岩城京介…人間の悪魔祓師。胸に『名も無きもの』の印を持つ為、下級悪魔
程度は手がだせない。
香藤洋二…元天使で『名も無きもの』。ルシファーの双児で彼に匹敵する力
を持っていたが、岩城を愛し、人間になる。
アスラン…人間の情報屋。悪魔に対しても天使に対しても中立を貫いている。
ニーソン牧師…岩城の恩師で故人。対悪魔用の武器を開発していた。
トマス神父…ニーソン牧師と対悪魔用の武器を開発していた神父。実はハーフ
ブリッドで今は天国に還っている。

ジェフ…警官で香藤の友人
エルンスト氏…ケルベロスの4人目の犠牲者
ペガサス(チビ)…白い小さな犬。セーラ・コールマンの飼犬で岩城と香藤に拾われる
セーラ・コールマン…18歳ペガサス(チビ)の飼主。行方不明
ニック・ジュドー…悪魔崇拝者メンバーの生き残り

要注意!
今回のお話はかなり残虐なシーンや描写を書く予定ですので、それらが苦手な
方は決して読まないで下さい;;

         名も無きもの ―ケルベロスの牙 7―

 『岩城さんは無事なのか!』
 香藤は自分の身の危険より、それしか頭に思い浮かばなかった。柱をよじ登って
なんとか上の階にたどりついたものの、水かさは増していくばかりで、ここが浸水
するのは時間の問題だった。この地下室が崩壊するのもであるが。
『岩城さんを見つけて早く此処を脱出しなければ!』
「岩城さん!」
 香藤は大声で名前を呼んでみた。通常ならば地下室に響き渡るが、今は水の轟音
にかき消されてほとんど聞こえなかった。それでも香藤は呼ぼうとした時、通路に
小さな白い犬が現れた。
「…チビ……」
 力なく頭を垂れた犬はチビで、初めて会った時と同じ、足をひきずるように歩い
ていた。香藤は水に飲みこまれた下の階を見下ろした。
 セ−ラも悪魔崇拝者達の死体も、すべて濁流に飲まれてしまっている。
「…チビ…いや…ペガサス…お前の主人は…もう…」
 ペガサスは身体をふらつかせて歩きだした。
「ペガサス、どこへ行くんだ?」
 香藤の問に答えるようにペガサスは振り返るが、またすぐに歩きだした。
『連いて来いと言っているんだ!』
 香藤はふらふら歩くペガサスの後を追って、狭い通路を四つん這いになって進み
始めた。

「貴様にはいつか会いたいと思っていたのだ」
 ルシファーは手をのばして岩城の襟首を掴む。
「う!」
 ざわざわと身体にまといつく冷気と悪寒に岩城は気が遠くなった。
「何度悪魔を地獄に送り返してくれたかな?人間にしてはいい腕だ。感心していたん
だぞ。くそ憎らしくなる程にな」
 ルシファーが微笑みを浮かべる。
「簡単に殺してしまってはおもしろくないな。そうだ、あやつが惚れたというその顔
を歪ませてやろう」
 岩城はなんとかして能力を使おうとするが、身体が硬直してしまって動かせない。
胸元のポケットにある聖水すらとりだせない状態だった。
 岩城の顔をルシファーの手ががしりと掴む。が、何も起きなかった。
 ルシファーは眉を寄せたが、次の瞬間高笑いした。
「そうか、貴様あやつと交わったな」
 一瞬ルシファーの言っている意味が分からず岩城は唖然とするが、すぐにその意味
に気付き頬を赤らめた。
「『白い力』が一時的に乗り移っているのだな」
 『白い力』とは天使でも悪魔でも人間のものでもない力で、何物にも汚されず干渉
される事のない力だ。元天使だった香藤はその力を手に入れていたのである。
「いまいましい奴だ」
 ルシファーは岩城の着ていたシャツを掴んで引き裂いた。
「な!」
 肌があらわになった岩城は狼狽え、出来るだけ隠そうと身を捩るがルシファーがす
ごい力で両腕を締め上げてきた。壁に追いやられ、逃げ道を失ってしまう。
「うう…」
「この身体で楽しませてやった訳だ」
 ルシファーの冷たい手が岩城の肌に触れていく。岩城は何千という虫が体中を這い回
っているような嫌悪感を感じる。
「…や、やめろ…」
「なぜ?あやつと私は同じ存在だ。あやつが触れるのと同じ事だろう」
「…ち、違う……」
「何が違うんだ?さあ、私も楽しませてもらおうか」
 悪魔の冷たい手が背中を撫で、唇が耳に触れる。岩城は身体の温度が急速に下がっ
ていくのを感じた。
 ルシファーが岩城の唇に氷の接吻をすると同時に、銃声が部屋に響き渡たる。ルシ
ファーが岩城から手を離して後ろを振り返ったので、完全に気を失った岩城はそのま
ま壁際に崩れ落ちた。
 後ろには銃をかまえたマイクがいた。ルシファーを香藤と間違えて始末しようとし
たのである。
「は、そういえば貴様も殺す契約だったな」
 ルシファーはマイクに近付いていった。マイクは銃を撃つが、弾はルシファーの身
体をすり抜けるばかりで、一向に効き目はない。マイクは蒼白になった。
「こ、この悪魔め!」
 ガタガタ震える手でポケットから十字架を取り出して、ルシファーにかかげてみせ
る。それを見たルシファーは大笑いして、その十字架を奪ってみせた。手の中のそれ
はあっという間に灰と化した。
「残念だったな」
 マイクはただ呆然と立ち尽くしていた。
「神は沈黙がお好きだ」
 ルシファーの手がのび、先程岩城の顔を掴んだのと同じにマイクの顔を掴んでみせ
た。途端にマイクが絶叫をあげる。
 マイクの顔がぐにゃりと歪んだ。悲鳴をあげながら床を転げ回るマイクを、ルシファ
ーはさも楽しそうに笑って眺めていた。顔の次は手が、足が、同体が雑巾を絞るように
ねじれていき、最後は首がねじ切れてマイクは絶命した。
「こんなに楽しいのは久し振りだな」
 ルシファーが振り返ると、倒れている岩城の側に白い小さな犬がすりよっていた。
「岩城さん!」
 ペガサスの後を追ってきていた香藤が通路から部屋に飛び込んだ。そして、ルシファ
ーと対峙した。
「…お前は……」
「何百年…いや何千年ぶりかな……」
「……ルシファー……」
 香藤は自分と同じ顔をもつ、かつての同胞を見つめた。同じ炎から産まれ、同じ顔、
同じ声、同じ能力を持っていた存在なのに、今はこれ程までにかけ離れてしまった。
「…う……」
 岩城のうめき声に気付いた香藤は素早く駆け寄って抱き起こした。
「岩城さん!貴様岩城さんに何をした…」
 香藤は怒りの浮かんだ瞳でルシファーを睨みつけたが、ルシファーは鼻で笑ってあし
らった。
「…人間に堕ちるとはばかな奴だ…人間など、どこがいいのだ?こんな醜い生き物はい
ないぞ」
「……………」
「そこの死んだ男を見るがいい。欲望の為に平気で実の妹を生贄に差し出した。他の人
間達も彼女の苦しむ悲鳴を聞いて楽しんでいた。人間の汚さには時に悪魔とて舌を巻く」
「……………」
「いつか人間どもはこの世界を地獄に落すぞ。悪魔の手など借りずとも自らの手でな」
「…貴様には分からない…」
「…ほう…何がだ?」
「…何の力をもたない人間がどれ程の苦しみに耐えているのか…」
 悪魔や天使と違って人はあまりにも弱い生き物だ。それでも、必死に生きようとして
いる。あがき、もがき、無力さに絶望を味わっても…信じる心を失わない人がいる…岩
城のように…人の醜さを知り、怒りを覚えても、決して憎まない。怒りを悲しみに変え
る人を知っている…
「…人は醜い…だが、同時に……こんなにも愛しい存在はない…」
「なに?」
「…何故、神が人間を愛したのか俺には分かる……」
 香藤は強い意志を持った瞳でルシファーを見つめるが、ルシファーは大笑いした。
「貴様は本当に人間に堕ちたんだな。救いがたい阿呆になった!」
 岩城にすりよっていたペガサスが、パタリとこときれたのはその時だった。
「残念だが、ここまでのようだな」
 ルシファーの身体がみるみる透けだしていく。
「召還者が完全に死んだようだ。こんなおもしろい事になるのなら、ちゃんと実体化し
ておけば良かったな」
「…セーラが死んだのか…」
「ここまで生き延びるとは執念だ。人間の手で呼出されるのは久々だったので、ついお
もしろくてそのままにしてしまった。貴様に会えると思わなかったのでな…」
「……………」
「だが確信したぞ、貴様はいつかその人間の為に地獄に堕ちる。その時を楽しみに待っ
ている」
「ルシファー……」
「貴様と私は同じ存在だ。どれだけとりつくろおうが、堕天した者なのだ!」
 ルシファーの姿が完全に消えると、部屋に水が流れこんできた。
「岩城さん!岩城さん!」
 香藤が岩城を揺さぶり起こすと、ようやく岩城は目を開けた。
「あ…か、香藤……」
 一目で分かる香藤の暖かな瞳に、岩城の胸が安堵感で満たされ、思わず泣きだしそう
になってしまう。
「岩城さん、立てる?急いでここを逃げださなきゃ」
「ああ、大丈夫だ」
 ふらつきながらも香藤に掴まりながら岩城はなんとか立ち上がった。二人は急いでま
だ浸水していない通路に入り、上へと駆け出した。振り返った香藤の目に、水に流され
て行くペガサスの遺体が映る。
『ペガサス、ごめん。ありがとう』
 最後の気力を振り絞って岩城の所に自分を案内してくれた……
 その時、やわらかな光が天から降り注ぎ、ペガサスの魂がゆっくりと上っていくのが
見えた。
『ペガサス…そうか…よかった…お前の魂は汚れてなかったんだな』
「香藤!早く!』
 岩城の声に香藤は慌てて走りだした。
 通路の壁や床が大きく揺れだし、もうすぐ崩壊する事を予感させた。
「岩城さん、そこを右に行って!」
「分かった!」
 岩城が右へ曲がると光りが見えて、二人は大急ぎでその小さな出口に飛び込んだ。
 外へ出ると公園の森の中で、出口は明かり窓のようだった。
 二人は眩しい太陽の光を浴びて、安堵感から力が抜けてしまい、その場にへたりこん
だ。
「…いきなり水脈が崩壊するなんてな……」
「ハワードが爆弾か何かで壊したんだと思う」
「どうしてそんな事が?」
 香藤は一瞬躊躇ったが、セーラとペガサスの事以外は話そうと決めた。
「マイクがセ−ラの遺体を取りに来てたんだ。そこでハワードは彼と証拠を消し去ろう
とここを破壊したんだよ」
「…セ−ラは…死んでいたのか……?」
「…うん……」
「そうか…じゃあ…あの悪魔は……」
 岩城はルシファーに触れられた時の恐怖感を思い出して身震いした。
「岩城さん…大丈夫?」
「…あ…ああ………」
 顔色の悪い岩城を香藤はそっと抱き締めてやった。香藤の暖かい気を感じて岩城は
心が凪いでいくのを感じた。
「…ペガサスも…死んだんだな……」
「……岩城さん……」
「……何もしてやれなかった………」
「岩城さん…チビは無事天に召されていったよ」
「本当か」
 岩城ははっと顔をあげて潤んだ瞳で香藤に問いかけた。
「うん。ケルベロスではなく、ペガサスとして死ぬ事が出来た…それは岩城さんのおか
げだよ。岩城さんのところまで案内してくれたのはチビなんだ。彼の魂は初めて岩城さ
んと会った時と同じ白いままだったんだよ」
「…香藤……良かった…本当に………」
 肩を震わせる岩城を香藤はそのまま気持ちが落ち着くまでっと抱き締めてやった。

 ハワードは公園の近くに止めてあった車に急いで飛び乗った。
 大丈夫、あれで全員死ぬ。これで秘密結社の事を知る者は誰もいなくなり、あのケル
ベロスの騒ぎも終わる。これで自分の身は安泰だ。
 と、不安な自分に必死に言い聞かせていた。後ろから誰もついてくる者がいない事を
確認して、ハワードは前を向いた。
 が、車のフロントガラスに血まみれのセ−ラがへばりついていた。

       *

 後日、新聞には地下水脈の一部が決壊し、下水道に大量の水が流れ込んで電気やガス
が一時的に停止した事が載った。そして、元市会議員のハワード氏が発狂して街を彷徨
っているのが発見された記事も載っていた。
「ハワードは天罰だね…」
「そうだな…」
 アパートの部屋で記事を見た岩城と香藤はそう呟いた。
「ハワードが生きているという事は悪魔との契約は果たされなかったかもしれない」
「岩城さん、それは?」
「おそらくセ−ラは自分を生贄にした者達全員の復讐を契約したと思う。司祭であった
ハワードが儀式にいなかった事はありえないから彼も復讐の対象になっていた筈。それ
が果たされなかった」
「じゃあ、セ−ラの魂は地獄に堕ちなかったって事?」
「かもしれない…だが、悪魔と契約した者だから天に上る事も出来ず、この世を一生彷
徨うはめになるかも…」
 悪霊として……
「……でも、いつか罪が許されて天に召される時がくるかもしれないんじゃない?」
「ほとんどありえない……」
「だけど、ありえない事じゃない、でしょ?」
「まあ、そうだが……」
「じゃあ、信じようよ……俺達にも何かできる事があるかもしれない……」
「…香藤……」
「きっとペガサスはセ−ラを待っていると思うから……」
「そうだな……」
 俯く岩城を香藤はそっと抱き締める。そしてこの腕の中の愛しい人を守りたいと強く
願った。その為なら自分はなんでも出来るだろう。
『貴様はいつかその人間の為に地獄に堕ちる』
 ルシファーの言葉が脳裏に蘇る。いつか、その時がくるかもしれない……
 しかし、自分は決して後悔しないだろう、と香藤は分かっていた。
 これまでと同じように、岩城への想いは変わる事はないだろう。
 例え地獄に堕ちようとも……

                             終

   

イスの都
コルアイユの王グラドロンは、海の妖精との間に産まれた娘ダユーの
「海辺で暮らしたい」という願いを聞き届け、イスという美しい街を
造った。ダユーは誰もが恐れるサン島の巫女の力を借りて、大きな水
門のある高い堤防を造らせる。その後、放蕩なダユーの治めるイスの
街には悪徳がはびこるようになる。ダユーは全身赤い衣装を身にまと
った青年に化けた悪魔にそそのかされて、水門の鍵を渡してしまう。
そしてイスの都はあっけなく海に沈んだ。共に海に沈んだダユーは美
しい人魚となり、歌声に魅せられた漁師たちを海中に引きずり込んで
いるといわれている。
フランスの都パリは、イスの街と対等に美しくなるようにと名付けら
れた。

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