小鳥遊 友弘(たかなし ともひろ)
   …34歳、能面師、果月の義理の父
小鳥遊 果月(たかなし かげつ)
   …20歳、能楽師、小夜子の子。父親は不明
小鳥遊 小夜子(たかなし さよこ)
   …没29歳、故人、旧姓は近江小夜子。十郎の姉
近江 十郎(おうみ じゅうろう)
   …34歳、能楽師、近江家の嫡男で小夜子の弟。果月の叔父
近江 玄雄(おうみ げんゆう)
   …66歳、能楽師、近江家の家長。十郎、小夜子の父で果月の祖父

     秘すれば………3

 次の日、果月が稽古に近江家を訪れると、十郎はすでにいなか
った。
 友弘が早く来てくれる事を祈って稽古を始める。
「違う、もっと間をとって」
 玄雄が果月に厳しく教え込む。
 果月が舞っているのは『羽衣』である。彼は三番目の鬘物が少々
苦手である為、最近はその演目に重点を置いて練習しているのだ。
 『能』の正式な番組は、狂言を挟んで五種類の演目が上演される
『五番立て』なのだが、今ではほとんど省略化している。
 上演される演目の種類は順番が決まっていて、初番目は「神の能」
祝事がテーマで男神、女神、荒神などが主人公。二番目は「修羅物」
といわれる修羅道の地獄に苦しむ武人の曲でほとんどが源平の戦い
をモチーフにしている。そして三番目は「鬘物」ともいう女性を主
人公にした幽玄美溢れる曲柄。四番目は「雑能物」といい最も人間
的なジャンルで、他のどこにも属さない演目がここに入る。現行曲
の1/3がこの「雑能物」である。五番目が「切能物」という鬼や天
狗、竜神などが主人公の強烈なパワーの能で終演するのである。
 果月が得意とするのは二番目の「修羅物」や四番、五番の中のダ
イナミックな舞だ。
 果月はまだ若く能役者にしては背も高い方なので、へたすれば大
振りに見える為、優美さを身につけるのはまだまだ修行が必要であ
る。もちろん同じ年頃の役者の中では郡を抜いているが、玄雄の稽
古は容赦がなかった。
「違う!」
 玄雄が果月の背中を突いたので、果月は舞台から落ちてしまう。
慣れっこな果月はすぐに起き上がり舞台に戻って稽古を続けるが、
見慣れていない弟子達は、自分達の時とは違う玄雄の厳しさに驚い
ていた。
「旦那様、失礼いたします」
 女中が稽古場の入り口から玄雄に声をかける。
「なんだ?」
「お稽古中申し訳ありませんが、小鳥遊様が面を届けに来られまし
た」
「そうか、すぐ行くから部屋で待ってもらってくれ」
「かしこまりました」
「友弘が来てくれたようだ。ちょっと行ってくるから、お前は先程
の箇所を繰り返し練習しておけ」
「分りました」
 稽古場を出て行く玄雄を見ながら、どうやら十郎が帰る前に来れ
たようだ、と果月はほっと息をつく。
 安心して稽古に専念していたので、弟子の「もうすぐお昼ですよ」
という声でかなりの時間がたっている事を知った。
『友弘はもう帰っただろうな』
 舞台から降りてタオルで汗を拭っていると、弟子の会話が耳に入る。
「十郎先生まだ戻られないのか?」
「いや、少し前に戻ってらしたけど、能面師の人と玄関で会ってどこ
かに行ったみたいなんだ」
「!なんだと!」
 いきなり果月が大声をだしたので、他の皆は飛び上がって驚く。
「どこに行ったんだ!十郎と友弘は!」
「え、え、あ、な、中庭の方に行ったみたいだけど……」
 怯えながらの返事を聞いた果月は、足袋のまま中庭に向かって駆け
出していた。

「すまんな、こんなとこに呼び出して……」
「いや……」
 丁度玄関で女中さんに見送られて近江家を出ようとした時、友弘は
帰ってきた十郎とはち合わせしたのである。
 十郎はグレーの背広姿で、着物を着ている時よりシャープな雰囲気
だった。
 一瞬驚き、礼をしてすばやく彼の横を通り抜けようとしたのだが、
呼び止められた。
「……話があるんだ……ちょっと来てくれ……」
 そして、そのまま中庭に誘われたのだ。
 友弘は十郎と三歩程離れた位置を黙って歩いた。
「……月華流の常連のお客さんでお前に帯止めを作って欲しいとおっ
しゃってきた女性がいるんだが、頼めるか?」
「え………?」
 友弘は能面の他に木彫りの帯び止めや、着物の絵柄など描く仕事も
やっている。能面だけではどうしても需要が足りず、生活していけな
いからだ。
「着物の写真は後で送る。その着物に合う花の帯留が欲しいそうだ」
「分かった……まず、イラストを見せて気に入られたら製作するけど、
それでも構わないのかな?」
「多分な……電話番号も後で教えるから直接話してくれ」
「分かった………」
「……………」
 会話が途切れたので友弘はそのまま立ち去ろうとした。
「……じゃあ、失礼します……」
「友弘……」
 去ろうとした友弘にまた十郎が声をかけて呼び止める。
「……なんだ……?」
「……俺が…憎いか……?」
 友弘は言葉に詰まり、静かに頭を横に振った。
「……なぜだ……俺はお前に………」
「……………」
 二人の間に沈黙が落りる。
「……十郎……俺は小さい時からお前と友達なのが自慢だった……」
「……………」
「行動力があって、言いたい事もはっきり言って、自分の意志をしっ
かりもってて、お坊っちゃんなのに変に驕ったところがなくて、人に
は見せないけど何十倍も努力家で………」
「……………」
「人を思いやる心ももってる……お前は大切な友人だと思ってた……
今でもそうだ……」
 十郎は我が強くてはっきりした物言いをするので、誤解されやすいが、
つきあってみると間違った事を言っていないと分るのだ。人に厳しいと
ころもあるが、十郎が誰より厳しいのは自分だった。
 近江家の跡取りとしての責任と期待を一身に受け、それに応える為
に絶えず努力していたのを知っている。
 そして自分にはとても優しかった……
 小夜子との結婚が決まった時、十郎は反対した。
 彼女はお前を利用しようとしているだけだ、犠牲になる事はない、
もっと自分を大事にしろと………
 だが、自分は彼の忠告を聞かず小夜子と結婚したのである。
 反対した彼の言葉の裏にどんな気持ちが潜んでいるのか考えもしなか
った。
 どんな気持ちで自分達の結婚を見ていたのかと思うと胸が痛かった。
 友弘が十郎を避けるようになったのは、十郎が憎いからではなく、彼
をこれ以上煩わせたくなかったからだ。
 自分の姿を見る度にきっと彼は辛い思いをするだろう、あの時の行動
を彼は後悔している。
 そして、どんなに想われても応えられない自分を知っているから………
「……友弘………」
「ん………?」
「……俺は……まだお前を………」
 十郎の熱い視線を受けて友弘はとまどう。瞳を逸らして背中を向けるが、
十郎が腕を掴んで引いた。
『え………?』
 気付くと背中から十郎に強く抱き締められていた。
「……あ…………」
「……友弘………」
 肩に感じる十郎の囁きがあの日の熱さと重なる。
 恥ずかしくてたまらなくなった友弘は、思いきり十郎を突き飛ばして
彼の腕から逃げ出した。
 友弘の後ろ姿を見送り、十郎は自分の手をじっと見つめた。先程まで
彼の体温を感じていた手を……
 突然、殺気を感じて十郎が視線を巡らすと、遠くから自分を睨み付け
ている果月が目に入った。
 彼の瞳は怒りに燃えていて、両の拳を固く握りしめている。
 何を見て彼がそんなに怒りを露にしているのかすぐに分かったが、十
郎は果月とは正反対に涼し気に視線を受け止めていた。
 十郎が踵を返し、屋敷の中に入っていくと、一人残された果月は止め
ていた息を大きく吐き出した。
 十郎が友弘を抱き締めている光景が目に飛び込んできた時、全身の血
が沸騰するかと思った。まだ身体は熱く、怒りは鎮まらない。
 すぐに友弘が十郎の腕から離れたので良かったが、あのままだったら
自分はどうしていただろう?十郎を殴りつけていたかもしれない。
『あいつはまだ友弘に何かする気か……?』
 妻帯者のくせになんて奴だ!
 再び湧いてきた怒りで身体が熱くなる。
 絶対に友弘は十郎にはやらない。
 俺が守ってみせるのだと、あの日誓ったのだから……
 もう二度と彼を泣かせるような真似はさせない。
「絶対にだ………」
 知らずに言葉が果月の口をついて出ていた。
 寒空の下でしばらく佇み、なんとか落ち着きを取り戻してから稽
古場に戻る。
「果月、探したぞ。どこに行っていた?」
 戻るなり探していたらしい玄雄に聞かれるが、答えられなかった。
「………すみません………」
「まあいい、話があるので部屋に来てくれ」
 家に上がろうとして、果月は自分が足袋のまま外に出たのに初め
て気がついた。
 裏は泥がついていて、まるで今の自分の心についた染みのようだ
と思う。
『…くそ………』
 忌々し気に足袋を脱ぎ捨て、裸足のままドカドカと廊下を歩いた。
 玄雄の和室に入った二人は向い合せに腰を降ろす。
「来年の新年会の演目だが」
「はい」
「お前には『二人静』のツレを演ってもらう」※ツレ…助演の事
「では、シテは?」※シテ…主役の事
「……十郎だ……」
「あいつが……!?」
 先程の怒りも手伝い、果月は吐き捨てるような口調だったので玄
雄はため息をつく。
「あいつとなんて冗談じゃありません。お断りします」
「……お前達の仲の悪さ……なんとかならんのか……?」
「……………」
「お前がこの家にいた時からろくに口も聞かなかったし、一度も同
じ舞台に立っていないではないか。仮にも叔父と甥なんだぞ。少し
でも歩み寄ろうとは思わんのか?」
 俺じゃない、あいつが悪いんだ、と果月は心の中で叫んだ。
「……十郎は承知したぞ……」
「……………」
 それでも説得するのに時間がかかり、新年会の演目を決めるのが
遅れた原因でもあった。
「この世界でやっていく以上、十郎を避けて通る事は出来んぞ。近
江家の跡取りであり、これから月華流を担っていく人物だ。親であ
る私が言うのもなんだがあいつは天才だぞ」
「……………」
「あやつの『井筒』(いづつ)などは、私でさえも感嘆するほどだ」
 『井筒』は初恋の幼馴染みと結ばれ、死してもなお慕い続ける女
の純愛の舞である。
 諸国を旅する僧が在原寺に立ち寄った際、「井筒の女と呼ばれる
有常の娘」と名乗る里女が現れる。女は井戸の水を汲み上げて、在
原業平とその妻の話をして姿を消した。僧が仮寝をしていると夢の
中に先程の井筒の女の霊が現れ、業平の形見の衣装を身につけ、恋
い慕う舞を舞って消えていくというあらすじである。
 起伏のない物語で、謡も舞も静かな「静寂の能」であるが、だか
らこそ純粋な恋の激しさを感じる演目なのだ。作者の世阿弥も「井
筒上花なり」という言葉を残している。
 世阿弥とは室町時代に『能』を現在の芸術の域にまで高めた天才
能楽師である。
 三年前の秋の宴能会で十郎はこの『井筒』舞い、大絶賛された。
 井筒の女が井戸を覗き込み、水面に映る業平の衣装をつけた自分
の姿に、恋しい業平の面影を見る名場面では、気品と純粋な恋心に
圧倒され、場内は水を打ったような静けさであった。
 おおげさな雑誌記者などは『世阿弥の再来か!?』とまで書きた
てた。あまりに素晴らしすぎて、以後、同流で『井筒』を舞ったの
は十郎だけである。
「果月…お前……十郎と舞って比べられるのが怖いのか……?」
「な……!違います!」
「では、受けるな?」
「……………」
「これは頼んでいるのではない、命令だ。嫌なら新年会には出さん。
どうする?」
「…………分りました………」
 果月はしぶしぶ承知した。
「では、本番の時はこの面をつけるがいい」
 玄雄が傍らに置いてあった木の箱を果月の前に差し出し、蓋を開
ける。中には清々しい『小面』の面が入っていた。
 『小面』は女面の中でも一番若い十五、六の乙女の面である。
「友弘に依頼してあった面だ。さっき届けてくれた」
「友弘の打った面ですか?」
 果月の胸が少し跳ねる。今まで彼の打った面をつけた事はなかっ
たからである。
 彼はいつも言っていた。
―――『能面』は能楽師がつけてこそ完成される。魂を込めるのは
能面師だが、命を吹き込みのはお前達能楽師なのだ―――と。
 友弘の打った面に自分が命を吹き込む任を受けたと分かって、果
月は微かな恍惚を覚えた。
「彼の打つ『小面』は品があって清楚だ。女面では日本で五指に入
る能面師だな」
「はい」
「なにより彼の面は縁起がいい」
「というと?」
「実は十郎が三年前に『井筒』を舞って絶賛された時も彼の面をつけ
ていたのだ」
「え…………?」
「それからだ、あいつの『井筒』が見違えるようになったのは………」
 果月は心の染みが広がっていく気がして眉をよせた。
「友弘の面は能楽師の感性を磨かせる力があるのかもしれん。もっ
とも、能楽師の方にそれを表現できる能力がなければ意味がないが。
果月、『二人静』はツレの担う役割が大きい。本来ならばシテと拮抗
する役者が舞う役だ。十郎と相舞するとなると生半可な出来では通用
しないから心して取り組め」
「……はい………」
 宴能会、友弘の打った面、鬘物の演目、三年前の十郎の時と同じ条
件が揃っている訳である。
『負けるものか……!』
 果月の瞳に炎が灯り始めた。
 その後の稽古は『二人静』となり、果月と玄雄の熱の入った取り組
み様に誰も声をかけられなかった。
 玄雄がいなくなった後も果月は時間の許す限り稽古を続け、近江家
を出たのは、夕食の時間もかなり過ぎた頃であった。
『友弘心配しているだろうか?』
 少し急ぎ足で帰路を歩いていると、友弘の自分を呼ぶ声が聞こえた。
「え?」
「果月、こっちだ」
 後ろから友弘が近付いてくる。
「今帰りか?遅かったな」
「ちょっとな。友弘こそどうしたんだ?こんな時間に」
『もしかして、俺を心配して?』
「醤油がきれてたから買いに出掛けたんだ」
 友弘が持っていたスーパーの袋を上げてみせる。
「………………さよけ……」
 果月の気が抜ける。
「どうした?」
「一気に現実的生活感が蘇ってきた………」
「ふふ……そういえばそうだな。お前は今まで幽玄の世界にいた訳
だから」
「まあね……」
 二人は並んで歩き始める。ふと見ると友弘の格好は軽装で寒そう
だった。
「寒くないのか?」
「ちょっと買いに出ただけだから」
 果月は自分がかけていたマフラーをはずし、友弘の首に巻き付け
た。
「つけてろ」
「あ、でも果月が寒いだろ?」
「友弘の恰好見ている方が寒い」
「……ありがとう……そうだ、お義父さんに聞いたけど、今日持っ
ていった面、お前がつけるんだって?」
「ああ………」
「そうか、嬉しいよ……何を舞うんだ?」
「『二人静』のツレ」
「へー、シテはお義父さん?」
「……十郎……」
「………そうか……十郎か………」
「……………」
「お前、彼と同じ舞台に立つのは初めてじゃないのか?」
「そうだな……」
 果月は今日の光景を思い出し、今ここで尋ねてみたくなった。
「……十郎と何か話していたのか?」
「え……?」
 友弘は狼狽した様子で、語尾が微かに震えている。
「お弟子さんがそんな事言ってたから」
「ああ、聞いたのか?」
 話している場面を見たのではないように思わせて安心させた。
「帯留の製作の依頼受けただけだよ。贔屓筋のお客さんの発注らしい」
「それだけ?」
「それだけだよ」
「……………」
「……果月……」
「なに?」
「……十郎は優しい人だぞ………」
「………は………?」
 あまりに意外な言葉だったので、果月はすっとぼけた声をだした。
「……お前や小夜子さんに対する態度は確かに冷たかったと思う。で
も、中傷したり、嫌味を言ったりはしていないだろう?」
「……………」
「何も言わないのも優しさだと思うぞ」
 果月の怪訝そうな視線に気がついた友弘は、さらに言葉をつないだ。
「お前だって相手が傷つくかもしれないから、言いたくても我慢する
時があるだろう?」
「え………」
 自分の心を見透かされた気がしてドキリとする。
「十郎は家の跡取りとしての責任を真っ当する為、たくさん我慢して
いるんだと思う……分かりにくいだろうけど、ちゃんと人の気持ちを
考えてるし、身勝手な人じゃないよ」
 今日、友弘は面を納めに行った時、玄雄と少し話したのだが、彼も
十郎と果月の仲違いに胸を痛めていた。
 同じ能楽師として少しでも歩みよってくれたら、とぼやいていたの
である。
 今度の『二人静』は二人の仲が少しでも良くなるように、玄雄がセ
ッティングしたのではないだろうか?
『お義父さんの望みどおり、少しでも打ち解けるきっかけになったら
いいのに……』
「お前と十郎が仲良くなってくれたら、お義父さんも喜ぶだろうし俺
も嬉しく思うよ」
「……………」
 黙って友弘の言葉を聞いていた果月は、ここが外で良かったと思
った。
 もし、二人きりの室内だったら自分が何をするか分らないからであ
る。
 隣で自分を信頼して歩く友弘を、ひどく裏切ってやりたい気分だっ
た。
 果月は友弘より頭一つ分ぐらい背が高く、体格も勝っている。
 『能』は静かな動きの印象があるが、実は体力勝負の芸能で、かな
りの持久力を要求される。涼し気な着物の下はいつも汗まみれで、三
歳の時から稽古をしている果月の身体は、しなやかで無駄のない筋肉
がついていた。
 力も完全に自分の方が強く、決して適わないと友弘に思い知らせて
やりたかった。
 押さえ付け、ねじ伏せて、自分に服従させ、もう二度とそんな事を
言うなと命令するのだ。
 十郎と仲良くしろなどと………!
 凶暴な支配欲を押さえる為、果月は気付かれないよう何度も深呼吸
せねばならなかった。
 少しでも家に着くのを遅くしようと、わざとゆっくり歩く。まるで
足枷でもつけているような気がして、六年前にも同じ事を感じたと思
い出す。
 ただし『恋重荷』を背負っているのは今度は自分の方だった………
 その夜、果月は再び友弘を凌辱する夢を見てしまった………

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