慕 情 5

このお話は「春抱き」小説の「古都」「幽鈴」「玉響」の後という設定になっております

  岩城がいなくなってから十日が過ぎようとしていたが、何の手がかりも掴めないままだった。
 あれから香藤は勘定奉行の一味の捕り物を手伝っている。本来ならこんな捕り物には協力したくないのだが、藤波という男の行方を探るには、これが一番てっとり早かった。それに高田の身体がまだ本調子ではないので、人手不足なのだそうだ。そんな理由もあり、手伝うはめになってしまったのである。
 不正を行っていたという勘定奉行は、あの書状だけでは証拠として不十分とする輩もおり、失脚に追い込むのに苦戦しているらしい。おそらく奉行の息のっかった連中だろうが、予想以上に味方につく者が多かったのである。こうなったら勘定奉行に協力していた奴を一人でも多く捕らえる必要があるのだ。特に藤波という奴は奉行から直接指令を受けていたようなので、決定的な証言者になりえるのだ。もちろん、奉行の方も大人しくはしていないだろう。藤波をどこかに逃がすか、始末しようとする筈である。奴らに遅れをとる訳にはいかない。
 今の時点で岩城の行方を知る唯一の者を殺させてたまるか、と香藤は必死だった。
 例の神社にも何度か足を運び、人々に尋ねたりもしたが目新しい情報は得られなかった。前回行った時に崖下に川が流れているのに初めて気付いた。もしかして船に乗っている人が何か見たかもしれないと、今度は船頭に聞いてみてみようと思っていた。川に落ちた可能性もあるが、岩城の感覚の鋭さから過って川に落ちるとは考えにくい。
『だけど、その時は普通の状態ではなかっただろうから、ありえるかもしれない……』
 江戸中の診療所や町医者はもう行きつくしていたが、岩城が運びこまれた形跡はなかった。
『一体岩城さんはどこに……』
 香藤は暗い気持ちを抱えながらも江戸の町を駆け回った。

        *

 その日、浅野家の別荘では朝から使用人達が慌ただしく動き回っていた。岩城に朝餉を運んできた女中の話だと、倉に眠っていた道具のいろいろを虫干しするそうである。
「年末の大掃除に備えて、少しでも楽にしておきたいですから」
 すこし煩くしますから申し訳ないです、と断ってくれた。
 最近岩城の怪我はすっかり良くなり、屋敷の中を歩き回ったりしているが、記憶の方は戻らないままである。
『もう、思い出さないのだと覚悟した方がいいかもしれないな……』
 と、岩城はあきらめかけていた。しかし、あの胸の痛みは消える事は無かった。感じる度に思い出さなくてはと思う。思って焦ってしまう為、悪循環をくり返していた。
 考え込んでいた岩城の耳にある音が聞こえる。
『え……』
 懐かしさが込み上げるその音に、岩城の胸は弾んだ。邪魔にならないようにと部屋でじっとしていた岩城だったが、無意識に廊下に出ていた。音のする方へと足を運ぶ。
「あら、秋月様いかがなされましたか?」
 女中の一人が岩城に気付き声をかけてくる。
「あ……あの音は……?」
「琴ですか?倉にしまわれていたものですが、今干すところです。浅野のお嬢様が使っていたものなんですが、こちらにはあまりこられなくなってしまって……埃まみれになって可哀想なので拭いていたんです」
「触っても……いいですか……」
「ええ、どうぞ……」
 女中は岩城の手を取って琴の前に座らせてくれた。
「…音が大分狂ってる……」
 岩城は指で弦を弾きながら音の調整をし始めた。深く考えずに無意識の行動だった。
「もしかして、秋月様弾けるんですか?」
「え………」
 聞かれても岩城は何も覚えていないのだから、答えられない。とまどっていると、女中が爪を岩城の指につけてくれた。
「何か弾いてみてくださいな」
『あ………』
 弾く?自分が?
 岩城は気持ちが高揚するのを感じながら、琴を弾いた。
 何も覚えていないのに、岩城の指は自然に美しい旋律を生み出していった。頭で考えるより早く指が動いてしまうのだ。言葉よりも心が先に溢れてしまうのと同じように……
 屋敷の中に美しい琴の音が響きだしたので、使用人達は不思議に思い、音のする方へ足を向けた。岩城のいた部屋の周りはいつの間にか大勢の人が集まってきていた。皆、岩城の弾く美しい曲にうっとりと耳を傾けている。
 岩城は大勢の人が周りに集まっているのに気付かなかった。曲に集中して、音の中に入り込んでいたのである。
 琴を弾きながら岩城は幸せな気持ちだった。
『そうだ、私は琴を弾くのが好きだった…嬉しくて、楽しくてずっと弾いていたのだろう……』
 覚えていなくても、心が知っている。でなければこんなに穏やかな気持ちになれる筈がない。記憶を失ってから絶えず感じていた不安が薄らいでいる。
『そうだ、そして琴を弾きながら、誰かを思い出していた…私は誰かに慕情を抱いていた……』
 きっと自分には愛する人がいたのだ。
 その人が自分にとっての光りだったのだろう。
『思い出したい!』
 岩城は心からそう思った。自分が何者であったのか、誰を想っていたのか知りたい!
 一曲弾き終えた岩城は、いっぱいになった心を抱えながら息をついた。
 途端に周りから拍手が湧きあげる。岩城はその時初めて自分の周りに人が集まっている事に気がついて驚いた。しかし、同時に胸が暖かくもなった。
「すごいですね秋月様」
「すごい上手い、どっかのお師匠さんみたい」
「うっとりしちゃって、聞き惚れました」
「…ありがとう……」
 岩城は照れくさそうに微笑んだ。
『こんな風に大勢の人に囲まれていたような気がする…皆、優しくて、きっと私は幸せだったんだ……』
 記憶が戻らなくて、自分の過去を知る方法はある筈だ、と岩城は決意をした。
「皆、何をしている?」
「あ、伸幸様!」
 使用人達は大急ぎで自分の持ち場に戻っていった。岩城の側にいた女中が浅野に頭を下げる。
「実は秋月さんの琴を聞いていたのです」
「琴?」
「ああ…私が無理矢理弾かせてもらったんです。なんだか懐かしい感じがして……そうしたら自分でも驚くぐらい弾けて……どうも私は琴を習っていたらしい……」
「……そう…ですか……」
 浅野は岩城が何か思い出したのかと気が気でなかった。記憶を蘇らせるような事は何もしてほしくないのだが……
「何か思い出しましたか?」
「いや、具体的には何も…それで頼みがあるのですが……」
「なんです?」
「私を町に連れて行って欲しいのです」
「え?なぜです?何か必要なものがあれば持ってこさせますよ」
「いや、町を歩いてみたいのです…誰か知人が声をかけてきてくれるかもしれないし、私も何か思い出すかもしれない……」
 その危険性があるからこそ、浅野は岩城を町に連れていきたくないのである。
「しかし、身体の方がまだ………」
「身体なら大分よくなりました。お医者様も、これからは極力動くようにして身体を慣す方がいいとおっしゃっていましたし」
「でも……」
「頼みます。私は早く記憶を取り戻したい…戻らなくても自分がどういう者だったか知りたいのです……」
「…………」
 浅野は言葉に詰まった。岩城の言っている事は正論で、これを拒む事はどう考えても不自然である。だが、浅野はどうしても岩城が離れていくような危険は侵したくなかった。
「……分かりました……でも、いきなり町中というのも人が大勢いて心配ですから、まずは近くの寺に行ってみませんか?」
「寺?」
「ええ、この近くに浅野家所縁の妙願寺という寺があるのです。まず近場で身体を外出に慣してから町に出かけましょう」
「でも、そんなお手間は……」
「手間ではありませんよ。岩城さんの身体が心配なのです。そうしましょう」
「そんなに心配していただいて…申し訳ありません……ありがとうございます……」
 岩城が頭を下げるのを見て、浅野はほっとした。
 まず寺に行こうといったのは時間かせぎの為である。この辺りなら岩城を知る者はまずいない。特に妙願寺はは一般の人に参拝は許されていないから、誰かと出会う心配もない。
 この近場に出かけているうちに、江戸の町で岩城が出歩かなかった場所を調べればいい。岩城は印象的な人間なので、一度見た者はたいてい覚えている。しかし、目が不自由なので、行動範囲はそう広くなかっただろう。噂で岩城の事を知っている者がいても、姿を見た者は限られている筈だ。岩城の琴の生徒がいなかった場所を調べ、そこに連れていけばいい。誰も話し掛けてくる人がいないと分かれば、岩城も諦めるだろう。浅野はそう考えたのである。
「では、明日は支度をしますから明後日にでも妙願寺に行きましょう」
「ありがとうございます」
 一方、岩城は浅野の心配りに感謝するばかりで、その本心など知る由もなかった。

     *

「妙願寺あたりが怪しいかもしれんぞ」
「ああ、あの辺りな…確かに町から少し離れているだけなのに、静かで人気もないからな……身を隠すには最適な場所かもしれん」
 香藤達は高田の屋敷に集まり、今後の調べに対しての作戦を練っていた。香藤は当然藤波の行方を追う役目をになっている。怪我がまだ回復しきれていない高田の代わりにいろんな所を調べ回っていた。
「江戸の町は調べつくしたからな…近郊を調べ始めよう。他藩に逃げていない事は確かだしな」
 江戸の外にでる為の関所はすでに手配済みである。山越えをすれば逃げだせない事もないが、今の季節は山に慣れていない者が越えるのは不可能なのだ。
「他に大覚寺やら、金剛寺なんかがあるな。一つ一つ調べよう。どうだ?香藤」
「……分かった……」
 香藤は暗い表情で答えた。
 あれから香藤は川の漁師などの話を聞きにいったが、岩城の情報は何も得られなかったのである。
 それどころか、川に落ちたのなら、この季節で助かる確率は低いと言われてしまったのだ。
『きっと岩城さんは生きている!きっと無事だ!』
 何度も自分に言い聞かせ続けた言葉だが、香藤の心は限界に近かった。
 時々自分は幻を追っているのではないかと思う時がある。もしかして、もう二度と岩城に会えないのではないかという考えに捕われ、気が変になりそうになる。
 しかし、その度に以前菊池の屋敷から岩城を探し出した事を思い出して『あきらめては駄目だ!』と自分を奮いたたせた。
『今はその藤波を探し出す事だ。そして事情を聞かなければ!』

 そう必死に自分のするべき行動をとろうと考えるのだが……
「じゃあ、明日は大覚寺と金剛寺を俺と香藤とで探ろう。その次に日に妙願寺だ、いいな」
「……ああ………」
 頷いた香藤の瞳には、絶望という色が見え始めていた。

               前へ    次へ