竹林の郷 6

「落ち着いた?」
 香藤は岩城に熱い茶を差し出しながら、尋ねた。
「ああ…だいじょうぶだ……」
 香藤は岩城を自分の泊まっている民宿へ連れて帰った。まさか、こんな状態の岩城を、あの家に返す気になれなかったからである。
 雨で濡れていた為、お風呂を順番に使い、やっと部屋でひと心地ついた。
 岩城は湯呑みを受け取り茶を飲んだ。
「……済まなかった……香藤……」
「何?なんで謝るの?」
「迷惑…かけて……」
「迷惑だなんて思ってないよ。それよりさっき言った事守ってよ」
「…ああ……」
 ここに来るまでに、香藤は岩城に自ら命を絶つなどという、ばかな真似は絶対にしない事を、岩城に約束させたのである。
「…大丈夫だ…香藤が言ってくれたから……」
「俺が?何を?」
「生きてくれって…言ってくれた……」
「え……?」
 自分に生きていて欲しいと思ってくれる人がいる。それがどんなに勇気を与えてくれたか、きっと香藤は知らないのだろう……
 岩城は真直ぐに、香藤の顔を見つめながら、笑みを浮かべた。
 そんな岩城の様子は、香藤の胸を高鳴らせた。
 風呂に入ったせいか、青白かった岩城の頬に少し朱色が戻ってきている。濡れた黒髪が白い項にしっとりはりつき、民宿の浴衣があまっているところから、岩城の腰の細さが分かる。
『やばい……!』
 香藤は熱くなっていく身体をもてあまして、視線をさまよわせた。
「も、もう遅いし、寝よっか?」
「そうだな……」
『え?寝る?岩城さんと?ここで!?』
 香藤は重大な事に今さら気付き、慌てふためいた。
「じゃ、じゃあ、もう一つ部屋貸してくれるよう言ってくるよ」
「ここじゃないのか?」
「え………」
「ここでいっしょに寝たらいいんじゃないか?広いし」
「そ、それは……」
「あ、香藤が嫌なら俺は他の部屋で……」
「嫌な訳ないじゃん!全然構わないよ!嬉しいよ!」
 だから困ってるんじゃん!
 と、香藤は心の中で叫んだ。
 動揺を隠しつつ、香藤は岩城と複雑な気持ちで布団を敷いた。電気を消し、共に横になったが、予想通り、香藤が眠れる訳がなかった。
『落ち着け〜いつも通りこの部屋にいるのは俺一人だと思うんだ〜。誰もいな〜い、誰もいな〜い、俺ひと〜り』
 しかし、香藤の脳裏に先程の風呂あがりの色っぽい岩城の姿が浮かんでくる。
『え〜い、散れ、散れ!』
 香藤が暗闇で葛藤していると
「…香藤……」
 いきなり岩城に名前を呼ばれて、香藤は口から心臓が飛び出しそうになるくらい驚く。
「な、ななななに?岩城さん………」
 もしや、自分の邪心を見抜かれたかと、香藤は焦った。
「…そっちにいってもいいか…?」
「え!」
 思わぬ言葉に香藤は固まってしまう。
「…いいんだ……変な事言ってすまなかった……」
「い、いや違うよ!ちょっと驚いただけだよ!こっちにきたかったらどうぞ、遠慮しないで」
「……そうか…ありがとう……」
 暗い部屋の中、岩城の動く気配がする。香藤の心臓はバクバクと高鳴り、今にも飛び出してきそうだった。
 岩城がそっと香藤の布団に入ってくる。そして、頭を香藤の胸に埋めたのである。
『ええ〜!?ちょ、ちょと岩城さん!?』
 香藤は焦りに焦った。
『ま、まさか、これは、もしかして、さ、誘われているのだろうか!?そ、そんな嬉しい事っていや、待て、早合点するな!落ち着け、落ち着くんだ!でも、俺告白したんだから、気持ち知っているよね!?』
 などと、香藤が自問自答している間、岩城は香藤のぬくもりを感じてほっとしていた。
 あの竹林の中で香藤が言ってくれた言葉のおかげで、自分はどれだけ救われただろうか。本当に嬉しかった。生きたいと思う心を素直に認める事ができた。そして、最後まで諦めず、生きる努力をしてみようと決意したのである。
 しかし、暗闇に覆われると、岩城は不安に襲われたのだった。竹林の中からのびてくる大きな手に脅えてしまう。負けてしまいそうになる。
 でも、こうして香藤のぬくもりを感じていると、また、勇気が湧いてくるのだった。
 彼の身体は太陽の匂いがする。あの暖かくて眩しい……
 岩城は香藤の腕の中で、久しぶりに安らかな眠りについた。
 一方、香藤はと言えば、安らかどころではなかった。
『据え膳食わぬは男の恥だろうか?』
 などと、自分の都合のいい方へもっていこうとした時、岩城の穏やかな寝息が聞こえてきたのである。
『え?岩城さん寝ちゃった?本当に寝るだけだったの?』
 香藤はがっくりしたが、すぐにそんな思いは消し飛んだ。
 なんせ、こんな近くで岩城が無防備な状態で眠っているのである。
 可愛い寝息が香藤の胸にあたり、えも言われぬいい香りが鼻孔をくすぐる。
 香藤は持てるすべての理性を書き集めて、自分の邪心と戦わねばならなかった。
『駄目だ、駄目だ、押さえるんだ、俺の○○!今、岩城さんは傷ついてるんだ!こんな時にさらに追い討ちをかけるような事は絶対にしては駄目だ!』
 何度もそう自分に言い聞かせる。でも、身体は正直でつい、岩城の身体に腕をのばしてしまう。
『駄目だ〜!』
 香藤は思いきり自分の手をつねった。
『いで〜!』
 こんな調子で香藤はその夜、一睡も出来なかった。
 翌日の朝、香藤の目が赤く腫れ上がっていたのは言うまでもない。

         *

 二日後、忠男の通夜と葬式が行われた。あれからずっと香藤の所にいる岩城は、葬式に顔を出すべきか迷った。しかし杉子の気持ちをくんで、行かない事にした。
 葬式の間中、杉子は心ここにあらず、といった感じでボーっとしていたそうである。弁護士の馬場から香藤が聞いたところ、こんな事態になってしまったので、近々遺言書を公開するそうだ。探偵からは何も連絡がないし、詐欺として警察に届けるつもりだとも話していた。

 次の日、香藤は明智探偵のところに電話をかける為に役所にでかけた。調査の具合を知りたかったのである。
 岩城を一人残していくのは心配だったが
「だいじょうぶだ、お前がいない間にいなくなったりしないから」
 と、岩城が約束してくれたので、出かける事にした。彼は決して約束を破ったりしない。

 事務所に電話をかけた香藤は意外な事実を聞かされた。
「本当ですか!?」
『ああ、小林君が確認をとってくれたんだ、間違いない』
「……そうか…それで……ありがとうございました」
『ああ、お前が頼んでた沼の捜索許可が警察からおりたぞ』
「あ、ありがとうございます。お手間とらせてしまって……」
『いや、たいした事じゃない。しかし、沼から何がでるんだ?』
「……あまり俺にも確信がなかったんですが、今の話を聞いて確信がもてました。すぐにでも、沼を捜索します」
 香藤はすぐに駐在さんのところに行き、例の底なし沼を捜索したいから、協力してくれと頼んだ。駐在さんは訳が分からない風だったが、許可を確認してから、人員を集めて沼に案内してくれた。
 竹林の奥にあるその沼は、辺りの静けさも手伝って、無気味な雰囲気をかもしだしている。
 底無しといっても本当に底が無い訳でない。やわらかい粘土層や、泥などが堆積しているので、人の体重を支えるだけの力がないのである。さほど大きい沼ではないので、船は二隻もあれば十分であった。三人の警官と、駐在、香藤とで泥に棒をつっこみかき回していると、やがて声があがった。
「こっちで何かひっかかりました〜!」
「よし、引き上げてみろ〜!」
「はい、ん?うわ!」
「どうした?何がでた?」
「し、死体です!人間の!」
「何!急いで引き上げろ!」
 香藤は心の中で、やはり、と思った。何かを隠すとすれば、ここだと思った。
 人は不気味がってほとんど近付かないし、沼の微生物達がすぐに死体を分解してくれるだろうから。

       *

 岩城は一人、民宿の香藤の部屋で本を読んでいた。しかし、ちっとも集中できず、何度も時計を見てしまう。
 香藤がいなくなってから、三時間程たっている。窓から外を眺めると、辺りが暗くなり始めていた。
『遅いな……』
 岩城は少し不安になった。
 香藤の、あの明るい笑顔を見ていないと、また自分は闇に引き込まれそうになる。
 竹林の中から自分の名を呼び、手招きするあの声に負けてしまいそうになる。
 岩城はとっさに耳を塞いだ。
『やめてくれ、俺は、俺はまだ、こっちの世界にいたんだ』
 香藤の側にいたい……
『あ………』
 岩城は自分の思いに驚いた。
『俺は……香藤を……』
 頬が赤くなったのが自分でも分かる。
 香藤と会ってから、岩城は自分が変わっていくのを感じていた。彼といろんな話をしている時、今まで見る事をあきらめていた将来の事を考えていた。自分に未来などないと思っていたのに……
 もっと、もっと広い世界があるのを知っている。心の奥でそこに飛び出していきたいと願っている自分がいる。もしかして、香藤となら、香藤といっしょなら行けるだろうか……
 その時、襖が開く音がした。
 香藤が帰ってきたのかと思うが、部屋に入ってきたのは松江であった。
「……松江…さん……」
 意外な人物の来訪に岩城はとまどう。
「どうか、なさいましたか?」
「……死んで……」
「え……?」
「義男の為にあなたは死ぬべきです」
「……………」
 松江は懐から小柄を取り出した。岩城の母の形見のあの小柄である。
 あの時、竹林で香藤が投げ捨てたのに……!
 松江は小柄を降りかざして襲ってきた。岩城はすんでのところでかわして逃げる。
「ま、松江さん……」
 松江は義男が祟りで死ぬ事を恐れているのだろうか?
 もし、本当に義男が自分のせいで死ぬのだとしたら、岩城は殺されてもいいと思った。
 しかし、死ぬのなら最後に、もう一目だけ香藤に会いたかった。もう一度でいいから、一目だけでも……!
 自分の気持ちを伝えられないまま死んでいくのは嫌だった。
「往生際が悪い奴だね!おとなしく死になさい!どうせ死ぬ気だったんだろ!」
「え……」
「あの男が邪魔をしなければ、お前は死んでくれていたものを……!」
「松江さん……」
「さあ、お前も死ぬんだよ!」
『お前”も”?!』
 岩城はその言葉に本能的な恐怖を感じた。
 暗い部屋の中、小柄を降りあげる松江の顔は、まるで夜叉のごとくに見える。その歪んだ顔はまさに殺人者の顔であった。

       *

 半分腐りかけた泥だらけの死体を引き上げてみると、背広を着用しており、どうやら男のようである。
「誰ですかね〜こいつ……」
 駐在がハンカチを口にあてながら呟く。
「馬場さんに雇われた探偵ですよ」
「え?!あの、隠し子の調査をしてるっていう?!い、いったい誰が!?」
「こっちに、また何か引っ掛かりました〜!」
 捜索を続けていた船の警官が声をあげる。
「何!?また、死体か?!」
「いえ、違います〜女物の着物のようです〜!」
「女物の着物?では、女の死体がまだ、この沼に?」
「いえ、違います。多分かえり血を浴びたので捨てたのでしょう」
「かえり血?じゃ、じゃあ、この探偵を殺したのは女だっていうのかい?一体誰が?」
「……松江さんです……」
「ええ!松江さんが!な、何故?!」
「明智先生の調査によれば、松江さんは、この探偵と内密に連絡をとりあっていたらしいのです。おそらく、隠し子がいたとしても、いないと報告して欲しいとかなんとか頼んでいたのでしょう」
「じゃあ、なんで殺すんだい?」
「探偵が隠し子の正体を知って脅迫してきたと思われます」
「それで、殺したっていうのかい?じゃあ隠し子は本当にいた訳だ。でも、誰だったんだろう?」
「……岩城さんです……」
「…へ?岩城さんって…あの……そ、そんなばかな〜!」
「俺もついさっき聞いたばかりですが、すぐには信じられなかったです。でも、産婆さんが記録を持っていたそうで、間違いないらしいです」
「……そんで、野崎の旦那はあんなに岩城さんを可愛がっていたんだな〜…実子だったとは……」
「……………」
 だから手元に置いておきたがったのだ。
「じゃあ、あの教授を殺したのも……」
「ええ、松江さんでしょう。でも、これは初めから計画していたのではないと思います。多分、探偵の殺害現場を寺本教授に見られてしまった為に殺したのでしょうね」
 香藤の推理はこうだった。
 この沼で探偵を殺したが、それを道に迷った寺本教授に目撃される。咄嗟に松江は教授も殺すが、困った事になってしまった。
 探偵はこの村に来た事を誰も知らないし、探すような身内もいない。このまま沼に死体を放り込んでいても捜索などされないだろう。だが、寺本教授はいなくなれば、身内などが、心配して捜索願いを出すに違いない。この村に来ていた事は皆が知っているのだから、この沼もさらわれるかもしれない。そうすれば、探偵の死体も見つかってしまう。寺本教授の死体は隠す訳にはいかない。
 そこで、松江は竹の華の伝説を利用する事を思い付いた。ちょうど、寺本教授は調査に来ていたのだから、祟りにあうには恰好の餌食だった。
 女の力で遺体を運ぶ事は容易ではないし、引きずった跡が残っては元もこもない。その為に運びやすいように、遺体をバラバラにしたのだ。
 さらに悪い事に松江はそれを利用して、遺産相続に邪魔な者達を排除しようと考えたのである。
 御竹様の呪いで死んだ事にすればいい。そうすれば遺産はわが子のものだ、と。
 忠男は町に帰る気だったので、松江は急いで呼び出した。村で殺されなければ呪いにならないからである。多分人にきかれたくない話だから、人の近付かないあの竹林で、とでも言って呼び出したのだろう。
『町に帰る前に岩城さんを襲った訳だ』
 香藤はいくら死んでしまったとはいえ、忠男に怒りを感じずにはいられなかった。
 刃物で忠男の喉を切り裂いて殺した後、御竹様の呪いにみせようと竹を突き刺した。
 話を聞いていた駐在が、ぶるっと身体を震わせる。
「そ、そんな恐ろしいこと、よく……」
「我が子を思う母親なればこそですね。義男君はあんな状態の子ですかから、将来を心配するのも無理はないですが……」
 そう思っても香藤は松江が許せなかった。
 なにより彼女はこの殺人を祟りにみせかけ、岩城を自殺するよう追い込んだからである。
 彼女は探偵から話を聞いて、隠し子が誰であるか知ったに違い無い。
 そして何故寅男が自分の子供の義男より、岩城を可愛がっていたか理解しただろう。憎しみが燃え上がったのも手伝って、この計画を思い付いたのだ。
「香藤さんは、なんで松江が犯人だって分かったんだい?」
「俺が変だな、と思ったのは、初めて野崎家を訪れた時です」
「へ?そんなに早く?なんで?」
「皆が集まって馬場弁護士に向かって探偵はまだかと言い合っている時でした。そこで松江さんが『仮に探偵が現れたとしても〜』と言ったんです」
「?それが?」
「おかしいな〜と思ったんですよ。皆、探偵を待っているのに、まるで来ない方が正しいような言い方でしたから。だって来る方が仮の話として話しているんですよ」
「あ!そうか!自分が殺したから、探偵が来れない事を知っていた訳だ!それで仮に〜という言葉がでたんだな!」
「ええ。この事件は遺産に関係ない寺島教授が殺された事と、この土地の土壌にある竹の華の伝説で、皆の目が狂わされてしまったんです。実際は遺産目的の殺人ですよ」
「なる程な〜。では、さ、さっそく野崎松江を重要参考人として捕らえましょう」
「それがいいですね。ぐずぐずしていると、岩城さんまで殺しかねませんから」
「分かった、じゃ、今からすぐに……」
「俺も行きます」
 駐在と香藤は一人の警官を伴い、すぐさま野崎家に向かった。空を見るといつの間にか夜のとばりがおり始め、黒雲がたちこめてきていた。
 嫌な雲の色だ、と香藤は思った。

 玄関で、駐在が「松江さんはいるかね?」と、家政婦に尋ねていると、家の中から悲鳴が聞こえた。
「どうした!」
「!」
 香藤と駐在が中へ駆け込む。すると、廊下で腰を抜かしている若い女中がいた。
「どうしたんだ!」
「…あ、あれ……]
 女中が震えながら指さした先の部屋に飛び込むと、杉子が首を吊って天井からぶらさがっていた。
「なんてことだ……」
「駐在さん、どいてください。急いでおろしましょう!蘇生するかもしれない!」
「あ、ああ!」
 香藤は急いで持って来た椅子に登り杉子を下ろしたが、完全にこときれていた。
「駄目か……」
 香藤はくやしくて唇を噛んだ。
「まさか自殺するなんて……」
「駐在さん、自殺ではありませんよ」
「へ?どうして……」
「首についている跡を見て下さい。首にほぼ水平についているものと、ぶら下がってできた斜の跡と、二つあります。水平にできたのは、誰かが背後から首をしめた時にできた跡です。殺した後、自殺にみせかける為に吊るしたんです」
「こ、これも松江さんの仕業かね!」
 香藤はゆっくり頷いた。
「松江さんはどこです?」
「そ、それが、先程から姿が見えません」
 若い女中が震える声で告げた。
「何!?香藤君、ま、まさか逃げたんでは……」
 香藤はハッと顔を上げた。
「岩城さん!?」

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