか進めない…だから私はいつも憧れていた。苦しい程の情熱をもつ者に……自分の意志で道を切り開く者に……私もそんな情熱が欲しかった……」
「……………」
「そして私もやっとその情熱を知った。与えたくれた人がいる。その人でなければ私は幸せになれない……何を犠牲にしてもいい……」
「福田殿……よろしいのですか……?」
「私が望んで選んだ道だ……どんなに責められようと……後悔はない……」
 福田の笑顔は綺麗でなんの澱みもなく、澄んでいる。あまりの透明さに
『空気に溶けていってしまいそうだ』
 と、伊井は思った。
 福田は人と人でないものの間に立つ者だった。その間際に立ち、両方の世界を愛し、愛されていた……
 それなのに、人を愛した……
「……人に……降りますか……」
「…ん……?」
「……気をつけて行って来て下さい……道場の方はなんの心配もいりませんから……」
 伊井は顔を逸らして歩き出した。
「……ありがとう……」
 後から福田もついて来る。
『もう、会えないのだな……』
 伊井の心に置いていかれたような寂しさが宿る。だが、人が幸せになりたいと思っているのに、自分にとめる権利は無い。その資格も……
 相葉の事が少し心配だが、福田がいっしょなら大丈夫だろう。彼にとっては福田がすべてなのだから。
『あいつにとってもそれが一番幸せなのかもしれない』
 人によって幸せなど違うものだ……
 どんなに地位も権力もあったとしても、本当にそれを欲している者でなければ無意味だ。相葉は最も欲しいものを手に入れたのだ。
『きっとこれでいいのだろう……』
 伊井は寂しさを感じながらも、心は納得していた。
「新左ェ門にはその話をするつもりですか?」
「ああ、できれば立合いはしたくないのだが……」
「……新左ェ門は了承しないでしょう」
「……また同じ過ちを繰り返す訳にはいかない……もし説得できなければ、療養から帰ってくるまで勝負は待ってくれと言うつもりだ」
「……嘘をつくので?」
「……そうだ……」
 嘘などつかなかった福田なので、伊井は少し驚いた顔で彼を見る。福田はいたずらっ子のように笑った。
「もう、嘘ぐらいつけるぞ……」
「なる程ね……」
 つられて伊井も笑ってしまう。
 そう、嘘ぐらい簡単につける。誰も傷付く事がないのなら……
 二人が道場に帰った時、張り詰めた気が漂っていたので急いで稽古場に向かった。
 そして、そこで対峙する新左ェ門と相葉の姿を認めたのであった。

『彼は俺を憎んでいる。何故だ?』
 相葉は新左ェ門と向かい合いながら考え続けていた。
 二人はすでに抜刀していたが、まだ刃を合わせていなかった。お互いに間合いをはかり、相手の様子を伺いつつ円を描きながら歩を横に進めた。
 新左ェ門と対峙して相葉は奇妙な感覚を味わっていた。彼から凄まじいまでの殺気を受けているというのに、自分の心がとても落ち着いているのである。
 彼に憎しみが湧いてこないのだ。
 幸太の仲間と対峙した時は、殺気に満ち満ちていた。向かい合う空間に『死』を感じた。
 新左ェ門は自分を殺す気だ。もちろん自分も殺される気は無い。だが、心は穏やかだ。
 自分の中から何かが広がっていく。周りの空間にある美しいものを感じられる。
『これは、なんだ……』
 心が解放され、五感が研ぎすまされる……
『……福田さん…これは福田さんの感じていたものだろうか……』
 彼と対峙した時にいつも感じていた広大な感覚。全てを包み込み、受け入れてくれるあの無限の広がり……
 今、自分をそれを感じている……
『そうなのか…これは…福田さんの感覚なのだろうか……』
『こいつ!』
 新左ェ門は相葉と対峙しながら、彼から漂う白い気を感じていた。自分の殺気が流れていく。こいつは恐れを抱いていない。
 こんな感覚は味わったのは一度だけである。八年前、福田と決闘をした時だ。
『こやつが水月を会得したというのか?ばかな!』
 確かに相葉から感じるものは水月の剣というには余りに小さく、不安定なものである。しかし、新左ェ門が不得手とする柔の剣である事は間違い無い。
『どこまでもいまいましい奴!』
 新左ェ門は足を進め、相葉との間合いをつめていった。
「やめろ新左ェ門!」
 伊井の声が聞こえたが、新左ェ門は構わず無視した。が
「…新左ェ門……」
 この声に、新左ェ門の息が止まる。
 いつも、いつも忘れる事のなかったあの声だった。新左ェ門は太刀を構えたままゆっくりと首をめぐらせた。
 そこに福田が立っていた。
 少し年をとり、だが、身にまとう白い気は記憶のままの彼の姿がそこにあった。
『…福…田……』
 新左ェ門は名前を呼ぼうとするが、喉が乾ききって声がでなかった。
「福田さん……」
 横から聞こえた相葉の声に、新左ェ門の怒りがまた燃え上がった。
 相葉の福田を呼ぶ声が、愛しい人を呼ぶ色をもっていたからである。
『やめろ!そんな声で福田の名前を呼ぶな!呼んでいいのは……』
 呼んでいいのは……
「二人とも、太刀を納めろ」
 伊井が間に入り込み、新左ェ門の手を軽く掴んだ。
「稽古場で真剣を抜くなど、どうかしているぞ。ここは往来じゃないんだ」
「……………」
 新左ェ門は目の隅に福田の姿を捕らえていた。彼は心配そうな表情を浮かべながら相葉を見ている。自分ではなく……
 新左ェ門はある事に気付き、ここで相葉を殺してはならないと悟った。
 彼は込み上げる怒りの炎を悟られまいと、必死に冷静さを装い太刀を納める。相葉も同じように鞘に納めた。
「二人とも、どうしたというのだ?道場で真剣をとるなど。稽古にしても行き過ぎだ、怪我でもしたらどうする」
「……………」
 新左ェ門は伊井の問いに応えず、道場を出ていこうとした。
「…新左ェ門……」
 福田が後ろから呼ぶ声が聞こえたので、足を止める。
「……久しぶりだな…元気そうでなによりだ……」
「…………」
 新左ェ門の鼓動は早鐘を打ち、張り裂けそうだったが顔には出さなかった。もう一度振り帰って福田の顔を見つめる。優しい微笑みを自分に向ける彼がいた。
 時間が一気に遡る。八年前、最後に彼を見た時の記憶に……
 心が感情でいっぱいになる。叫びだしたい衝動を新左ェ門は必死に堪えた。
「……八年間も大変だったな……これからはずっとここにいるのだろう……?」
「…………」
 福田……お前は、変わっていないのだな……
「勝之進殿の墓参りには行ったか?まだなら明日にでもいっしょに行かないか……?」
 あの美しい水月を受け継いだ白い者のままだ……いや、さらに透明になったな……
『触れれば消えてしまいそうだ……』
 新左ェ門は確かめようと思わず手をのばしかける。
「福田さん…どうしてここに……」
 相葉の声に、新左ェ門は我にかえって手を止めた。
「……ああ…伊井と新左ェ門に話がしたくて来たのだが、途中で伊井に会ってな……影嗣こそ何故ここに?」
『影嗣だと!』
 新左ェ門の鼓動がドクンと跳ね上がる。拳を堅く握り、沸き上がった憎しみの感情を押さえ付けた。
「伊井先生に挨拶に来たのです…随分稽古をさぼってしまいましたので……」
「……そうか……」
『やめろ!福田!そいつを見るな、俺を見ろ!』
 新左ェ門は相葉と話す福田の姿に、心の中で悲鳴をあげていた。
 二人の間に見えない糸があるのが分かる。
『そんな優しい瞳を奴にむけるな!お前は俺を見ていればいいのだ!俺がお前を見ているように!』
「福田!」
 いきなり新左ェ門が大声をだしたので、皆は一斉に振り向いた。
「……忘れるな…俺はお前と決着をつける為に帰ってきたのだぞ……」
「……新左ェ門…それは……」
「……俺は必ず勝つ……」
 そして水月を、お前を手に入れるのだ……
「…新左ェ門…私はもうお前と戦いたくない……」
「逃げる気か……?」
「そうではない…争うのが嫌なだけだ……」
「私と勝負するのが怖いのか……?」
「……そうだと言えば…止めてくれるか……?」
「駄目だ」
「……何故駄目なんだ……」
「私の八年間を無駄にする気か?」
「……どうしても…か……?」
「どうしてもだ……」
「……分った…だが、私は病み上がりの身なのでしばらく待ってくれないか……?」
「……どれぐらい待てばいい……?」
「温泉に療養に行く予定なので、戻って来てからではいけないか?」
「……いいだろう……」
 新左ェ門はそう言い捨てると、廊下を歩き道場を去っていった。
「あ……新左ェ門…墓参りには……」
 福田は新左ェ門に近付き、肩に触れようとしたが
「触るな!」
 新左ェ門が大声で福田に怒鳴り付けたので、福田は硬直してしまう。
『俺に触るな!他の男のものになった手で……!』
 新左ェ門は福田を睨み付けると、再び歩き出して消えていった。
 残された福田はやはり新左ェ門は昔のまま、自分に嫌悪感しか抱いてくれないのだと、悲しく思う。
 道場を出て、隣の刈谷家の門の前で新左ェ門は大きく息を吐き出した。
 手に痛みがある事に気付き、手のひらをひろげると血が滲んでいる。強く握り過ぎた為に、爪が皮膚にくい込んでいたのだ。
『福田……』
 先程の彼と相葉という若造の様子を思い出して、また拳を握る。
『私の言った言葉を理解していなかったのか?』
 あの時、出奔して髪を切ったお前と道場で会った時に言った言葉の意味を!
 水月を受け継いだ以上、それ以外、何も考えるな。人に心を許すな
『意味を理解していなかったのか!?忘れてしまったのか!?』
 道場に正座していた福田の姿を新左ェ門は鮮明に思い出す。彼の初めて見た怯える表情も……
 項にたてた歯の感触をも思い出して、新左ェ門は口を手で押さえた。
 あの時、福田を組み敷いてその胸に舌を這わせた。
『あの時、俺はお前を凌辱しておくべきだった!』
 その身体に、その記憶に自分の言葉を忘れぬよう刻みつけておくべきだったのだ!
 自分が福田に呪縛されている以上、彼も自分に捕われていなくてはならない!倒すまで、水月を凌駕するまで福田は自分に捕われているべきなのだ!それでなくては、自分の今までの修行に何の意味があるというのだ!?
「……俺は…間違っていない……」
 絶対に俺は間違っていない……
 新左ェ門は呟きながら屋敷の中に戻っていった。

「では帰ります。伊井先生、お達者で……」
「……ああ…気をつけてな……」
 伊井に見送られ、福田と相葉は刈谷道場を出た。
 二人は道を並んで歩き出した。
「…福田さん…彼…新左ェ門は……」
「……彼とは…話をして納得して欲しかったんだが……無理なようだ……」
 だが、福田は以前のようにまた決闘をする気はない。何も言わずに立ち去ろう……
 八年前にすべき事だった事をするだけだ……
 相葉は今みた様子から、新左ェ門の執着が簡単に無くなるものでないと分っていた。
『いなくなった福田さんの行方を探すかもしれないな……』
 自分を憎んだのは福田に力をかした敵と判断したからだろうか、とこの時は考えていた。
 二人は藩境の手前にある野原に辿り着いた。日は沈みかけており、辺りは朱く染まっている。
 相葉は道の脇に立っている木に登り、洞に隠してあった荷物を取りだした。このまま出奔するのである。一度、江戸に向ったように見せ掛けて、こっそり反対側に引き返す手筈だ。
 二人は熊野に行くつもりである。
 雪華の剣が熊野で創られたからその土地の神社に奉納したい、と福田が言ったからだ。
 福田とは明日の夜、隣の藩の宿で待ち合わす予定だ。共に出ないのは、世間に相葉が消えた時は福田がいたという印象をもたせる為である。
 いくらなんでも世継ぎが男と出奔したという噂がたつのは相葉家にとって非常にまずいのだ。藩主の耳にでもはいれば減禄、最悪取り潰しもありえる。
 そこで、相葉が消えた時は福田はいた。福田は次の日伊豆に旅立ちそこで消息をたつという印象をもってもらうのだ。そうすれば、相葉が福田とともに出奔したと思う者はあまりいないだろう。
 気付いた者がいるとすれば親しい者なので、口にだす事はありえない。
 せめてそれぐらいは家の為にやっておかねば、と相葉は思ったのである。
「…ここでいいですよ。では…福田さん…行きます……」
「……ああ………」
「……待っています……」
「……ああ……」
 相葉は辺りに微かに薫る香りに気がつく。
「梅の香りですね……」
「……そうだな……」
「……桜はいっしょに見れますね……」
 福田の手を取り、相葉はその甲に唇を押しあてた。
「……これからも……ずっといっしょに……」
「……影嗣……」
『そうだ、今年はいっしょに見れるだろう…来年も多分…だがその次は……』
 福田は三度目の桜を見れる自信がなかった。
 毒薬によって一度生死の淵を彷徨った福田の身体は、確実に生命力を奪われていた。
 時々、胸が鉛を飲み込んだように重く苦しくなる。薬を飲んだり、休んで回復するものではなかった。そんな時、福田は自分から流れて出していった命を実感する。
 自分の命が長くないと悟った時、真っ先に考えたのは相葉の事だった。
 もう長くないのなら、残された時間がわずかなら、彼と少しでも共に過ごしたいと思ったのである。
 毒を飲まされ、意識が朦朧とした時も浮かんだのは彼の顔……
 何も伝えず、何の情熱ももたないまま死ぬのは嫌だった。
 自分の持っている想いも、言葉も、そのすべてを彼に捧げたかった……
 最後の時が訪れる瞬間まで…彼の側にいたいのだ……
 勝手なのは分っている。しかし……どうしても彼と残る命を過ごしたかった……何を犠牲にしても…誰を傷つけても……
「…影嗣……」
「…はい……」
「……私はお前を苦しめるかもしれない……」
 大切な相葉をも苦しめるかもしれない……でも、止まらない……
 自分の中に、こんな激しい情熱が宿っているのを初めて知った……
「……福田さんが与えるものならば、俺は何でも受け入れられる……」
「…影嗣……」
「あなたが与える苦しみも、あなたが与えてくれる幸福の一部なんだと思えばいい……」
「……………」
「…俺は…幸せです……」
 相葉はそう言って福田の額に口付けた。
 福田は目をつぶり、幸せを感じていた。
 私も幸せだ……
 彼に愛されて……共過ごせるから……
 もし、お前が私を憎む時がきても、信じられなくなる時がきても、私はお前を愛していける……
 あの白鷺のように、お前が私を殺す時がきても……
 私は後悔しないだろう……
 相葉は福田と別れて歩き出した。途中、振り返ると、福田はまだ、その場所に立っていた。
 大きな杉の木の傍らに立ち、足元では草むらが風でさわさわと揺れている。
 朱い夕闇に染まった彼はとても美しい。
 あまりに美しくて、相葉は何度も振り返る。
 どんどん福田の姿が小さくなるが、彼はずっと立って相葉を見送っていた。
 見えなくなってからも、相葉はまだそこに福田がいるような気がした。胸の一番深いところに、先程の福田の姿が刻みついていた……

         *

 翌日、予想どおり、相葉家の者が福田の元に訪れた。
「影嗣殿がこちらにお邪魔しておりませんか?」
「……いいえ…来ていませんが……」
「本当ですか……?」
「はい……」
「家の中を拝見させて頂いても?」
「よろしいですよ」
 家臣らは一通り家の中を調べて納得したようであった。
「お邪魔しました……」
「いえ……」
 相葉家の者が帰った後、福田は今まで世話になった人達の家を回った。伊豆に行くからしばらく留守にするという挨拶回りだったが、本当は別れの挨拶である。
 最後に九郎兵衛と勝之進の墓参りに行く。
 心の中で九郎兵衛に詫びをいれた。しかし、彼は分ってくれるだろと思う。
 家の中をきちんと整理した後は、ゆっくりと身体を休めながら、懐かしい思い出の数々を思い出していた。
 そして、夜半刻、福田は雪華の剣を携えて家を出た。
 空には美しい月と星が輝いている。
 福田の足は鳴神の滝へと向った。
 一番好きだったこの場所にも別れを告げたかったのである。
 美しく神々しい輝きもった滝を眺めながら、心に安らぎを感じていた。
 が、その時、ある人の気配を感じて安らぎは破られた。福田はゆっくり振り返る。
「……新左ェ門……」
 新左ェ門がこちらに向って歩いていた。福田は信じられない気持ちをもちながら、こんな事になるのでは、と心のどこかで予期していた。
『彼とはやはり決着をつけねばならないのか……』
 過去からは逃れられない……
「…福田…どこに行くつもりだ……」
「……伊豆に行く………」
「…伊豆に行くのなら逆方向だろう……」
「……………」
「それに…療養に行くのに雪華の剣をもっていく必要はあるまい。帰ってくるんだからな」
「……………」
「俺が預かっておいてやる。よこせ……」
「……………」
「躊躇う必要はない。帰ってくればお前に返す。そうだろう……」
 新左ェ門は必死な自分を滑稽に感じたが、なりふりかまっていられなかった。ここで福田を行かせれば、永遠にあの男のものになってしまうのだ。
 昨日、相葉家の者が道場に訪ねてきて、あの男がいなくなった事を知った。そして福田も行くつもりではないかと思った。だから、福田の好きだったこの場所を見張っていたのである。もし、旅立つつもりなら、この場所を最後に見に来る筈だと。来ない事を祈っていたが、福田はやってきた……
「……新左ェ門……私は伊豆には行かない………」
「……お前が嘘をつくとはな……」
「……………」
「どこへ行く?あの男か?あの相葉とかいう男の所に行くのか?!」
「…新左ェ門…私はもう長くはない……」
「……何……?」
「寝込んでから、私の身体からほとんどの命が流れでてしまった……おそらく…三年ももたないだろう……」
「…だから……?」
「……新左ェ門…私は残る人生のすべてを彼と共に過ごしたいのだ……」
 新左ェ門の身体がカッと熱くなる。
「…だから……?」
 行かせろと?あの男の元にお前を行かせろと?!
「……このまま…いかせてくれないか……お前を煩わせることはもうないから……頼む……」
「……それ程…なのか……?」
 それ程あの男を想っているのか……?
 新左ェ門の頭に心臓の鼓動が響きだす。
 福田は小さく頷いた。
「……彼を…誰よりも愛しく想っている……」
「許さん!」
 新左ェ門は抜刀しながら叫んだ。
「何年だと思っている!」
 お前に捕われてから何年だと思っている!お前の事を毎日考え、毎日思い出し、感情のすべてを支配されて何年だと!
「……俺は…旅にでていた八年間幸せだった……お前が俺の事を毎日考えるだろうと分っていたからだ……」
「……新左ェ門……?」
 自分のせいで旅だった人の事をお前は忘れるような人間ではない。きっと毎日思い出して無事を祈るだろう。だから、幸せだった。福田が自分に捕われていると分っていたから……
 それなのに、お前は誰かに自分を捧げようとしている!決して許せない!今まで、福田が誰のものでもなかったからこそ、彼が自分のものでなくとも堪えられた。
『やっと気がついた…俺が欲していたのは水月の剣ではなく、水月を持つ事のできる福田だったのだ……』
「お前を行かせるくらいなら……」
「……新左ェ門……」
「殺す……」
 福田は息を飲んだ。
「どうしても行きたければ、俺を切ってから行け!」
 先日、道場で相葉を殺さなかった理由はこれだった。今、相葉を殺せば、福田は永遠に彼を忘れないだろう。福田は永遠に相葉のものになってしまう。
「ここでお前を殺し、お前も水月も俺のものにする……」
 もし、福田が自分を切ったとしても、福田は自分を忘れない。己が殺した唯一の人として心に刻まれる……罪の意識から相葉の元にいけないだろう。
 新左ェ門はどちらでもよかった。
「…来ないのか……」
「……………」
 福田は滝を背にじりじりと後退した。
「来ぬのならこちらから行くぞ!」
 新左ェ門が福田に太刀を振り上げ、福田は雪華の剣を抜いてその太刀を受けとめた。
 はらいのけ、一端は身体を離すが、新左ェ門はまたすぐに迫ってくる。
『新左ェ門、私はお前を傷つけたのか……?』
 彼の剣を躱しつつ、福田は目の前の男の言った事を考えた。
『昔から、お前は私を嫌っているものだと思っていた。違うのか?お前が私に向けていた憎しみの瞳の意味はなんだったのだ?』
 今、向けている憎しみの剣の意味も……
『だが、許してくれ……私は知ってしまったのだ……』
 自分が一番想う人を知っている……その情熱を知っている……何をしてでも彼と生きたいのだ……
『だから、許してくれ……』
 新左ェ門の剣はすさまじい剛剣だった。八年間の修行の成果は確実に剣に現われている。しかし、どんな剣であろうと人の剣である以上、水月を倒す事のできるものではなかった。
 新左ェ門の剣をはらい流しながら、福田は息があがってきた。あの鉛の重みが胸に宿ってくる。
 もし、体力があるのなら、いつまでも、力つきるまで剣を受けとめていられるが、福田にそれだけの力は残っていない。平川の時のように戦意能力を奪う事もできない。新左ェ門の力はそんなこけおどしが通用するような力量ではなかった。
 長引けばいつかやられるだろう。体力の残っている間に勝負を決めなければ。
 福田はそう思い雪華の剣を正眼に構えるが……
『命を奪うのか?雪華の剣を血で汚すのか?』
 福田の心に迷いが生じる。
『だが、私は約束した。影嗣の元に行くと。これからずっといっしょにいるのだと』
 彼の元に行かなければ。行きたいのだ、私は彼と。
 新左ェ門はじっと福田を見つめた。福田の水月の剣はあの八年前の立ち合いの時と本当に変わりなかった。
 なにもかも包み込み、受けとめていく白く澄んだ気……
 人でないものが持つ美しい静謐……
 自分はどれ程これを欲しただろう……どれ程焦がれただろうか……
 新左ェ門は全身の気を集中させた。福田もくる、と分かり覚悟を決める。
 新左ェ門が福田に向って走り、うなるような剛剣が振り降ろされる。福田は静かに寸のところで躱し、新左ェ門の胸にその一刀を向ける。
 が、福田はその太刀を途中で止めた。
 太刀の止まった一瞬の隙をついて新左ェ門の太刀が福田の身体を切り裂く。
『……あ……』
 福田の頸動脈から血が溢れ出て、彼の身体は仰向けにゆっくりと地面に倒れた。
『……影嗣……』
 福田は遠ざかっていく意識の中で相葉の事を考えた。
『…私は…行かなければ…お前の元に……』
 必ず行くと約束した…これからずっといっしょにいると約束したのに……
『…行かなければ……』
 自分の意識が闇に溶けていくのを福田は感じていた。
 痛みも恐怖もなく、孤独感だけがくっきりと描かれていく……
(あなたが与える苦しみも、あなたが与えてくれる幸福の一部なんだと思えばいい……)
 最後の相葉の言葉が胸に響く。
『……影嗣……お前は私の死も……そんな風に……受けとめてくれるだろうか……?』
「…ぐ……く……」
 新左ェ門は地面に膝をつき、全身の震えを必死に押さえていた。
 震える右手を見ると血まみれの太刀を握りしめている。太刀を離そうとするが、震えるばかりで動かない。同じように震える左手で一本一本指を太刀から離していく。やっと指が離れ、太刀は地面に落ちた。もう二度と使いたくなかった。
 息を荒くつき、地面に臥せる福田を見る。立ち上がれないので膝で引きずるように彼の傍らに近付いた。
 最後の瞬間、福田の太刀は新左ェ門のそれより早く彼の身体を貫いた筈だった。しかし、福田は途中で剣を止めた。最後まで人を切る事が出来なかった。誰の命も奪えなかったのである。自分の命をかけた願いを叶える為でも……
『お前は最後まで、白いままだな……』
 福田の身体を膝に抱き上げ、仰向けにする。
 まるで眠っているかのような安やかな死に顔だった。
「……福田……お前が…悪いのだぞ……」
 あれ程言ったのに……
「…誰かのものになったりするからだ……」
 福田の頬に触れながら、新左ェ門は心が凪いでいるのに気付いた。
『なんだ……これは……』
 幼い頃から福田によってもたらされていた感情のすべてが無くなっている。
 怒りも、悲しみも、憎しみも、希望もなく動揺もしない。
『安らぎか……』
 いや、違う、これは虚無だ。
 新左ェ門は自分の中がからっぽになっているのを知った。何も感じない……すべてが消えてしまっている……
「……福田……」
 腕の中の彼はまだ暖かかった。
 彼に初めて会ったのは十一歳の時。まだ、世界のすべてがこの手中にあると感じていた時だった。そして、初めて彼の水月を見たのは十六歳。彼と出会い、彼の剣を知り、どうしても手に入らないものがあるのを知った。けれど、諦めきれず、追い掛けて、追い掛けて手に入れたと思った途端、それは石になってしまった……昔、どこかで聞いた天女のように……
「福田……」
 新左ェ門は福田の頬に触れながら小さく呟いた。
「………目を………」
 開けてくれ………
 だが、福田は石のようにぴくりともしなかった。
「……駄目か……駄目…なのか………」
 もう……遅いのか……
 失ってからでないと、人は本当に大切なものに気付かない……
 新左ェ門はゆっくりと福田の身体を抱き締めた。その彼の瞳は虚ろで、何も見ていなかった。
 新左ェ門は腕の中の福田が冷たくなっていくのを感じながら、ずっと視線を宙にさまよわせていた。
 その瞳は自分の目の前に広がる虚空しか見えていなかった………

『月が沈みかけてきたな……』
 相葉は旅館の窓から空に浮かぶ月を眺めていた。幸せな気持ちで福田が来るのを待っていた。
 これからはずっといっしょに彼といれらる。そう思うと幸せでならなかった。他には何もいらない、彼がいてくれればそれでいい……
 もう虎落笛が聞こえても、不安に怯える事はないだろう……
 新左ェ門が福田を追い掛けて、見つかってしまう事があるかもしれない。その時は自分が先に立合えばいい。破れたとしても、死ぬのは自分なのだから、何の心配もいらなかった。
 きっと彼を守ってみせる。もう傷つけるような真似は絶対にしない……だから……
「…福田さん…早く…来てください……」
 相葉はそう思いながら福田を待っていた。
 だが、福田はやって来なかった。
 月が沈み、星達が暁の光に消されても、福田はやってこなかった……

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