主要登場人物

相葉影嗣(あいば かげつぐ) …二十一歳、刈谷道場の門弟、相葉家の次男部屋住み
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十六歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …三十三歳、刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …三十四歳刈谷道場の本来の持ち主
刈谷勝之進(かりや かつのしん) …(故人)新左ェ門の父
刈谷九郎兵衛(かりや くろべえ) …(故人)新左ェ門の祖父で福田の師
相葉宣高(あいば のぶたか)…二十九歳、相葉影嗣の兄で相葉家の跡取り
堀田 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
橋本 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
曾根崎 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
平川彦蔵 …謎の剣客
牧村親成(まきむら ちかなり) …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村加代 …牧村の妹
静 …相葉宣高の妻
幸太 …(故人)十六歳 刺客を生業とする一団の殺し屋

虎落笛(もがりぶえ)臥待月の章 最終話

 次の日、相葉は日が落ちるのを待って、こっそりと福田の家を訪れた。
 福田が約束の宿に来なかったので、何かあったのかと心配になったのである。
 相葉家では自分の行方をやっきになって探しているだろうから、本当はこんな危険は冒したくはないのだが……
 何かやっかいな事がおきて、遅れているのだ。ほら、例の神社の神主から何か頼まれたとか、相葉家の家臣が頻繁に訪れるとか……
『きっとたいした事ではない。待っていれば明日の夜には来るだろう。でも、落ち着かないから行くのだ。きっと福田さんはいつもの笑顔ですまなさそうに出迎えてくれるだろう……』
 相葉は胸にたちこめる暗雲のような不安を、大丈夫だと言い聞かせ続けて誤魔化してきた。
 人気のないのを確かめ、福田の家を遠くから眺めてみる。居間の辺りから小さな明かりが灯っているのが見えた。
 ほっとした相葉は家の中に入っていった。福田の他に誰かがいるかもしれないので、こっそり入る。
 中には人の声どころか気配もしない。
『?妙だな』
 そう思いつつ、相葉は明かりのあった居間に足をむける。明かりは小さな行灯が一つ点いているだけであった。そして、そこには正座している新左ェ門が一人いた。
 彼の姿を見た途端、相葉の誤魔化していた不安が一気に膨れ上がる。
「……刈谷…新左ェ門………」
「……来たか……相葉……」
「……何故……お前が……ここに………」
「……福田はお前の元には行かん……」
 相葉の全身が氷のように冷たくなった。
「……嘘だ……」
「……本当だ……もう、福田はこの世にいない……」
 心臓が止まる……相葉の身体から体温が急速に失われていく……息が苦しくなり……心臓が痛い……
「……嘘だ……」
「…お前に彼はやらない……」
 相葉は自分が闇に包まれているのを感じた。あの自分の内から滲み出てくる醜い闇だ。自分の身体を支配しようとしている……
「……嘘だ!どこだ!福田さんをどこに隠した!」
 相葉は悲鳴をあげる。
 そうだ、水月が、彼が負ける筈がない!
 目の前にいる男は嘘をついているのだ!きっと福田をどこかに隠したに違いない。
「どこだ!福田さん!」
 相葉は家の中を走り回って福田の姿を探した。
 すべての襖を開け、障子も戸を壊し、彼の名を呼び続けた。
『嘘だ!嘘だ!嘘だ!』
 彼は約束してくれた。これからは自分といっしょにいるのだと!そう約束してくれたのだ!
「貴様!どこに隠した!」
 新左ェ門は相葉が大声で家中を探している間も、虚ろな目をしてじっとそこに座っていた。
 息をきらせながら、相葉は新左ェ門に尋ねた。本当は彼の言っている事は真実なのだと分っていた。だが、心が認めるのを拒否していた。
 相葉は今になって気がついた。この男はもう一人の自分なのだと。福田を欲して、命を奪う事で自分のものにしようとしていた時の自分だ。道場で自分に向けた殺気の意味は、福田をさらっていく者への憎しみだったのだ。
 自分ならどうする?もし、福田が誰かのものになろうとしたら?どこかに去っていこうとしたら?
 決して許さないだろう……
「どこだ!」
「……………」
 新左ェ門は答えない。
 福田の遺体と雪華の剣は鳴神の滝に沈めたのである。だが、それをこの男に教えるつもりはなかった。ここに来たのは、真実をこの男に告げる為と、死ぬ為だった……
「……お前は…福田のすべてを手に入れたが……」
 新左ェ門の言葉が呪いの言葉のように聞こえる。
 寒い……身体中を針で刺されているようだ。
「……彼の死は……私のものだ……」
 相葉は慟哭した。
 抜刀し、そのまま新左ェ門の首を横払う。
 新左ェ門の首が飛び、血飛沫が天井にまで舞い上がった。
 相葉は太刀をやみくもに振り回し、ふらふらと外にでた。
 視界がぐるぐると回っている。寒くて堪らなかった。自分がどこにいるのか、何をしているのか分からない。
 誰かが笑っている声がする、とぼんやり思うが、それは自分だった。
 心が麻痺していた。どうやって人が狂っていくのか分かる。
 強烈な頭痛と吐き気に襲われて、相葉は膝をついて嘔吐した。
『福田さん……どこです……』
 相葉は福田の姿を求めて歩きだした。最後に彼を見た光景が目に浮かぶ。
 福田が大きな杉の木の傍らに立ち、足元では草むらが風でさわさわと揺れていた。
 朱い夕闇に染まった彼の美しい姿。何度も、何度も振り返ったあの姿を……
『……あの時の姿しか…思い出せません……』
 もっとずっと前からの福田の姿を知っている筈なのに、相葉は何も思いだせなかった。
 福田の笑顔も、困った顔も、優しい声も、全て知っている筈なのに、何も思い出せない……
 あの、最後に見たその光景した思い出せない……
『……福田さん…どこです………』
 何も感じない……
『……どこに……いるのですか……』
 闇が、相葉を覆い尽くしていた……

          *

 伊井は小石川療養所を訪ねた。
 中に入ると小石川医師と目が合い、察した彼は回りに気付かれないよう伊井の側に来る。人気のないところに移動し、小さな声で伊井は話した。
「……様子はどうです……?」
「…変わりないね……あのままだ……」
「……そうですか……」
「……もって…後二、三日だろう……」
「そんな……なんとかなりませんか……?」
「医者は身体の傷はなんとか治せるが、心の傷までは治せない……はっきり言うが、あの青年の心はもう死んでいる。生きようとする気が本人にないのに、医者ごときでに何もできんよ」
「……………」
 二日程前の夜、伊井の家に庭師の爺さんが駆け込んで来た。山道を歩いていたら、亡霊のようになった相葉が彷徨っているのを見たというのである。その爺さんは道場にも出入りしていたので、門弟らの顔を知っていた。相葉家という敷居の高いところには行けず、とりあえず伊井の元にきたのであった。
 伊井は急いで駆け付け、本当に亡霊のようになった相葉は見つけて驚愕した。山を彷徨っている間にぼろぼろになったのだろう、破れ放題の着物を纏い、目は虚ろで何に対しても反応しない。
 これがあの素晴らしかった青年の変わり果てた姿だと信じられなかった。
 とりあえず、その爺さんと相葉を小石川療養所に運んだのであるが、相葉は何に対しても反応せず、飲み食いもいっさいしなかった。ただじっと布団に寝かされているだけである。水も飲まないので、命がつきるのは時間の問題だと言われた。爺さんには黙っているように頼み、小石川医師も理由も聞かず沈黙を約束してくれた。
「……あの青年に一体何があったのだろうな……」
「……………」
 伊井は理由に気付いていた。相葉があんな風になる理由は一つ、福田が死んだのだ。
『殺したのは新左ェ門か……』
 福田の家で新左ェ門の死体が発見され、奉行所は福田が下手人だと思っていた。
 道場の師範のことでもめた福田が新左ェ門を殺し、逃走したというのである。もちろん、福田を知る人々は信じていない。盗賊か何かに押し入られ殺されたのだろうと噂していた。問題は福田が伊豆へ旅立つ前に盗賊が来たか、後かである。
 皆はきっと福田さんは元気な姿で帰ってくると信じているので、伊井は胸が痛んだ。もう福田が帰ってこない事を知っているのは自分だけだからだ……
『いや…相葉もか……』
 その相葉は自ら命の火を消そうとしている……
 伊井はこっそりと療養所の奥の部屋に入り込んだ。そこに人知れず寝かされている相葉がいた。
 布団に寝かされ、顔には白い布がかけてある。
 布をかけるのは通りかかった人に顔を見られない為と、虫などが目を吸いにくるのをふせぐ為である。
 相葉が起きているかいないかは、その目を閉じているか、いないかで分かる。
 それ以外は何も変わりなかった。
 伊井はそっと布をめくり、相葉の目が開いているのを確かめた。いくらやっても閉じないので、日に何度か目薬をささねばならないそうである。
 伊井はやりきれない思いを抱えてため息をついた。
 何故こんな事になったのだろう……
 新左ェ門は何故それほどまでに福田を倒したかったのだろう……?
 とめる術はなかったのか……?
 自分に出来る事はなかったんだろうか……?
 伊井は何度も考え続けていた……
『福田さん…彼を…相葉を助けてやってくれ……』
 もう、この世にいないのだと言う事は分っている。だが、助けてやって欲しかった。
『頼む、彼を救ってやってくれ……』

 相葉は深い闇の中にいた。
 何も感じず、何も見えない聞こえない。
 このままじっとしていれば、いつか終わる。
 福田の元にいけるだろう。そう信じていた。
 すると、ある時、相葉は自分の目が何かを見ている事に気がついた。
 それは白い布だった。
『……なんだ……なぜ俺は………』
 いきなり闇の中から意識が戻ってきた。何故だ?もうそっとしておいてくれ……
 また、再び意識を闇の中に沈めようとした相葉だったが、そこにあるものを感じてはっとする。
『……え………』
 相葉は身体を起こそうとするが、身体は思うように動かなかった。
 けれど確かめたかった。自分を闇の中から引きずり出したものの正体を……
 自分の感じているものの正体を……
「……く………」
 関節が悲鳴をあげる、どうやって身体を動かしていたか忘れてしまっている。
 なんとか指先から動かしだして、徐々に身体が動くようになってきた。長い時間をかけて身体を横に倒すと顔にかかっていた布がはらりと落ちる。布団の上に仰向けになり、あがった息を整えた。
 ゆっくりと顔をあげると、そこに自分の感じたものがあった。
 雪華の剣である。
 壁にたてかけているその太刀は水に濡れており、鍔からもぽたぽたと雫がしたたり落ちていた。
 その太刀から福田の気を感じる。
 間違える筈がない彼の白く澄んだ美しい気が、その雪華の剣から流れでていた。
 福田の魂がそこにある。
 相葉は布団から這いずり出て、雪華に近付いた。手に取ると、暖かい気が自分の氷のような身体を溶かしていくのが分かる。相葉の頬から涙が溢れた。
『来てくれた……福田さんが…約束どおり…俺の元に来てくれた……』
 相葉は胸に雪華の剣を抱き締めた。
 感じられる福田の魂を胸に抱いている。
 白い気に触れ、自分を覆っていた闇が晴れていった。意識も、気持ちも、広がっていくのを感じる……
「……福田さん………」
 いつもあなたの帰る場所が自分でありたい……
「……おかえりなさい………」
 相葉は福田がいつまでもいっしょにいてくれるのだと分ったのだった……

 伊井の元に、相葉の姿が消えたという知らせが届いたのは夜も更けた頃だった。
 急いで療養所に駆け付け、からっぽになった部屋を見た。
「病人達の夕餉が終わって、様子を見ようと来てみたのですが……」
「その時から何か触っていますか?」
「いいえ、そのままです」
「この布団もですか?」
「はい」
 相葉の寝ていた布団は丁寧に隅に積まれ、着ていた単もきちんと畳まれている。
「彼の着物は?」
「無くなっています……」
「……では、彼の意識が戻ったのでしょう……彼は自分の意志で出ていったのです……」
「そんな、ばかな……あんな状態だったのに……」
「……彼を正気に戻してくれる人が来たのですよ……きっと……」
「誰です……」
「……分かりません………」
 本当は福田が来てくれたのだ……と、伊井は分った。
 相葉を救いに来てくれたのだ……
『ありがとう…福田さん………』
 きっと二人はいってしまったのだ。遠くへ二人いっしょに……
『幸せになのか……それで……』
 伊井にはそれが幸せかどうか分からなかった。だが、相葉が心穏やかにすごせるよう祈っていた。
 自分には祈る事しか出来ないが、それでも、祈らずにはいられなかった。

         *

 相葉は山道の途中で腰を降ろして休んだ。
 この峠を越えれば熊野はすぐそこである。
 福田の言ったとおり、相葉は雪華の剣をこの地の神社に奉納に来たのだ。
 桜の季節は終わり、辺りは芽吹き始めた緑と華の鮮やさで色どられていた。
 山々の景色は美しく、湿気と光が溢れている。
 清々しい自然の空気を吸い込み、相葉は立ち上がった。
『行きましょうか、福田さん』
 傍らには福田の魂の宿った雪華の剣がある。
 もう、自分は独りではないと、相葉は分っていた。言葉も必要無い。
 目を瞑れば、彼の姿が蘇る。そこに福田の気を感じる。そして、自然の中に宿る無限の大きさをもった美しい気も……
 なぜ、福田が誰の命も奪えなかったのか分かる。こんな美しいものを奪う権利など誰にもないのだ。
 福田は人でないものに愛されて、愛していると思っていた。だが、それはすべての存在を愛している。人でも等しく愛してくれているのだ。違いは人がそれに気付くかどうかなのだ。
 自分の心を広げ解放すれば、それはどこでも感じられる。その美しさにいつでも包まれる。
 福田はそれを知っていた。
 そして自分もそれに気付く事が出来た。彼を愛したから……
 彼の与えてくれたものを忘れない。ぬくもりも、彼の笑顔も、言葉も……永遠に忘れない……
 いつでも、あなたは私と共にいる……
 私はいつでも、あなたに会える……
 夜、美しい月の光を浴びれば、満ちてくるものがある。
 その月に向って雪華の剣をかかげると……
 ……あなたが……降りてくる………
 相葉は穏やかな微笑みを浮かべながら、道を歩き出した。

 この後、相葉は熊野に着き、小さな神社に雪華の剣を奉納した。
 彼はその神社で神剣の守人として生涯を終える事となる。
 それ故に、その神社の記録書には相葉の名前が記された。
 神剣、雪華の剣を奉納した守人として、そして水月の剣、最後の伝承者として……

   終

           戻る      トップへ