小鳥遊 友弘(たかなし ともひろ)
   …34歳、能面師、果月の義理の父
小鳥遊 果月(たかなし かげつ)
   …20歳、能楽師、小夜子の子。父親は不明
小鳥遊 小夜子(たかなし さよこ)
   …没29歳、故人、旧姓は近江小夜子。十郎の姉
近江 十郎(おうみ じゅうろう)
   …34歳、能楽師、近江家の嫡男で小夜子の弟。果月の叔父
近江 玄雄(おうみ げんゆう)
   …66歳、能楽師、近江家の家長。十郎、小夜子の父で果月の祖父

     秘すれば………6

「お前、一体何があったんだ?」
「…………………」
 武の問に果月は何も答えられなかった。昨夜、家を飛び出した
彼は行く宛もなくさまよい歩き、気がつくと朱雀能楽堂に来てい
たのである。
 そこで空室になっている内弟子用の部屋を使わせてもらい、夜
を明かした。
 ここで内弟子として住込んでいる武は何ごとかと驚いていたが、
とりあえず昨日は何も聞いてこなかった。果月のあまりの落ち込
みように聞けなかったのである。
 武は友弘に連絡しておけと言ったが、果月は出来なかった。彼
が心配しているだろうと分かっていたが、話す言葉が思いつかな
いのだ。
 もしかして、自分を心配して寒空の下探し回って風邪でもひく
んじゃないか、一晩中眠れずに待っているのでは、といろいろ考
えた果月は結局自分の方が眠れなかった。
 朝になり、果月は赤く目を腫らしたまま、食堂で茶を飲んでい
た。当然食欲はわかず、用意された朝食は食べていない。
「小鳥遊さんと喧嘩でもしたか?」
 昨日は我慢したが、今日は聞かせてもらうぞ、と言わんばかり
に武は質問してくる。
「どうせ、お前が悪いんだろ、さっさと謝っちまえよ」
 謝ってすむならどんなに良かったろう。確かに謝れば友弘は許
してくれるだろうが、問題は自分にあるのだ。
 想いを吐露した今、彼と普通に暮らすなんてもう出来なかった。
 昨夜は無理矢理奪った唇の感触を思い出し、果月は何度も寝返
りをうった。あの時、友弘が床に蹲った姿を見た時でさえ、震え
る小さい背中に凶暴な想いを抱いたのだ。
 六年前の十郎の事を知らなければ、襲い掛かっていたかもしれ
ない………
『彼を守ろうと決めていたんじゃないのか?その自分が傷つけて
どうする?これではあの男と同じじゃないか、最低だ………』
 自分の醜さにとことん落ち込み、果月は深くため息をついた。
「果月、ちょっと来なさい」
 廊下から須藤に声をかけられ、果月は練習前の誰もいない稽古
場に入った。
「昨日、小鳥遊さんに連絡をしておいた」
 果月は突かれたように顔を上げた。
「何があったかは知らんが、お前が落ち着くまでこちらで預かっ
ておくよう話しておいたから」
「………ありがとうございます……」
「小鳥遊さん、心配してらしたぞ………」
「……………」
「その歳になって親を心配させるとは感心せんな………特にお前
達は親一人子一人だろ」
「……はい……申し訳ありません………」
「……立ち入った事を聞くようだが……もしかして養子縁組の話
のせいか?」
 果月は静かに首を振った。
「本当にか?」
「……はい……」
 きっかけではあったが、原因ではない。
「分かった……だが、養子の件は十分考えて決断しなさい。私は
いい話だと思うがな……」
「……はい……」
「では、一時間後に稽古を始めるから、準備をしなさい」
「分りました………」
 出て行く須藤に頭を下げると、果月はほっと息をついた。
『……養子か……それがいいかもしれないな………』
 もう家に帰れないのだから、この話を受けて二度と友弘に会わ
ないようにすれば、彼を傷つける事はあるまい………
 どうして言ってしまったのだろう……
 あの時、心が揺れ過ぎて自制がきかなくなっていた……
 胸が痛くて、どうしたらいいか分らなくて………
 自分の気持ちに気付かない彼を滅茶苦茶にしてやりたかった……
 昨夜、抱き締めた友弘の身体は、手の中にすっぽりと入ってし
まうくらい小さかった。回した腰も細くて、簡単に押し倒せそう
で………
 彼の感触を知ってしまった今、次に会った時は堪えられそうも
ない……
『もう、戻れないんだな………』
 共に暮らしてきた12年間……そのすべてが昨日の夜で終わって
しまったのだ………
 孤独とあまりにも大きな喪失感が果月を苛んでいた………

        *

 果月が朱雀能楽堂の方で暮らし始めてから一ヶ月が過ぎようと
していた。
 友弘はキッチンで遅い昼食を食べながら、静まりかえった部屋
を見渡した。
『静かすぎる………』
 果月と共に暮らした日々の思い出が次から次へと蘇り、友弘は
せつなくなる。
 それに、一人で食べる食事がこんなに味気のないものだったな
んて………
 ずっといっしょに暮らしてきた家だったのに…見慣れた室内が
やけに殺風景に見えて哀しくなった。
 小夜子と三人で住んだのは二年間だけ。そのあとの10年間は二
人で思い出を刻んできた。笑って、怒って、果月が子供と頃は時々
喧嘩もしたりして………
 もちろん、次の日にはお互いケロッと忘れて仲直りするのだが。
 そんな当たり前の家族の生活を友弘はいつも夢みてきた。今ま
ではそんな夢の中にいたのに………
 胸が締め付けられるような痛みを覚え、振り切る為に立ち上が
った。
 ほとんど食べないまま片づけを始める。
 あの日の夜、須藤から電話をもらい果月が朱雀の方に居ると分
ってとりあえず友弘はほっとした。須藤は何回か電話をくれたら
しいが、飛び出して行った果月を探して外を探しに出ていたので、
友弘がそれを知ったのは日付けが変わろうとしていた時刻だった。
 詳しい話はしなかったが、何かを察してくれたようで、須藤は
しばらく果月を預かるといってくれた。
 だが、これからどうしたらいいのだろう………
『もう元には戻れないのか………?』
 いや、そんな事はない、きっと何か方法がある筈だ。果月と
会ってきちんと話し合えば………
 でも何を話せばいいんだろう……?
 自分が果月を大切に思っている事や、今までの思い出を語り
合うのか?
 大切に思っている?息子として………?
 だが、果月はそれを拒んだのだ。息子として私が再び接する事
は彼を苦しめる………
 では、一人の男として彼を見た時、自分はどう思っているんだ
ろう……?
 考えようとした友弘だったが、抱き締められた時の果月の強い
力を思い出し、身体が強張る。
『……怖い………』
 考えたくなかった……自分の裡に潜む何かが変わっていってし
まう気がして友弘はそれが怖かった。
 どうしたらいいのだろう……
 この一週間、どれだけ考えても堂々巡りで、いい考えなど思い
浮かぶ筈もなかった。
 やはり、もう戻れないのか………
 また、一人になってしまう………
 友弘の胸が締め付けられた様に痛み、思わず手をあてる。
 痛みが収まると小夜子の位牌が置いてある和室で、遺影と位牌
の前に正座して心の中で小夜子に語りかけた。
『小夜子さん、ごめん……俺は果月の父親になるって約束したの
に、駄目だったみたいだ……ごめん………』
 父親………
 果月にとって自分は一度も父親になれなかったのだ………
 でも、自分は果月を息子だと………
 本当にそうなのだろうか?自分はいつも彼を息子として見てい
たのだろうか?
 友弘は小夜子の遺影を見つめ続けていた。そして、ある事にふ
と気付く。
『え………?』
 確かめるべく、友弘は隣接してある作業場に向かい、そこに保
管している小面を二つ取り出して見比べた。
 もう一つは10年程前に打った小面で、小夜子の面影が色濃く反
映されている。もう一つは二年前に生徒への見本として打ったもの
で、友弘自身は他のもう一つと同じく小夜子の影が写っていると
思ってきたのだが………
『……違う………』
 二年前に打った面に写っているのは小夜子ではない。彼女に似た
他の誰かである。
『……あ…………』
 愛しいと想っているものを無意識に写してしまう………
『……なんて事だ………』
 友弘は自分の想いに気付き、胸が苦しくなった。感情が込み上
げてきて、瞳から涙が溢れる。
『……俺は……果月を…………』
 ばかな………!そんな訳ない………そんな事が………
 あってはならない事だ………
 自分達は親子で、果月は小夜子の子で………
 友弘は自分の想いを必死に否定した。
 元に戻るのが一番いいのだ。元の仲の良い親子なら、ずっとい
っしょにいれられのだから………
 果月もいつか諦めてくれるだろう………
 そう言いきかせながら、決して元には戻れないと、友弘は心の
どこかで分っていた………

 近江家での稽古を終えると、果月は玄雄に呼び出された。今ま
で聞いてこなかったが、友弘との仲違いの理由を問うてくるだろ
うと果月は察していた。
「まだ朱雀の方で寝起きをしているのか。正式に内弟子にした訳
ではないのだぞ」
「……申し訳ありません………」
「須藤がしばらく様子を見よう、と言うので黙っていたが、もう
一ヶ月が過ぎようとしているぞ……なぜ、家に戻らん」
「……………」
「友弘と何があったのだ?」
「……………」
「例の養子の件で彼と揉めたのか?」
「……………」
「何を怒っているのかは知らんが、どうせ、お前が悪いんだ。意
地を張らずに家に戻れ。彼は黙って許してくれるだろう」
「……………」
「なんなら私から一言彼に言ってやろうか?」
「……いいえ………」
「では、どうするつもりなのだ……?」
「………養子の……話を………」
「ん……?」
「……俺を養子にしたいとおっしゃっている方とお話させて下さ
い……」
「引き受ける気か………?」
「お会いしてから決めたいと思います……」
「……分かった…先方さんと連絡をとって日取りを決めよう。友
弘も同席させようか?」
「いいえ!」
 果月が大声をだしたので、玄雄は一瞬驚いた。
「……俺だけで………」
「……分かった……私はいい話だと思うぞ……」
「……はい…ありがとうございます………」
 部屋からでた果月は重い足取りで廊下を歩いていた。
『これで……いいのだ……養子となって他の家に入って、友弘と
離れるのだ……』
 これが一番いいのだと何度も自分に言い聞かせながら、果月は
大声で叫びそうになる気持ちを必死に押さえていた。
 胸が裂けそうで苦しい夜を毎日過ごしたが、あの日吹き出した
血は止まらず、今も流れ続けている。
『よく、立ってられるな………』
 果月は自分をそんな風に思った。
 ふと、顔をあげると反対側の廊下から十郎が歩いてくる。
 果月は弱っているところを見られたくなくて、背筋を伸ばして彼
を睨み付けた。
 十郎は一度も目を合わさず無言で通り過ぎる。
 相変わらず何も言わず、自分を無視している彼だが、何があった
か気付いているような気がする。もしかしたら、今の自分の心情を
一番分っているのは彼かもしれない………
 家を飛び出した当初、果月は稽古に身が入らず、何度も玄雄と須
藤に叱責された。そんな時、十郎が自分を見ているのを知り、灰と
化していた心に火がついたのである。
 彼にだけは負けたくない……と……。
 闘志から気力を奮いたたせ、なんとか稽古は集中できるようにな
った。
 しかし、稽古が終わればまた現実を思い出して落ち込むという事
を繰り返している。
 今も十郎が通り過ぎた後は気が抜けて、また肩を落としてしまう。
 皮肉な事に、十郎への憎しみが今の果月を支えていたのであった。
 その日の夕暮れ、果月は夕食の買い出しに外に出掛けた。
 最近、春が近付いたせいか、やっと暖かくなり始めていたが、果
月の心は黒い暗雲が立ちこめたままである。
 友弘と最後に買い物に出掛けたのはいつの事だったろう………
 ほんの一ヶ月前の事が恐ろしい程大昔の出来事のように思える…
 軽くため息をつきながら、とぼとぼ歩く。ふと顔をあげると、前
方に友弘の姿が飛び込んできて息が止まった。
 友弘も驚きの表情をして自分を見つめたまま固まって立っている。
 一ヶ月ぶりに見る彼は少し痩せたように思えるが、変わらずに愛
しい人だった……
 心臓の高鳴りがガンガンと耳に響き、口から飛び出るのではない
かと思うぐらい跳ねている。
『……駄目だ……駄目だ……』
 今、彼と会ってはいけない………!
 裡からせり上げってきた激しい歓喜に飲み込まれまいと、果月は
後ろを向いて走り出した。
「…あっ……果月……待っ………!」
 友弘の声が背中越しに聞こえるが、足は止まらない。道路に飛び
出し、反対側の道に逃げようとしたが
「危ない!」
「え!」
 横から猛スピードのトラックが迫っていた。果月は咄嗟に後ろに
飛び、地面に転がりながらも、なんとかトラックを寸で躱す。
「気をつけろ!」
 トラックの運転手が罵倒を浴びせながら去っていく。
「大丈夫かい、あんた」
「はい……」
 周りの人が心配そうに声をかけてくれる。地面に転がった果月が、
ばつが悪くなりながらも起き上がった時、誰かに腕を掴まれる。
「え………?」
 腕を掴んだのは友弘だった。真っ青な顔をして、身体が微かに震
えている。
「……おい……友弘………」
 果月の心臓はますます激しく高鳴る。友弘に掴まれた腕が熱を帯
び、それが全身にゆっくりと広がってくるようだ。押さえがきかな
くなる前に彼から離れなければ……
「……離せ………」
「……………」
 果月はできるだけ友弘を見ないようにして声にだした。だが、友
弘は掴んだ腕を離さなかった。
「……おい………」
「……………」
 その時果月は掴んでいる友弘の手が震えているのに気付いた。
 ちらりと彼を盗み見ると様子がおかしい。
「……友弘………?」
「……………」
 真っ青な顔色は元に戻らず、震えも止まる気配はない。なにより
目が何も見ていないようにうつろなのだ。
 いくら声をかえても、聞こえていない様子で果月は困った。周り
の人々もじろじろと見ているので、仕方なく家まで連れて行く事に
した。
 玄関で離れよう………
 そう思って腕を掴んだまま離さない友弘を、引きずるように家に
連れて帰る。だが彼の様子はまったく変わらず、本気で心配になっ
た果月はそのまま家の中に入った。
 居間で友弘の正面に立ち、声をかける。友弘の顔を見るのが怖く
て道中はできなかったが、彼の尋常でない様子に不安がつもったの
だ。
「友弘、大丈夫か?」
 顔を覗き込んで声をかけると、うつろだった彼の瞳が少し動く。
「……あ………」
「……友弘………?」
「……果…月………」
 潤んだ瞳が自分の姿をとらえたのが分ると、果月は腕を無理矢理
振払い、彼から飛び退いた。
 沸き出そうとする凶暴な想いを必至に押さえる。
「……怪我……ないのか………?」
 震える彼の声にこれ以上いっしょにいてはいけないと思い、咄嗟
に自分の部屋に逃げ込んだ。
 自分を押さえる自信がなくて怖くなる。この家を出なければ、と
思うが、あんな様子の友弘を置いていくのが心配だった。
『どうすればいい………』
 自分の部屋で熱い想いを持て余してぐるぐる歩いていると、襖が
開き、救急箱を持った友弘が入ってきた。
 顔色はまだ青かったが、瞳はうつろでなく、震えも止まっている
ようだった。
「……な…んの用だ……」
「……怪我……してる………」
 友弘が指差した肘を見ると、少し擦りむいていた。
「……たいした事ない………」
「……駄目だ……みせて………」
「……出て行ってくれ………」
「……手当て…しないと………」
 果月はだんだん腹がたってきた。
 ほんの一ヶ月前に自分が言った事を覚えていないのだろうか?
 自分が今、どんな想いを押し殺しているのか彼はまるで分ってい
ない。
 どれ程彼を想っているか、どれ程苦しいか………
「いい加減にしろ!とっとと出て行け!」
「………………」
「いっそトラックに牽かれて救急車で運ばれるぐらい重症になれば
良かったよ!」
 そうすれば、今、こんな苦しい想いを抱えて友弘の側にいる事
もなかったのに!
 吐き捨てるように言った果月の頭を友弘はいきなり叩いた。
「……え………」
 痛みよりも驚きで果月は呆然とした。
 親子となった12年間、友弘が果月に手をあげるなど一度もなか
ったからである。果月だけでなく、誰に対しても暴力的な動作は
一切しない彼だったからだ。
「……友弘………?」
「……な、なんて事言うんだ、こ…このばか男!」
「…………へ………ばか男………?」
「救急車で運ばれるなんて……冗談でも言うな!」
「……ばか男だと………俺がばかなら友弘はなんだよ!この鈍感
男!」
「な、なに………!」
「そうだろ!一体何年いっしょに暮してきたと思ってるんだ!少
しは俺の気持ちに気付いてくれてもよさそうなもんだろうが!」
「そ、そんな勝手な……お前は隠してきたんだろ!気付ける訳な
いだろ!」
「ぐ……で、でも少しは察してもいいもんだろうが……!」
「無理に決まってるだろ!」
「それは友弘が鈍感だからだろうが!」
「鈍感で悪かったな、ばか果月!」
「どうせばかだよ!ばかだから友弘を好きになっちまったんだ…
…!」
「………………」
「……俺だって……好きになりたくなかった………!」
「………………」
「……友弘を好きになっても……何も……何もかえってこないの
に………」
『なのにどうして………』
 泣きそうな顔をした友弘が果月をじっと見つめる………
『どうしてこんなに好きなんだろう………』
 もう、駄目だ………
 果月は想いを押さえきれずに、友弘を強く抱き締めた。
「……好きだ……好きだ………」
「……果月………」
 果月は友弘を抱き締めたまま激しく口付けた。
「……ん……うん………」
 友弘のくぐもった息を漏らす声が聞こえて、果月の欲望は煽ら
れる。後ろにあった自分のベッドに友弘の身体を押し倒し、上か
ら覆いかぶさった。
 友弘の頬を両手で包み込み、再び熱く口付ける。唇を離して果
月は彼の項に噛み付いた。
「………あ………」
 友弘の掠れた声に果月は目眩がしそうだった。しかし、どうし
て彼は抵抗してこないんだろう………?
「……友弘……なんで、抵抗しないんだ………?」
「……………」
 囁きながら果月は友弘の服を脱がせ始めていた。
「………俺は止めないぜ……好きなんだから抱くぞ………」
「……………」
 怖くて顔を上げられなかったが、一向に抵抗も言葉もない事に
不安になった果月は友弘の顔を覗き込んだ。このままでは本当に
凌辱してしまうかもしれない。冷たい言葉や態度で自分を止めて
欲しいのだ。
 すると、瞳からぽろぽろと涙を流している友弘の姿が目に飛び
込んできた。
「……友弘………」
「………にたい………」
「………え…………?」
「…一日でもいい……お前より先に死にたい………」
「……友……弘…………」
「………もう……置いていかれるのは嫌だ………」
 濡れた声で囁きながら、友弘は確かめるように果月の頬を手で
包む。
 果月は友弘の気持ちを感じて胸が苦しくなった。心臓が激しく
高鳴る。
「……友弘……俺はいかないよ………」
「……本当か………?」
「……俺は置いていったりしない………約束する………」
「……本当だな………」
「………ああ………」
 友弘は果月の首に震える手を回して抱きついてきた。
「……絶対……本当だな……もう……俺は堪えられない………」
 愛する人を失う事に…………
 友弘の声にならない言葉が聞こえて果月は信じられない程の幸
福感に包まれる。友弘の背中に腕を回して彼を強く抱き締めた。
「大丈夫だ……絶対に置いていかないから………」
「……本当に……本当だな………」
「………ああ………」
 友弘を安心させる為、果月は何度も頷いた。頬を撫で、キスで
涙をぬぐってやり、熱く口付けると、友弘の果月の首に回した手
に力がこもる。
 果月は友弘の身体から残っていた衣服を剥ぎ取った。
 日はとうに暮れ、部屋の中には夕闇が落ちている。
「………あ…………」
 果月が友弘の露になった身体を確かめるように、指で、唇で触れ
ていくと、彼は甘い吐息を漏らし始めた。
 本当にいいんだろうか………?
 触れてもいいんだろうか………?
 だが、熱い想いに突き動かされる果月は止まらなかった。
 友弘は自分を抱き締めている男の体温を感じて心が震えるのを感
じた。
 あの時、果月の姿が往来で見えた時、友弘は歓喜した。そしてそ
の喜びは父が息子の対して抱く想いでない事に気付いた。その喜び
には甘美があり、ときめきがあり、思慕があったのだ。
 果月がトラックで見えなくなった時には、無の世界に落ちたのを
感じた。
 何もない暗黒の穴にストンと落ちていく自分を感じたのである。
何も、何もない無の世界に………
 それは小夜子を失った時に感じた孤独の暗闇に似た世界だった。
その時の孤独を思い出して友弘は身体を震わせた。
「……大丈夫か………?」
 果月の言葉に友弘は頷いてみせた。部屋は真っ暗でお互い何も見
えなかったが、気配が分ったのだろう、果月は一瞬止めていた手を
動かしだした。
 果月の顔は見えず、どこに触れられているのか肌で知るしかなかっ
たが、その方が友弘は気持ちが楽だった。触れられている事が恥ず
かしくて視線に堪らなかったからである。だが、その羞恥心以上に
友弘は果月を感じていたかった………
 彼が離れていかないと、決して独りにはならないのだと確証させ
てくれる何かが欲しかった………
「……あ……う………」
 果月の触れている箇所から身体が熱く染まっていく。今、自分を
抱いている男の色に染まっていくのだ……
『今、自分を抱いている男を……俺は愛している………』
 小面に写っていたのは小夜子ではなく、果月の面影だった………
 無意識に愛しい人の面影を写していて………
 一体いつから彼を想っていたんだろう。
 もう、ずっと長い間息子ではなく、一人の人として愛してたん
だ………
 だけど、それを認めるのが怖くて、自分の気持ちは息子に対して
もつ愛情なのだと言い聞かせてきた。親ならば、息子が結婚しても、
ずっと変わらず父親でいられるから、離れずにすむから………
 果月から告白された時、とても怖くてどうしたらいいか分らなかっ
たが、それは今の関係が壊れてしまうという不安があったからだ。
しかし、心のどこかで果月の言葉を甘く感じている自分もいた。
 暗闇の穴に再び落ちて、友弘は自分が誰を必要としているかはっ
きりと知ったのである。
「……あっ……そ、そんな………」
 信じられない箇所に濡れた舌を感じて、友弘の身体がビクリと跳
ねた。
 暗闇で見えないが、手を伸ばすと果月の頭に触れた。いつの間に
か果月の身体が膝の間に入り込み、足を開かせていたのである。そ
して、その中心に彼は顔を埋めている。
 今まで知らなかった激しい快感と羞恥が友弘の身体に沸き上がり
始める。
「……だ、駄目だ……やめて………」
 友弘は果月の髪を掴んで必死に訴えたので、果月は顔をあげた。
代わりに今度は手の感触が友弘を追い上げだした。
「…あ!……い……いや………」
 自分の周りの空気が一気に水を吸い込んだように重みを帯びる。
ゆっくりと、まるで蜜の中に沈んでいくような甘い息苦しさを友弘
は感じた。
 友弘の悲鳴のような声が聞こえるが、果月はやめる事ができなかっ
た。それよりも彼の啜り泣く声に欲望を掻き立てられる。もっと、も
っと聞いていたい………
 もっと彼の身体に触れたかった………
 恥ずかしいところも、触れていないところなどないくらいに………
 やがて、友弘の背中が撓り、果月の手を濡らすとぐったりとした身
体をベッドに沈めた。荒い呼吸で息を喘がせている。
 果月はその熱い息さえも奪うように口付け、どうしようもなく昂っ
ている自分を感じた。友弘の膝を抱え上げ、腰を浮かせる。
「……あ………」
 友弘が今から起こるだろう行為を感じ、身体を強張らせる。果月の
背中に手を回してしがみついた。
 彼の膝頭が自分の掌にすっぽりと入ってしまうのに気付いて果月の
胸は愛しさでいっぱいになった。
 小さな身体を開いて自分を受け入れようとしてくれる友弘が愛しく
て堪らない。
 優しくしたい、包み込んでやりたい………
「……友弘………」
「………はあ……う………」
 果月は友弘の頬に口付けながら、一つになる為に動きだした。
「あ……!……あう………!」
 果月を自分の中に感じて、友弘の裡に切ない嵐が沸き起こる。
 身体中が熱くて、苦しくて、頭がおかしくなりそうだ。しかし、同
時に歓喜の渦にも飲まれていた。
「……はあっ……う…ん………」
 激しく揺さぶられながら、友弘は十年前のあの夜を思い出していた。
小夜子を失った孤独に震えていた夜……自分のところにやってきた小
さな果月を抱き締めて眠った夜………
 あの夜、自分が彼を抱き締めていたつもりだったが、本当は果月が
自分を抱き締めてくれていたのだと気がついた。
 彼が自分を救いだしてくれたのだ。孤独という名の暗闇から………
 切なくて、友弘の瞳から涙がこぼれる………
「……果…月………」
「……友弘……愛してる………」
 二人の身体は一つになって揺れ、共に悦楽の波に溺れていった………

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