主要登場人物

相葉影嗣(あいば かげつぐ) …二十一歳、刈谷道場の門弟、相葉家の次男部屋住み
福田謙次郎(ふくだ けんじろう) …三十六歳、刈谷道場の師範代
伊井正太郎(いい せいたろう) …三十三歳、刈谷道場の師範、門弟達の師匠
刈谷新左ェ門(かりや しんざえもん) …三十四歳刈谷道場の本来の持ち主
刈谷勝之進(かりや かつのしん) …(故人)新左ェ門の父
刈谷九郎兵衛(かりや くろべえ) …(故人)新左ェ門の祖父で福田の師
相葉宣高(あいば のぶたか)…二十九歳、相葉影嗣の兄で相葉家の跡取り
堀田 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
橋本 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
曾根崎 …刈谷道場の門弟で相葉の友人
平川彦蔵 …謎の剣客
牧村親成(まきむら ちかなり) …刈谷道場の門弟で相葉の友人
牧村加代 …牧村の妹
静 …相葉宣高の妻
幸太 …十六歳 刺客を生業とする一団の殺し屋

虎落笛(もがりぶえ)臥待月の章 1

 相葉家は騒然としていた。
 世継ぎの急死という不測の事態が起こり、皆混乱していた。
 相葉自身も家に帰ってはみたものの、何をすべきか分からなかった。ただ、背中に張り付いたようについてくる黒い影だけははっきりと感じる事ができた。
 とりあえず、両親のところに行き、挨拶を済ませたが、二人とも最愛の息子に死なれ、ほうけた状態であった。同じ息子である相葉の顔はほとんど見ていない。
 分かってはいたが、相葉は何とも苦々しい気分がした。
 次に静を訪ねる。
 思ったとおり、相当参っているようであった。
 青白い顔をして、少し痩せている。
 祝言をあげてから、まだ三月だというのに……
『…間が悪い……』
「姉上、御機嫌いかがですか?」
「影嗣様……!」
 静は少し驚いたが、すぐに笑顔を見せた。
「この度は大変な事で……」
「……ええ…とても急な事で……まだ信じられませんわ……」
「…………」
 失礼だとは思うが、相葉は静がそれ程悲しんでいるようには見えなかった。混乱しているのは自分と同じだが、先程見た両親のように魂が抜けた状態ではない。
『政略結婚だし、まだ三ヶ月じゃ情が湧く間もないか……』
 心情的にはどうせ亡くなるのなら、嫁ぐ前にして欲しい、といったところだろう。
 これで彼女は出戻りという不遇の立場にたたされる事になるのだから。
 しばらく話をして、少し元気になったのを確認すると相葉は静の部屋を出て行った。控えて待っていた榊にこそりと聞く。
「……兄は何故死んだのだ?」
「あまりよく分かっていません……このところ身体の不調を訴えてらっしゃいましたが、たいした病には見えませんでしたのに、急に……」
「……………」
「医師の話では心の臓の発作に襲われたのだろうと……」
「心の臓が悪いなどという話は今まで聞いていないぞ」
「はい、いきなりでして……」
「……毒殺という可能性はないか……?」
「一応調べてはいますが、極めて低いです。十中八九自然死でしょう……」
「…………」
「通夜や葬儀が終わり落ち着きましたら、家督相続人変更の届け出を出さなければなりません」
 榊の言葉は相葉の身体に悪寒をもたらす。
「影嗣殿もそのおつもりで……」
「…………」
 相葉は突然、今、自分がどこに立っているのか分からなくなった。生家である筈のこの場所が、まるで初めて来た家のようによそよそしく感じる。夢の中で見ている風景のごとく印象があいまいで、ひどく非現実だった。
 夢だとしたら、悪夢だな……
 相葉はぼんやりとそんな風に考えた。

       *

「よく帰ってきてくれたな、新左ェ門」
「ああ、正太郎も元気そうでなによりだ」
 刈谷道場のとなりにある刈谷家では、八年振りの帰還を果たした刈谷新左ェ門と、伊井が遅い朝食をとっていた。
 八年振りに見る親友の姿に、伊井の胸には嬉しさと懐かしさがこみあげてくる。
 新左ェ門はかなり痩せ細ってはいたが、感じる威圧感は昔のままである。むしろ、研ぎすまされた感があり、無気味さが加わったので、見る者は畏怖の念を感じるだろう。緊迫感から、剣の腕をまたあげたのが分かる。
「旅はどうだった?ためになったか?」
「……ああ、でなければ八年も彷徨っていないさ……」
「違い無い……身体の方も支障はなかったのか?」
「まあ、大体はな…一度だけ、道で倒れた事があるが、運よく近くの寺の僧に助けられてな。急死に一生をおえたよ」
「それは危なかったな。無事で何よりだ……」
「…………」
「どうした?」
 伊井は突然動きを止めた新左ェ門に声をかけた。
「いや……」
 実はその寺で弱気になった新左ェ門は、つい水月や雪華の剣の話をしてしまったのである。熱にうかされていたので、どの程度話したか覚えていないが、その結果、平川などという輩に雪華の剣と福田が狙われてしまった。
 新左ェ門はつい先日、片腕となった平川に会ったのである。奴は気がふれて、まともに話ができなくなっていたが、少し話しを聞きだせた。だから、新左ェ門はここに帰ってきたのである。
「……福田は、どうしている……」
 伊井の手が一瞬止まる。
「別に…変わり無くこの道場で教えているよ……」
「誰かと暮らしているのか?」
「いいや?何故だ?」
「…なんでもない…聞いてみただけだ……」
「……新左ェ門、福田殿と勝負をするつもりなのか?」
「その為に帰ってきた……」
「やめる気はないのか?」
「ない」
「何故そこまで水月にこだわる?無用な執着はもうよせ。意味があるのか?」
「俺にとっては十分意味がある。お前にはなくてもな」
「新左ェ門……」
「それに、勝負をしなければ、何の為の修行の旅だったか分からん」
 そうだ、俺はあの美しい水月を手にいれる為に、今まで多くの事を犠牲にしてきた。すべてを賭けてきたのだ。今さらやめるなど、考えられない。
 水月を、福田を凌駕する事をあきらめるのは、新左ェ門にとって死と同じ意味をもつ事なのだ。
 新左ェ門は目を閉じて、福田の姿を思い浮かべた。旅の間、片時も忘れる事のなかった彼の姿を。
 いや、旅の間だけでなく、出会ってからだった……
 八年たって彼は変わっているのだろうか?平川の話は本当か、それを確かめなければ……
「……福田は今日、道場に来るのか……?」
「……ああ…もう来ているかもな……」
『……行くか……』
 新左ェ門は気を静める為、無意識に深呼吸をしていた。
 これから福田に会うと思うと落ち着かない。会った時、自分は平静でいられるだろうか?自分がどういう行動に出るのか新左ェ門は分からなかった。
 平川の話が耳に蘇る。
 それは夜、山の中の川べりで野宿をしていた時だった。平川が偶然新左ェ門を見つけ、話しかけてきたのである。
『これは、これはあの時のお武家様ではありませんか』
『誰だお前は?』
 ぼろぼろの着物を纏った男は片腕で、目の焦点が合っていなかった。見るからに物乞いで、頭や身体を不自然に動かすしぐさから、正気を失っていると分かる。
『これは失礼。私は平川彦蔵という男だが、以前あんたが病気で運び込まれた寺に泊まっていたのさ』
『……ああ……』
 新左ェ門はそっけなく返事をした。さっさと立ち去って欲しかったが、平川は、向いにしゃがみ込んで話し掛けてくる。そして、新左ェ門の話から雪華の剣を知り、奪おうとした事などを話しだした。
『あの時は他にも僧にいろいろと話をしていたな。複雑な事情があるのだろう?』
『…………』
『お前は福田とかいう男に随分執着していたようだな?愛情か?』
『…………』
 何が言いたいのだこの男は?と新左ェ門はだんだんと苛ついてきた。ただでさえ、自分の話から福田を狙ったと聞いて気分が悪いというのに。
『なんにせよ、あの男にはもう他の男がついている』
『何?』
『あの福田といういけ好かない男を慕っている男がな。命がけらしいぞ』
『な………』
『その男は福田を守る為に俺と勝負しやがった!そして俺をこんな姿にしてくれた!』
 平川は涎を垂らし、狂人独特の甲高い笑い声をあげた。
『だが、その男はもうすぐ苦しむ事になる!あの福田が死ぬからだ!苦しんで死ぬからだ!俺をこんな姿にした当然のむくいだ!』
 平川の耳障りな笑い声が辺りに響き、新左ェ門は不快で仕方なかった。
 その夜の事を思い出し、新左ェ門は拳を握った。
『あの平川の言う事が本当なら……』
 絶対に許せない……
『俺は言った筈だぞ福田……』
 水月を受け継いだ以上、それ以外、何も考えるな。人に心を許すな
 誰のものにもなってはならない。俺以外の誰のものにも……と……
『忘れたというのか?』
 自分がどんな思いでこの八年間修行の旅にでていたか……
 この俺をないがしろにするとは許せない。福田も、その男も……
 新左ェ門の瞳が無気味な光をたたえていた。
 その時、廊下から襖越しに女中が伊井に声をかけてきた。
「旦那様、小石川療養所から使いの方がこられまして、福田さんが昨夜、運び込まれたと……」
「なんだと?」
 伊井は襖を開けて女中に直接話しかけた。
「一体なぜ?怪我でもしたのか?」
「いえ、毒物を飲んだらしいのです。一時は危なかったけれど、持ち直したとの事です」
「毒だと?」
 伊井は怪訝な顔を新左ェ門に向け、二人は目を合わせた。二人の間に不遜な空気が漂う。
「命に別状はないのだな?」
「はい。お話ではそうおっしゃっておられましたが、詳しい事は存じません」
「うむ…分った。下がってくれ」
「はい」
 女中は襖を閉めて立ち去った。
「どうしたのだろうな?福田殿は……」
「……………」
 何も言わず考えていた新左ェ門だが、平川の言葉を思い出した。
『苦しんで死ぬからだ!』
 ただの戯れ言だと思っていたが、あれは本当だったのか?平川はもう死んでいるから、奴ではない。福田に毒を盛る手配をしていたのか?
「ちょっと、小石川に行って様子を見てくる。新左ェ門、お前はどうする?」
「…………」
「待っているか?」
「……いや…いっしょに行く……」
 新左ェ門は立ち上がった。

 伊井と新左ェ門が小石川療養所に着くと、福田は眠っているので、このままそっとしておくように言われて面会できなかった。別室で小石川医師が容態の説明してくれる事になり、二人は診療室に入った。
 簡素な白衣に身を包んだ、いかにも人柄のよさそうな老人が座っている。
「小石川先生ですか?」
 伊井が尋ねると。
「ええ、そうです。え〜と福田さんの身内の方ですね?」
「はい。福田殿はどういった状態なのですか?毒物にやられたと聞きましたが?」
「ええ、毒草の一種を摂取したと思われますが、本人が意識不明でしたから何も分からないのです。運んできた人も毒を飲んだという事しか知りませんでした」
「それで、今は?」
「一時は危篤状態に陥りましたが、薬のおかげで持ち直し、今は落ち着いています。しかし、かなり体力を消耗していますから、しばらくはここで療養させてください。もちろん構いませんね?」
「はい、よろしくお願いします。後で治療代をもってこさせます」
「それは、ありがたい。この診療所ではお金を払えない人がほとんどですから」
 小石川医師は軽く笑った。
「あ、でも、薬を持ってきたのは私ではありませんので、薬代はいりませんよ」
「え?では誰です?」
「福田さんを運んできた青年が、薬を持ってまたやってきたのです。名前は……なんでしたかな……結構男前な青年で……」
「……相葉……ですか……?」
「ああ、そうそう。そういう名前でした。彼のもってきた薬のおかげで福田さんは一命をとりとめたのです」
「……そうですか……」
 伊井が複雑な表情を浮かべるのを、新左ェ門は見逃さなかった。
「では私は失礼します。実は奉行所に検死に来てくれと呼び出しを受けましてな」
「奉行所に?」
「村のはずれで五人の男の死体が見つかったそうで、見て欲しいといわれたのですよ」
「五人も?」
「ええ。おそらく強盗団の仲間割れではないかと言われてますがね。では失礼いたします。何か聞きたい事があったら介護人に聞いて下さい」
「はい、ありがとうございました」
 伊井と新左ェ門は診療室から出て廊下を歩き出した。
「今日のところは帰るか…福田殿はしばらくゆっくりさせた方がいいようだし、明日、また来よう。それでいいだろう新左ェ門」
「…………」
「新左ェ門?」
「…相葉とは誰だ?」
「……うちの門弟だ……」
「福田とどういう関係だ……」
「……どうって…教え子と師だ……」
「それだけか?」
「……それだけとは……?」
「親しいのか?」
「……だ、誰が……?」
「福田とそいつだ。相葉とかいう奴だ」
「…ま、まあ…門弟達の間では一番仲がいいかな……」
「……どれぐらい……?」
「その話はまたでいいだろ。早く帰って門弟達の稽古を見てやらなければならん。お前もみてやってくれ」
 伊井は目をそらしながら、それ以上話したくない、といった様子で話題を変えた。足早に歩き、道場に急いで帰ろうとする。そんな彼の様子に何か隠していると新左ェ門は確信した。
『…相葉…か………』
 そいつは平川の言っていた男なのか?
 いずれにせよ、その相葉という男に一度会ってみなければならん、と新左ェ門は思った。
 胸の奥底から、熱い激情が上ってくるのを感じながら………



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